# 第100話:世界樹の胎内と、試練の門
光の扉を、くぐった。
その先に広がっていたのは――言葉を失うほどの、光景だった。
「……なんだ、ここ」
アルトは、呆然と、天を仰いだ。
そこは、巨大な、空洞だった。
世界樹の、内側。幹の中とは思えないほどの、途方もない広がり。見上げても、天井は見えない。ただ、無数の光の粒が、蛍のように、ゆっくりと舞い上がり、遥かな高みへと、昇っていく。
足元には、透明な水面が、鏡のように広がっていた。踏み出しても、沈まない。波紋だけが、静かに広がっていく。
そして、その水面には。
無数の、映像が、映っていた。
「これは……」
アルトは、足元を、覗き込んだ。
水面の中で、光景が、流れていく。
森が生まれ、獣が駆ける。人が火を灯し、村を作る。誰かが笑い、誰かが泣き、誰かが死んでいく。戦があり、和解があり、子が生まれる。
「この星の……記憶?」
「はい」
フィリアが、静かに答えた。
その声が、いつもと、少し違った。
アルトが振り返ると――フィリアは、目を閉じ、この空間の空気を、深く、吸い込んでいた。
「聞こえるんです。……世界樹の、声が」
「声?」
「言葉じゃ、ないんですけど。……この樹は、ずっと、見てきたって。この星に、命が生まれてから、今日まで、ぜんぶ」
フィリアが、そっと、目を開けた。
翡翠の瞳が、光の粒を映して、揺れている。
「そして、待っていたって。……私が、還ってくるのを」
◇
二人は、水面を、歩き続けた。
やがて。
空洞の中心に、それは、あった。
巨大な、一本の若木。
世界樹の内側に、もう一本の樹が、生えている。天を貫く母なる樹とは違い、それは、人の背丈ほどしかない、小さな若木だった。
だが――そこから放たれる存在感は、圧倒的だった。
その若木の根元に、光の粒が、収束している。
「あれが……最後の断片」
アルトの、腰の鋏が。
かつてないほど、激しく、脈打った。呼応している。まるで、離れ離れになった半身を、見つけたかのように。
「アルト様、あれを……」
フィリアが、一歩、踏み出した。
その、瞬間。
――待て。
声が、響いた。
声、ではなかった。音でもない。だが確かに、二人の頭の中に、直接、響いた。
――器を持つ者よ。
アルトは、身構えた。周囲を見回すが、誰もいない。ただ、光の粒が、渦を巻いている。
――其方は、何者か。
「……アルトだ」
アルトは、まっすぐに答えた。
「アルト・バトラー。……ただの、庭師だ」
――庭師。
声が、繰り返した。
――そう。其方は、庭師。切る者。摘む者。選ぶ者。
光の粒が、ざわめいた。
――ならば問おう。庭師よ。
声が、静かに、続けた。
――其方は、何を切ってきた。何を、摘んできた。
アルトの、胸が、ざわりとした。
妙な、圧迫感。責められているわけではない。ただ、静かに、問われている。
「……何を、言ってるんだ」
――其方は、才能を剪定した。枝を落とし、根を断ち、形を整えた。それは、誰のためか。
「みんなのため、だ」
アルトは、答えた。
「シアも、テラも、エルダも、フィリアも。……みんなが、より良く生きられるように。俺は、そのために、鋏を握った」
――そうか。
声に、感情は、なかった。
――では問おう。其方が、当然のように見過ごしてきた命は、何のためであった。
「――え?」
アルトの、思考が、止まった。
見過ごしてきた、命?
◇
「アルト様?」
フィリアが、心配そうに、アルトを見た。
だが、アルトには、もう、彼女の声が、届いていなかった。
足元の水面が、光り始めている。
そこに映し出されたのは――記憶だった。
アルト自身の、記憶。
迷い子の森。フィリアと、初めて出会った、あの日。
狂暴化した、巨大な魔獣が、うずくまるフィリアへと、突撃していた。
巨大な牙。血走った目。地鳴りのような、突進。
――ワイルドボア。
あの時。シアの剣が、一閃。
その巨体は、紙細工のように、真っ二つに両断され、崩れ落ちた。
フィリアを、守るために。当然のこととして。誰もが、その死を、当たり前のように受け止めた。討伐依頼の、対象。狂暴化した、ただの魔獣。それ以上でも、以下でもない、と。
その死を悼む者は、誰も、いなかった。
「なんで、今さら、こんな……」
――知ることだ。
声が、告げた。
――目を逸らさず、立ち止まること。それが、時として、試練となる。
――あの獣は、なぜ、狂暴化していたのか。あの獣に、命は、なかったのか。其方は、考えたことが、あったか。
光が、アルトを、包み込んでいく。
「アルト様!?」
フィリアが、手を伸ばした。だが、その手は、光に阻まれた。
――案ずるな、鍵の娘よ。其方には、其方の試練がある。
「え……!?」
――器を持つ者よ。
声が、最後に、そう言った。
――其方が、当然と見なして顧みなかった命。その内側から。世界を、見てくるがよい。
◇
視界が、白く、染まった。
体が、溶けていくような感覚。上下も、左右も、分からなくなる。
(……なんだ、これは)
アルトの意識が、どこか遠くへ、引きずり込まれていく。
やがて。
遠くから、音が、聞こえてきた。
森の、ざわめき。
風が、木々を揺らす音。
土の、匂い。
そして――自分の、呼吸の音。
ずしり、と、重い。
体が、重い。
アルトは、ゆっくりと、目を開けた。
視界が、低い。地面が、近い。
自分の、手を、見ようとした。
そこにあったのは――太い、剛毛に覆われた、巨大な前足だった。
「――――!?」
声が、出ない。
喉から漏れたのは、低い、獣の唸り声。
そして、視界の隅に。
自分の、口元から突き出た、湾曲した、巨大な牙が、見えていた。
(……嘘、だろ)
アルトは、悟った。
今、自分は。
かつて、フィリアを救うために討たれ――自分が、その死を、当然のものとして見過ごした。あの、ワイルドボアの内側にいる。
(第100話 終)




