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# 第99話:喪失の朝と、遺された問い



 ――時は、少し遡る。


 アルトたちの馬車が、北へと向かっていた、その頃。

 山小屋の菜園に、バルディエルは、立ち尽くしていた。

 腕の中で、ゼルエルの体が、ゆっくりと、冷たくなっていく。


 どれほど、そうしていただろう。


 朝の風が、菜園の花を、揺らしている。鳥のさえずりが、遠くで聞こえる。何もかもが、変わらず、穏やかだった。


 ただ一つ。

 自分が、たった今、師を、この手で殺したという事実だけを除いて。


 ◇


(……なぜだ)


 バルディエルの、思考が、ぐるぐると回っていた。

 任務は、完遂した。裏切り者は、討った。天界の秩序は、守られた。

 自分は、正しいことを、したはずだ。

 なのに。


 なぜ、こんなにも、胸が痛い。

 なぜ、目から、涙が止まらない。


 そして――なぜ、この人は。


 腹を貫かれ、腕を失い、死にゆく間際まで。

 あんな、満ち足りた顔で、笑っていられたのか。


(見た、だろう――と、あなたは言った)


 バルディエルは、目を閉じた。

 継承されし曙光。ゼルエルが、命と引き換えに、自分の魂に刻みつけた、五十年分の記憶。

 それは、まだ、生々しく、そこにあった。


 ◇


 炎の中、子を庇う母親の、笑顔。

「大丈夫よ」と、そう言うように、我が子に向けられた、その表情。

 死を目前にして、なお。

 ソフィエルの、震える手。取り落とされた剣。


「これは、愛だ」と、そう呟いた声。

 地上の者たちが、歌を作り、絵を描き、墓を建て、花を手向けていた光景。


 道具が、そんなことを、するだろうか。

 心を持たぬものが、死者を悼み、まだ見ぬ未来を願うだろうか。


 そして――土を耕す、一人の青年。

 踏み荒らされた花壇で、しゃがみ込み、小さな野花を、一本ずつ、丁寧に植え直していた、幼い子ども。


「どうせ、また踏まれるだけだぞ」

「――でも、今、生きてるから」


(……あの言葉)


 バルディエルの胸に、あの声が、こだましていた。

 迷いのない、まっすぐな目。

 自分が、あの少年と、同じ問いに、辿り着いていたことを、バルディエルは知っている。


「俺は、信じてる」

「――私は、信じています」


 五十年前の、自分の声と。

 あの庭師の声が、重なった。


 ◇


 バルディエルは、ゆっくりと、ゼルエルの体を、地面に横たえた。

 血に汚れた白髪を、そっと、整えてやる。

 そして、開いたままの黄金の瞳を、指先で、静かに、閉じさせた。


 その顔は、穏やかだった。

 まるで、長い旅を終えて、ようやく眠りについたかのように。


「……師匠」


 バルディエルの口から、その言葉が、こぼれ落ちた。


「私は、あなたを、殺しました」


 返事は、ない。


「あなたは、裏切り者だった。天界の秩序を乱し、至宝を盗み、私を置いて、消えた。……憎んで、いました。ずっと」


 バルディエルの手が、震えていた。


「なのに、なぜ」


 声が、掠れる。


「なぜ、最後の最後に――私に、そんなものを、遺していったんですか」


 自分の目で、確かめろ。

 お前が斬ってきたものが、本当に、虫けらだったのか。


 そして――お前自身の、正しさを、信じろ。


「ずるい人だ、あなたは」


 バルディエルの頬を、涙が、伝った。


「そんなことを言われては……私は、もう」


 言葉が、続かなかった。

 朝の光が、師の亡骸と、跪く弟子を、静かに、照らしていた。


 ◇


 どれほどの時が、経っただろう。

 バルディエルは、立ち上がった。

 その顔からは、涙は、もう消えていた。

 代わりに――何かを、決意した者の、静かな目が、そこにあった。


「……確かめます」


 バルディエルは、ゼルエルの亡骸を、そっと、抱き上げた。


「あなたの言葉が、真実なのか。あなたが見せた記憶が、まやかしではないのか。……この、私自身の目で」


 そして、静かに、続けた。


「もし。もし、それが真実だったなら」


 バルディエルの黄金の瞳が、天を――天界のある、遥かな空を、見上げた。


「私は、五十年、間違い続けていたことになる。……その時は」


 言葉を、切る。


「その時は、私が、どうすべきか。自分で、決めます」


 バルディエルは、光の門を、開いた。

 その向こうに、天界の白亜の尖塔が、霞んで見える。

 帰るべき場所。守ってきた場所。信じてきた場所。

 だが今、その光景が――ひどく、遠く、見えた。


 ◇


 天界へと足を踏み入れる直前。

 バルディエルは、一度だけ、振り返った。

 朝日を浴びる、小さな山小屋。


 師が、五十年を過ごした場所。庭師として、一人の人間として、生きた場所。

 耕された、菜園の土。植え直された、小さな花。

 師とあの庭師が、最後に、二人で手入れをした庭。


「……綺麗な、庭ですね」


 バルディエルは、ぽつりと、そう呟いた。

 生まれて初めて、そんなことを、思った。

 花が、美しいと。

 生きているものが、愛おしいと。

 その感情の名を、バルディエルは、まだ、知らなかった。


 光の門が、閉じる。

 後には、朝日に照らされた、静かな庭だけが、残された。


(第99話 終)


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