# 第95話:始まりの御方と、最初の人類
エルフの女王――名を、ティターニアといった。
彼女は、動揺する民を落ち着かせると、来訪者たちを、里の中央にある大樹の館へと招いた。
館は、生きた大樹の幹をくり抜いて造られていた。壁からは若葉が芽吹き、天井からは蔓が優しく垂れ下がっている。広間には、清らかな水音が満ち、木漏れ日が、磨かれた木の床に、揺れる淡い模様を描いていた。
エルフたちが遠巻きに、しかし食い入るように、フィリアを見つめている。その視線には、疑いは、もうなかった。あるのは、ただ
――長く待ち望んだものに、ついにまみえた、という畏敬の念だけだった。
フィリアは、女王ティターニアと向かい合って座らされた。
同じ、金色の髪。同じ、翡翠の瞳。ただ黙って座っているだけで、二人は、まるで、姉妹のようだった。
「……信じられません」
ティターニアが、震える声で言った。
「まさか、この目で、【始まりの御方】に、まみえる日が来ようとは……」
「あの、その、【始まりの御方】って……」
フィリアが、おずおずと尋ねた。
「私、ただの……森で拾われた、捨て子で……」
「フィリア」
それまで黙っていたシャムシェルが、静かに口を開いた。
「あたしが、話そう。……もう、話すべき時だ」
一同の視線が、老婆に集まる。
シャムシェルは、いつものぶっきらぼうな表情の裏に、どこか、覚悟のようなものを滲ませていた。
◇
「あたしはね」
シャムシェルは、ゆっくりと語り始めた。
「天界にいた頃、研究局の局長ってのを、やってたのさ」
「研究局……?」
アルトが、聞き返した。
「天界の、あらゆる知識と技術を管理する部署さ。……そして、その中でも、最高機密を扱う場所だ。人類の設計図。この星の記録。天使の権能の解析。そして――」
シャムシェルの目が、フィリアを見た。
「最初の人類を保存していた。……つまり、あんただよ、フィリア」
「局長、ということは……」テラが、腕を組んで言った。「かなりの、地位だったのだろう」
「ああ。天界の秘密の、ほとんどを握れる立場さ。……だからこそ、あたしは、真実に気づけた。人間が、道具なんかじゃないってことにね」
シャムシェルは、遠い目をした。だが、その追憶を振り払うように、再び語り出した。
「……え」
フィリアの体が、固まった。
「思い出しな。アルトの鋏の話を。人類の設計図は、三つの断片に分けられた。シアに一つ、エルダに一つ。……そして、最後の一つは、この世界樹の中に、隠されている」
「じゃあ、私は……断片じゃ、ないんですか?」
「ああ。あんたは、断片じゃない」
シャムシェルは、フィリアを、まっすぐに見つめた。
「あんたは――この世界で一番最初に作られた、人類のオリジナル。すべての人間の、大本になった、たった一人の『原型』さ。そして……世界樹の中の最後の断片を取りに行くための、たった一つの『鍵』なんだよ」
広間が、静まり返った。
「天界は、あんたを『見本』として、ずっと保存していた。人類を作り、管理し、必要とあれば修正する。その基準となる、完璧なオリジナル個体としてね。……あたしは、局長として、あんたを管理する立場にいた」
シャムシェルの声が、わずかに、揺れた。
「五十年前。あたしたちが天界を裏切ると決めた時。あたしは、研究局から、
――幼いあんたを、抱えて、逃げ出した。この世界の、誰にも見つからない場所へ。……この、世界樹の森へね」
◇
「じゃあ……私は」
フィリアの声が、震えていた。
「人間じゃ……なかったってこと……?」
「いいや」
シャムシェルは、首を振った。
「あんたは、まぎれもなく人間さ。いや――一番、人間だ。あんたこそが、すべての人間の、始まりなんだから」
シャムシェルの手が、フィリアの頭に、そっと乗せられた。
「エルフって種族はね。あんたから、枝分かれして生まれたのさ。世界樹の森で、あんたのそばで、長い時をかけて、独自に育っていった民。……つまり、あんたは、エルフたちにとっても、文字通りの『始まりの御方』。祖にして、母なる存在なんだよ」
フィリアは、言葉を失っていた。
ティターニアが、静かに口を開いた。
「我らエルフは、代々、語り継いできました。いつか【始まりの御方】が、この地に還られる、と。その御方こそ、世界樹の真の主にして、我らの祖である、と」
ティターニアの翡翠の瞳が、潤んでいた。
「私がこの顔に生まれたのも、きっと……あなたの血を、最も濃く継いだからなのでしょう。……お会いできて、光栄です。我らが、母よ」
「そんな……母、なんて……」
フィリアは、うつむいた。
その肩が、小さく震えている。
天涯孤独だと思っていた。誰にも必要とされず、森に独りきりで、魔法だけを頼りに生きてきた。自分の存在に、意味などないと思っていた。
なのに。
「私……ずっと、独りだと思ってました」
フィリアの声が、掠れる。
「誰も、私のことなんて……いらないって。だから、必死に、強くならなきゃって……」
「フィリア」
アルトが、そっと、彼女の肩に手を置いた。
「独りじゃない。今は、俺たちがいる。……それに」
アルトは、優しく微笑んだ。
「お前は、いてくれるだけで、みんなの希望なんだ。ずっと、そうだったんだよ」
フィリアの目から、大粒の涙が、こぼれ落ちた。
それは、悲しみの涙ではなかった。
長い間、独りで抱えてきた孤独が、ようやく、溶けていく――そんな、温かい涙だった。
◇
しばらくして。
フィリアが、鼻をすすりながら、ぽつりと言った。
「……ねえ、おばあちゃん」
「なんだい」
「私の名前、おばあちゃんがつけてくれたんだよね」
シャムシェルの、皺だらけの手が、ぴくりと、止まった。
「……ああ。そうだよ」
「フィリアって、どういう意味なの?」
広間が、静まり返った。
フィリアは、まっすぐに、老婆を見つめている。
自分が、最初の人類で、エルフの祖で、世界樹の鍵で。そんな大きなものを、いきなり突きつけられて。
それでも、この子が知りたがったのは、たった一つ。
自分に、名前をくれた人の、想いだった。
シャムシェルは、しばらく、黙っていた。
それから。
「……知るかい、そんなもん」
ふい、と、そっぽを向いた。
「え!?」
「五十年も前のことだよ。適当につけたに決まってるだろう。ほら、あんときは追手もかかってたしね。ゆっくり考える暇なんざ、なかったのさ」
「そ、そんな……!」
「うるさいねぇ! 名前なんざ、記号だよ、記号! 呼びやすけりゃ、それでいいんだ!」
シャムシェルが、ぶっきらぼうに吐き捨てる。
「ええ〜……」
フィリアが、心底がっかりしたように、肩を落とした。
アルトは、その光景を見ていた。
そして――気づいていた。
そっぽを向いたシャムシェルの、その耳が。
かすかに、赤く染まっていることに。
(……なるほど)
アルトは、こっそり、笑った。
きっと、そこには、意味がある。とても大切な、意味が。
この頑固な老婆が、五十年間、誰にも言わずに、胸の内にしまってきた何かが。
(まあ、いつか話してくれるだろ)
そう思って、アルトは、口を挟まなかった。
◇
フィリアが、涙を拭って、顔を上げた。その目には、もう、迷いはなかった。
「……教えて、おばあちゃん。私が、何をすればいいのか」
シャムシェルは、満足げに頷いた。
「世界樹の、最深部。そこに、設計図の最後の断片が、眠っている。それを取り出せるのは――オリジナルであるあんたと、器の鋏を持つアルト。この二人だけだ」
シャムシェルは、世界樹の方角を、見やった。
「世界樹は、あんたを主として認めるだろう。だが……ただで、断片を渡しはしないよ。世界樹の中には、『試練』がある。それを乗り越えなきゃ、最後の断片は、手に入らない」
「試練……」
アルトが、呟いた。
「ああ。どんな試練かは、あたしにも分からない。入った者の、心次第で変わるとも言われている。……だが、お前たちなら、乗り越えられるはずだ」
シャムシェルは、アルトとフィリアを、交互に見た。
「アルト、フィリア。二人で、世界樹の中へ入りな。……あたしたちは、ここで、待ってる」
アルトは、頷いた。腰の鋏に、手を添える。
その鋏は――世界樹に近づいてから、ずっと、静かに、脈打つように、震え続けていた。
まるで、還るべき場所を、見つけたかのように。
「……行こう、フィリア」
「はい……!」
二人は、立ち上がった。
世界樹の、巨大な幹へと――足を、踏み出す。
その時は、まだ。
誰も、気づいていなかった。
里の外れの森に、音もなく忍び寄る、二つの影に。
(第95話 終)




