# 第94話:エルフの里と、瓜二つの女王
深い森の中を、馬車は進んでいた。
帝国を発って、幾日が過ぎただろう。街道はとうに途切れ、今は獣道とも呼べないような、木々の隙間を縫って走っている。
「おばあちゃん、本当にこんな所に里なんてあるの? さっきから森ばっかりだよ?」
フィリアが、御者台に身を乗り出して尋ねた。
「あるさね。……というより、もう、入ってる」
「え?」
シャムシェルが、ぴたりと馬車を停めた。
「ここから先は、歩きだよ。降りな」
一同が馬車を降りると、そこは、ひときわ深い森の入り口だった。
巨木が、天を覆うように聳え、昼だというのに、辺りは薄暗い。だが、不思議と、恐ろしさはなかった。むしろ――空気が、澄んでいる。呼吸をするたび、体の奥が洗われるような、清冽な気配。
「……すごい」
シアが、思わず呟いた。
「空気が、全然違います。まるで……森全体が、生きてるみたい」
「実際、生きてるのさ」
シャムシェルが、先頭に立って歩き出した。
「この森はね、世界樹の根の上にある。森全体が、世界樹の一部みたいなもんさ。ここに生えてる木も、流れてる水も、みんな世界樹と繋がってる。……ただの人間なら、一生かかっても里には辿り着けないよ。森が、迷わせるからね」
「森が、迷わせる……?」
「ああ。何日歩いても、同じ場所に戻される。方位磁石も狂う。目印をつけても、消える。世界樹が、招かれざる者を、拒むのさ。……天使どもですら、この森の最深部には、容易に踏み込めない」
テラが、感心したように木々を見上げた。
「なるほど。天然の要塞、というわけか」
「じゃあ、どうやって……」
「あたしがいるだろう」
シャムシェルは、振り返らずに言った。
「それに――フィリア。あんたも、いる」
「え? 私?」
フィリアが、きょとんとした顔をした。
シャムシェルは、それには答えなかった。
だが、アルトは気づいていた。
森に入ってから――木々が、フィリアを避けるように、道を開けている。絡み合った枝が、彼女が通る時だけ、ほんのわずかに、持ち上がる。足元の根が、彼女の歩みに合わせて、沈む。
まるで、森全体が。
彼女を、迎え入れているかのように。
◇
どれほど歩いただろうか。
ふいに、視界が開けた。
「――わ、あ……っ」
フィリアが、声を上げた。
そこは、光に満ちた、巨大な森の空洞だった。
天を突く大樹の幹に沿って、螺旋状に住居が連なっている。木と木の間には、緑に覆われた吊り橋。木漏れ日が、無数の光の柱となって、里全体に降り注いでいた。
水路を、澄んだ水が、さらさらと音を立てて流れている。花の香りと、若葉の匂いが、風に乗って漂ってくる。木の枝の上で、エルフの子どもたちが遊んでいて、その笑い声が、鈴の音のように響いていた。
帝国の炎を見た後では、まるで別の世界のようだった。ここには、戦争も、天使の影もない。ただ、穏やかな営みだけが、ある。
そして、その奥に――ひときわ巨大な、樹。
いや、樹という言葉では、到底、足りなかった。
天そのものを支えるかのような、途方もない巨木。その頂は、雲を突き抜け、見えない。幹の太さは、小さな街がまるごと入りそうなほど。無数の枝が空を覆い、その一枚一枚の葉が、淡い燐光を帯びて、静かに明滅している。
アルトは、圧倒されて、立ち尽くした。
庭師として、数えきれないほどの樹木を見てきた。だが、これは――「樹木」というより、もはや一つの「世界」だった。
そして、奇妙な感覚があった。
懐かしい、のだ。
初めて見るはずなのに。この樹の下に立つと、胸の奥が、じんわりと温かくなる。まるで、遠い故郷に、帰ってきたかのような。
(……なんだ、この感覚)
アルトは、無意識に、腰の剪定鋏に触れていた。
鋏が――かすかに、震えている気がした。
「あれが、世界樹だ」
シャムシェルが、静かに言った。
「この星で、もっとも古い、命の樹さ」
◇
一行が里に足を踏み入れると、すぐに、エルフたちが気づいた。
長い耳と、透き通るような肌を持つ、森の民。彼らは、見慣れぬ来訪者に、鋭い警戒の視線を向けた。
「人間……? なぜ、人間がここに」
「森を抜けてきたのか? ありえない……」
ざわめきが、広がっていく。
弓を手にした戦士たちが、静かに集まり始めた。張り詰めた空気。
「おっと、待ちな」
シャムシェルが、一歩前に出た。
「あたしだよ。シャムシェルだ。長老に取り次いでもらおうかね」
「シャムシェル様……!?」
エルフたちの間に、別のざわめきが走った。警戒が、驚きへと変わる。どうやら、シャムシェルはこの里で知られた存在らしい。
だが。
その時だった。
「――待って」
凛とした声が、響いた。
エルフたちが、さっと道を開ける。
その奥から、一人の女性が、ゆっくりと歩み出てきた。
豊かな金色の髪。翡翠色の瞳。白を基調とした、簡素だが気品のある衣。頭には、木の枝を編んだ冠。
里の女王だと、一目で分かった。佇まいが、周囲の空気そのものを、変えていた。
女王は、来訪者たちを、順に見た。
シャムシェルを見て、わずかに目礼する。旧知の仲、なのだろう。アルトを見て、シアを見て、テラを見て――その視線は、静かで、威厳に満ちていた。
そして。
フィリアに、その視線が――止まった。
ぴたり、と。
時間が、凍りついたようだった。
「……え」
女王の、翡翠色の目が、大きく見開かれた。
同時に。
「え……?」
フィリアも、固まっていた。
アルトも、シアも、テラも――言葉を、失った。
そこにいたのは。
フィリアだった。
いや、違う。フィリアではない。だが――同じ、顔だった。
金色の髪。翡翠色の瞳。顔立ちの、輪郭。唇の形。まるで、鏡に映したかのように。年齢だけが、少し違う。女王の方が、いくらか年上に見える。だが、それ以外は――瓜二つ、だった。
「な……んで」
フィリアの声が、震えた。
心臓が、早鐘を打っている。目の前の女性から、目が離せない。
鏡を見ているようで、鏡ではない。自分であって、自分ではない。生まれてからずっと、天涯孤独だと思っていた。血の繋がった家族など、どこにもいないと。
なのに――目の前に、自分と同じ顔をした人が、立っている。
「なんで……私と、同じ顔……?」
女王もまた、呆然と、フィリアを見つめていた。
その手が、口元を、覆う。
「そんな……まさか……」
女王の唇から、掠れた声が、こぼれ落ちた。
「【始まりの御方】……?」
その言葉が、落ちた瞬間。
里の空気が、変わった。
里中の、エルフたちが。一斉に、フィリアを見た。
弓を構えていた戦士が、その手を下ろす。水汲みをしていた女性が、桶を取り落とす。枝の上で遊んでいた子どもたちまでが、動きを止めて、フィリアを見つめている。
ざわめきが、波のように広がっていく。畏怖とも、歓喜ともつかない、震えるようなざわめきが。
やがて――一人の老エルフが、その場に、膝をついた。
続いて、もう一人。また、一人。
波が引くように、エルフたちが、次々と、フィリアに向かって、跪いていく。
「え……ちょ、ちょっと……!? な、なんで……!?」
フィリアは、ただ、立ち尽くすことしかできなかった。
向けられる無数の視線と、跪く民の中で。
自分と同じ顔をした女王の、震える瞳の中で。
何も、分からないまま。
「はじまりの、おかた……って……」
フィリアの掠れた呟きに、答える者は、まだ、いなかった。
(第94話 終)




