# 第98話:慧眼の一手と、還らぬ仲間
「あそぼう、って、思ってたのに」
サタネルの黒い霧が、里全体を覆い尽くさんばかりに、膨れ上がる。
「もう、やめた。……ぜんぶ、腐らせる」
里の木々が、その霧に触れ、みしみしと、黒く朽ちていく。世界樹の若い枝の一本が、力なく、垂れ下がった。
「させないよ」
だが、その霧の進行が――ぴたりと、止まった。
シャムシェルが、片手を、かざしている。
その手のひらから放たれた黄金の魔力の膜が、黒い霧を、押し留めていた。
「不浄の権能。実体を持たず、触れたものを腐らせる。……厄介だが、弱点がないわけじゃない」
シャムシェルの黄金の瞳が、冷静に、サタネルを見据える。
「あんたのその霧、実体がないってことは――『核』が、どこかにあるはずだ。霧を操る、本体がね」
サタネルの動きが、一瞬、強張った。
「……ちっ」
「図星、かい」
シャムシェルが、にやりと笑った。
「五十年前、あたしは、あんたら双子の権能を、研究対象にしてたのさ。清浄と不浄。対になる、珍しい権能だったからね。……サリエルの核は、錫杖。そして、サタネル。あんたの核は――」
シャムシェルの指が、す、と。
霧の中の、一点を指した。
「その、喉元に下げた、黒い宝玉だろう」
サタネルの手が、反射的に、自分の喉元へと――伸びた。
そこには確かに、黒く濁った宝玉が、下げられていた。
「……なんで」
サタネルの声が、震える。
「なんで、それを……!」
「言っただろう。お見通しだ、ってね」
◇
「シア!」
シャムシェルが、叫んだ。
「サタネルの、喉元の宝玉! あれを狙いな! あれが砕ければ、霧は消える!」
「はいっ!」
シアが、動いた。
だが。
「――させると、思う?」
今まで沈黙していたサリエルが、左手を掲げていた。
「浄化は、封じられた。……でも、ぼくの体は、まだ動く」
サリエルが、シアの前に、立ちはだかる。双子の片割れを、庇うように。
「サタネルには、指一本、触れさせない」
「……姉さん」
サタネルの声が、揺れた。
双子の間に、確かな絆が、見えた。
だが。
「――そいつが、あんたらの、甘さだよ」
その時。
サリエルの、背後。
いつの間にか、そこに――シャムシェルが、立っていた。
「なっ……!? いつの間に……!」
「伊達に生きながらえちゃいないさ」
シャムシェルの手が、サリエルのうなじを、掴んだ。
「【慧眼・真理の楔】」
黄金の光が、サリエルの体内へと、流れ込む。
「がっ……あ……!?」
サリエルが、膝をつく。体から、力が抜けていく。
「権能の流れを、直接、縛らせてもらったよ。……しばらく、指一本、動かせないねぇ」
「姉さん!!」
サタネルが、絶叫した。
その隙は――致命的だった。
◇
「テラ! 今だ!」
「応っ!」
テラが、地を蹴った。
狙うは、無防備になった、サタネルの喉元。黒い宝玉。
「腐れ……っ!」
サタネルが、咄嗟に黒い霧を、盾にする。だが。
「その手はもう、見た!」
テラの拳が――竜化した鱗の拳が、霧を突き破った。
腐食の霧が、鱗の腕を蝕もうとする。だが、テラは止まらなかった。歯を食いしばり、その痛みごと、拳を突き込む。
「うおおおおっ!!」
拳が、サタネルの喉元の黒い宝玉を――砕いた。
パキィン、と。
澄んだ音と共に、宝玉が、砕け散る。
その瞬間、里を覆っていた黒い霧が――霧散した。
「ぐ、あ……っ!?」
サタネルの体が、揺らぐ。実体を保てなくなったのか、その輪郭が、不安定に、ぶれた。
「……っ、姉さん、逃げるよ!」
「く……っ」
権能を縛られたサリエルと、核を砕かれたサタネル。
双子は、もはや、戦える状態ではなかった。
◇
「はあ……はあ……っ」
シアが、肩で息をする。テラの腕は、まだ黒く腐食したままだ。
そして――シャムシェルの膝が、かくん、と、折れた。
「おばあちゃん!?」
いや、フィリアはここにいない。声を上げたのは、シアだった。
「シャムシェルさん! 大丈夫ですか!?」
「……ああ、平気さ」
シャムシェルは、地面に手をつき、荒い息を吐いていた。その顔から、血の気が引いている。
「ちょいと、権能を使いすぎたね。……翼のない体で、無茶をしたもんだ」
シアの背筋が、冷えた。
オリビアの、最期が、脳裏をよぎる。翼を失った天使が、権能を行使した代償。あの人は、それで――。
「シャムシェルさん、それって……」
「心配ないよ。ソフィエルほど、派手には使っちゃいない」
シャムシェルは、強がるように、口の端を上げた。
「少し、休めば戻る。……それより、里だ。あの双子を、逃がすわけには」
シャムシェルが、追撃の魔力を練ろうとして。
――止まった。
◇
「――おやおや。実に、無様ですねぇ」
背筋を撫でるような、粘着質な声が、響いた。
全員が、振り返る。
里の入り口に。
いつの間にか、二つの人影が、立っていた。
一人は、ボサボサの白髪頭に、ずり落ちた眼鏡。痩せこけた体に、汚れた白衣。落ち窪んだ目だけが、爛々と輝いている。
そして、その隣に。
「……え」
シアの、剣が。
からん、と、地に落ちた。
「え……エル、ダ……さん……?」
そこに立っていたのは。
エルダだった。
だが――エルダでは、なかった。
◇
かつて艶やかな漆黒だった髪は、色を失い、月光のような銀に染まっていた。金と紫のオッドアイは、どちらも、天使と同じ――黄金色に、輝いている。
背には、白い翼が。
そして、その表情は。
無だった。
喜びも、悲しみも、怒りも。何ひとつ、浮かんでいない。人形のように、ただ、虚ろに、前を見ている。
「エルダさん……! エルダさんですよね!? 私です、シアです!」
シアが、叫んだ。
だが、エルダは――何の反応も、示さなかった。
瞬き一つ、しない。まるで、そこに立つ精巧な人形のように。
「無駄ですよ」
白衣の天使が、眼鏡を押し上げながら、くつくつと笑った。
「その個体の自我は、もう、ありません。私が、丁寧に、丁寧に、剪定して差し上げましたのでね。……今は、命令を実行するだけの、実に、美しい存在です」
「貴様……!」
テラが、怒りに、拳を握りしめた。
「エルダに、何をした!!」
「何を、とは失礼な。改良、ですよ」
白衣の男は、心底不服そうに、肩をすくめた。
「不完全な人類の因子を取り除き、完全なる天使の因子を接続した。これは、進化です。感謝されこそすれ、責められる筋合いは――」
「――ザミエル」
シャムシェルの声が、地を這うように、低く響いた。
その黄金の瞳に、明確な、憎悪が宿っている。
「あんたが、あたしの後釜かい」
「おや」
ザミエルが、初めて、シャムシェルを見た。
そして、にたり、と、口の端を吊り上げる。
「これはこれは。先代局長の、シャムシェル様。……あまりにしわくちゃで分かりませんでしたよ。あなたが遺した研究資料、実に、面白く、拝読させていただきました」
ザミエルは、うやうやしく、一礼した。
その仕草の慇懃さが、かえって、悪寒を呼ぶ。
「あなたが逃げ出した後、空いた椅子に、私が座らせていただきました。……ああ、感謝していますとも。おかげで、こんなにも、素晴らしい研究材料に、巡り会えたのですから」
ザミエルの手が、エルダの銀髪を、無造作に撫でた。
まるで、飼い犬か、実験動物にでもするように。
「……その手を、離せ」
テラの声が、震えていた。怒りで。
「エルダから、その汚い手を、離せ……!」
「おっと。怖いですねぇ」
ザミエルは、まるで意に介さなかった。
落ち窪んだ目が、爛々と、シアたちを――そして、閉ざされた世界樹の洞を、舐めるように見つめる。
「さて。ここには、【始まりの素体】と、設計図の器がいると、聞きましてね」
その眼鏡の奥の瞳が、狂気じみた喜悦に、歪んだ。
「ぜひとも、この目で、拝見したい。……ああ、この体を、隅々まで、解剖してみたい」
背筋の凍るような、恍惚の呟き。
「渡していただけますね? もし嫌だと仰るのなら」
ザミエルは、ちらり、と隣のエルダを見た。
「この個体に、あなた方を――殺させますが」
エルダの手が。
すっ、と、無感情に、持ち上がった。
その掌に、白い光が、収束していく。
「エルダ、さん……」
シアの唇が、わななく。
かつて共に笑い、共に戦った仲間が。今、無表情のまま、自分たちに、殺意なき殺意を、向けていた。
(第98話 終)




