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# 第92話:継承されし曙光



「お前が、その答えを、心の底から分かった時。……お前は、きっと、変われる」


 ゼルエルは、左手に握った光剣を、ゆっくりと、頭上へと掲げた。

 血を失った体が、ふらつく。だが、その構えには、迷いがなかった。


 集まる光が、収束していく。一振りの光剣に、さらなる輝きが、宿っていく。明けの星のような光が、菜園を、白く染め上げた。

 バルディエルの目が、細められた。


(……奥の手、か?)


 その構えを、バルディエルは知らなかった。五十年前にも、見たことがない。師の、最後の切り札。

 全身全霊を込めた、一撃。それが、来る。

 ならば――迷いは、ない。

 放たれる前に、潰す。


「……月虹げっこう


 バルディエルが、低く、呟いた。

 その刀が、月の光を纏い、最速の刺突へと変わる。

 バルディエルの姿が、消えた。


 気づいた時には――その刃は、ゼルエルの体を、深々と、貫いていた。


 ◇


 ズン、と。

 鈍い音と共に、暁月夜の切っ先が、ゼルエルの腹を貫き、背中まで突き抜けた。


「……っ、ぁ」


 ゼルエルの口から、血が、こぼれる。

 バルディエルは、刀を握ったまま、師の体を、見ていた。


 これで、終わり。

 任務は、完遂された。裏切り者は、討たれた。


 そのはずだった。


 だが――。


 貫かれたゼルエルの左手が、光剣を手放し、ゆっくりと、バルディエルへと伸びた。


「……?」


 バルディエルが、訝しんだ、その時。

 ゼルエルの左手が、バルディエルの頭を――がしりと、掴んだ。


「……っ!? 何を……!」


 バルディエルが、振りほどこうとする。だが、ゼルエルの手は、万力のように、離れなかった。死にゆく者とは思えぬ力で、教え子の頭を、掴んで離さない。


 そして。

 頭上に掲げられたままだった、光の輝きが――弾けた。


「これが――俺の、奥義だ」


 ゼルエルが、血を吐きながら、笑った。


「『継承されし曙光パラデドメネ・エオス』……!」


 眩い光が、ゼルエルの手のひらから、バルディエルの頭へと――流れ込んでいく。

 攻撃では、なかった。

 それは、夜明けの光が、闇を一掃するように。

 ゼルエルの記憶のすべてを、バルディエルの魂へと、直接、刻みつける――継承の光だった。


 ◇


 バルディエルの意識が、白く、染まった。

 そして――視えた。

 五十年前。天界の、間引きの現場。炎の中で、子を庇い、笑いかける、一人の母親。「大丈夫よ」と。その目に宿った、紛れもない、魂の輝き。

 ソフィエルが、剣を取り落とし、震えていた姿。

 カマエルが、上層部に食ってかかり、怒鳴っていた姿。

 地上の者たちが、歌を作り、絵を描き、死者を悼んで、墓を建てていた姿。

 それは、道具などではなかった。

 心を持ち、愛し、悲しみ、未来を願う――命だった。


 そして。


 土を耕すアルトの姿。野花を、一本ずつ植え直していた、幼い子ども。「でも、今、生きてるから」と。

 ゼルエルが、五十年間、地上で見てきた、すべて。

 人間という存在の、温もりの、すべてが。

 濁流のように、バルディエルの魂へと、流れ込んできた。


「あ……っ、ぁ、あああ……っ!」


 バルディエルが、絶叫した。

 頭を、掻きむしりたくなるような、情報の奔流。だが、それ以上に――心を、揺さぶられていた。

 これは、本当の、ことなのか。

 自分が、虫けらだと思って、間引いてきた者たち。あれは、本当に――心を持った、命だったのか。


「やめろ……っ、やめ、ろ……!」


 認めたくない。受け入れたくない。だが、ゼルエルの記憶は、嘘をつかない。光は、ただ、真実だけを、流し込んでくる。


 バルディエルの、五十年が。

 信じてきたものが。守ってきたものが。

 音を立てて、崩れていく。


 ◇


 やがて、光が、収まった。

 ゼルエルの手が、力なく、バルディエルの頭から、滑り落ちる。

 バルディエルは、刀を握ったまま、立ち尽くしていた。


 その目から――一筋、涙が、こぼれていた。

 自分でも、気づかぬうちに。


「……ぅ、あ……」


 言葉に、ならなかった。

 貫いた刀の先で、ゼルエルの体が、ぐらりと傾く。

 バルディエルは、咄嗟に――刀を引き、その体を、片腕で支えていた。

 殺した相手を。たった今、自分が貫いた、師の体を。


「……師匠」


 かつての弟子の口から、その言葉が、こぼれ落ちた。

 ゼルエルは、バルディエルの腕の中で、静かに、笑っていた。

 血に塗れ、片腕を失い、腹を貫かれてなお――その顔は、満ち足りていた。


「……見た、だろう」


 掠れた声で、ゼルエルが言った。


「俺が……なぜ、笑っていられたのか。なぜ、すべてを捨てて、地上の者を……選んだのか」


「……信じられるか、こんなっ…」


「そうだろう。だが――それでも、いい」


 ゼルエルの、血の気の失せた手が、バルディエルの頬に、そっと触れた。


「俺の言葉も、俺の記憶も……信じるかどうかは、お前が、決めろ」


 ゼルエルの黄金の瞳が、最後の力で、教え子を見つめた。


「自分の目で……確かめろ、バルディエル。お前が斬ってきたものが……本当に、虫けらだったのか。……お前自身の、目で」


 ゼルエルの声が、さらに、細くなる。


「そして……お前が見て、お前が考えて、お前が出した答えを……信じろ」


 五十年前。「あなたたちが間違っているのか、天界が間違っているのか」と問うてきた、あの新人。あの時、何も答えてやれなかった問いに――ゼルエルは今、ようやく、答えていた。


「誰かの正しさじゃ、ない。……お前自身の、正しさを……信じろ」


 それが。

 師の、最後の言葉だった。

 ゼルエルの手が、頬から、滑り落ちる。

 その瞳から、光が――静かに、消えていった。


 朝の光の中で。

 菜園の花に囲まれて。


 曙光のゼルエルは――かつての教え子の腕の中で、息を引き取った。

 満ち足りた、穏やかな笑みを、浮かべたまま。


 ◇


 どれほどの時間が、流れただろう。

 バルディエルは、ただ、動かなかった。

 腕の中の、冷たくなっていく師の体を、抱いたまま。


 朝の風が、菜園の花を、揺らしている。鳥が、遠くで鳴いている。


 何もかもが、いつも通りの、穏やかな朝だった。

 ただ一つ――その朝の中で、一人の天使の心だけが。


 かつてないほど、深く、揺れていた。


(第92話 終)


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