# 第93話:馬車の中の、静かな時間
馬車は、北へと向かう街道を、ゆっくりと進んでいた。
車輪が石を踏む音。馬の蹄の、規則正しいリズム。窓の外を、深い緑の森が、流れていく。
帝国の炎も、天使の影も、ここまでは届かない。久しぶりの、静かな時間だった。
「……アルト様」
向かいに座っていたシアが、遠慮がちに、口を開いた。
「最後、ゼルエルさんと……何を、話してたんですか?」
アルトは、少しの間、黙っていた。
庭仕事。土の匂い。師匠の告白。そして、あの問い。
「……昔話だよ」
アルトは、窓の外を見ながら、答えた。
「俺がガキだった頃の話とか。……なんで俺を弟子にしたのか、とか」
「なんで、だったんですか?」
フィリアが、身を乗り出した。
アルトは、ふっと笑った。
「……孤児院の庭で、踏まれた花を植え直してたんだと。俺が。全然、覚えてないんだけどな」
「花を……」
「『どうせまた踏まれるだけだぞ』って言われて、『でも、今、生きてるから』って答えたらしい」
シアと、フィリアが、顔を見合わせた。
それから、二人とも、ふわりと笑った。
「……アルト様らしい、です」
「うん。すごく、アルト様らしい」
「そうか?」
アルトは、照れくさそうに、頭をかいた。
「まあ……師匠は、それを見て、俺を選んだんだとさ。買いかぶりだと思うけどな」
「買いかぶりなものか」
テラが、腕を組んだまま言った。
「お前は、私にも同じことをした。朽ちるだけだったはずの私を……拾って、植え直した。あの爺さんの目は、確かだったということだ」
「……テラ」
アルトは、少し驚いて、テラを見た。
テラは、ふん、と鼻を鳴らして、窓の外へ目をやった。照れ隠しだと、全員が分かっていた。
車内に、柔らかな空気が流れた。
◇
「それにしても」
シアが、ぽつりと言った。
「ゼルエルさん、一緒に来てくれたら良かったのに……。元・筆頭なんですよね? すごく心強いのに」
「師匠にも、やることがあるんだろ」
アルトは、軽く答えた。
「小屋の管理とか、畑とか。……それに、また会えるさ。エルダを取り戻して、全部終わったら、みんなで報告に行こう。あの菜園、結構広いから、手伝いがいるんだ」
「はいっ! 私、お料理作ります! 採れた野菜で!」
「私は薬草の知識なら、少しは」
シアとフィリアが、楽しそうに声を弾ませる。
「ふん。私は力仕事だな。畑を耕すくらい、わけもない」
テラまでもが、まんざらでもなさそうに言った。
アルトは、笑った。
「決まりだな。……全部終わったら、みんなで、あの山小屋に行こう」
車内が、明るい約束で、満たされた。
誰も、疑っていなかった。
その約束が、果たされる日が来ることを。
◇
御者台で。
シャムシェルは、独り、手綱を握っていた。
車内の楽しげな声が、背中越しに、聞こえてくる。山小屋に行こう。みんなで。野菜を採って、料理を作って。
「……………」
シャムシェルは、何も言わなかった。
ただ、その皺だらけの手が、手綱を、強く、強く、握りしめていた。
――気づいていた。
あの小屋を発つ時。森の奥に潜んでいた、あの気配に。
息を殺し、完璧に隠形していた。並の者なら、絶対に気づけない。だが、五十年前、共に天界で戦った古い勘が、告げていた。
あれは――秩序の、バルディエル。
ゼルエルも、気づいていたはずだ。気づいていて、何も言わず、自分たちを送り出した。
最後に庭仕事などと、柄にもないことを言い出した、あの男。
別れ際の、あの穏やかすぎる顔。
(……ゼルエル。あんた……)
シャムシェルは、目を閉じた。
分かっていた。あの男が、何をするつもりなのか。何を、選んだのか。
止めることも、できた。声を上げることも、できた。
だが――しなかった。
あの男の選択を、五十年来の戦友の覚悟を、汚さないために。
(……勝手な男だよ、あんたは。昔っから)
薄く開けた目に、街道の先の空が、映る。
どこまでも、晴れ渡った、青い空だった。
その青さが、なぜだか、ひどく――目に、染みた。
「おばあちゃん?」
車内から、フィリアの声がした。
「どうしたの? 何か言った?」
「……何でもないさね」
シャムシェルは、いつもの、ぶっきらぼうな声で答えた。
「ほら、あんたたち。着くまでまだかかるよ。今のうちに、寝ておきな」
馬車は、進む。
何も知らない者たちの、明るい声を乗せて。
すべてを察した老婆の、沈黙を乗せて。
北の、エルフの里へ。
(第93話 終)




