# 第91話:断たれた腕と、本気の月
「だから――剣で、語ろう。お前が、一番よく分かる言葉で」
ゼルエルの言葉と共に、その光剣が、輝きを増した。
朝の光を吸い込むように、刃が、白く燃え上がる。
「来い、バルディエル。お前の全力を、見せてみろ」
「……いいだろう」
バルディエルが、刀を、低く構えた。
その瞬間、空気が、変わった。
今までの剣戟が、嘘のように。その全身から、激していた感情が、潮が引くように、すっと消えていく。怒りも、戸惑いも、悲しみも。すべてを、心の奥底に沈め――ただ、一個の剣士としての、純粋な気配だけが、残った。
熱を帯びていた月の刃が、再び、冷たく、澄んでいく。月光のように、感情のない、静謐な輝き。
ゼルエルは、ぞくりとした。
これだ。この、底冷えのするような無心こそが――バルディエルを、権能なき身でありながら、天界第二位にまで押し上げた、本質。
ゼルエルは、その変化を見て――小さく、笑った。
(……ああ。これが、こいつの本当の剣か)
分かっていた。
ここまで、バルディエルは、本気ではなかった。感情を乱され、激情に駆られながらも――その剣は、まだ、どこかで力を抑えていた。師である自分への、無意識の遠慮。あるいは、認めたくない真実から、目を逸らすための、躊躇。
だが、今。
バルディエルは、そのすべてを、振り切った。
◇
バルディエルが、消えた。
ゼルエルの目には、確かに、そう見えた。
五十年、地上で研鑽を積んだゼルエルの動体視力。それをもってしても――その踏み込みの一歩を、完全には、捉えきれなかった。
「――月白」
声は、もう、すぐ耳元で、聞こえていた。
冷たく、静かな、しかし、凄まじい重さを秘めた一撃。
ゼルエルは、咄嗟に光剣を掲げ、それを受けた。だが。
ガキンッ、という音と共に、受けたはずの体ごと、ゼルエルは、大きく後方へと吹き飛ばされた。受け止めることすら、許されない圧力。
菜園の土を、抉り、なぎ倒しながら、無様に転がる。
「……っ、ぐ」
ゼルエルは、片膝をついて、立ち上がった。光剣を握る腕が、痺れている。たった一撃。たった一撃で、これだ。
速い。重い。そして、正確。
五十年前の、出来損ないの新人は――もう、どこにもいなかった。
「驚いたか」
バルディエルが、ゆっくりと歩み寄ってくる。その声は、再び、凪いでいた。
「あなたが地上で研鑽を積んだように。私も――あなたが去った天界で、ただひたすらに、剣を振ってた。出来損ないの身で、頂点を目指して」
バルディエルが、刀を構える。
「あなたに教わった剣で、あなたを超えるために」
◇
再び、二つの剣が、交わる。
だが、もはや――拮抗では、なかった。
ゼルエルは、防戦一方だった。光剣を振るい、必死に受け、捌き、いなす。だが、バルディエルの斬撃は、その悉くを、上回ってくる。一つ受ければ、次が来る。捌けば、その先を、すでに刃が走っている。速さも、重さも、精度も――そのすべてが、ゼルエルの、一歩先を行っていた。
「……ぐ、っ」
光剣で受けるたび、腕に痺れが走り、骨の軋む音がする。老いた体が、限界を訴えて、悲鳴を上げていた。汗が、額を伝い、視界を滲ませる。
月の刃が、頬を掠めた。肩を、浅く裂いた。じわじわと、確実に、ゼルエルは追い詰められていく。
翼を失った天使は、人間並みの寿命と、力しか持たない。一方、バルディエルは――翼を持つ、現役の天使。全盛期の、第二位。
力の差は、明白だった。
それでも、ゼルエルは、剣を手放さなかった。
「なぜ……っ」
バルディエルの斬撃が、ゼルエルの光剣を、激しく打ち据えた。
「なぜ、まだ戦える……! その体で! その力で! とっくに、勝てないと、分かっているはずだ!」
ゼルエルは、答えなかった。
ただ、笑った。
血の滲んだ口元で、穏やかに、笑った。
その笑みが――バルディエルの何かを、逆撫でした。
「……何がおかしい!!」
バルディエルの刀が、唸った。
「偃月……!」
低い呟き。
横一文字の、巨大な斬撃。月の刃が、薙ぎ払う。
ゼルエルは、光剣を両手で構え――いや、その膂力の前では、両手ですら、足りなかった。
光剣で、その一撃を、受け止める。
受け――きれなかった。
ミシリ、と光の刃が軋み、次の瞬間、耐えきれずに砕け散った。光の粒子が、朝の空気に、儚く霧散する。
そして、薙ぎ払いの勢いを殺しきれなかった月の刃が。
ゼルエルの右腕を――肩口から、深々と、断ち斬った。
「……っ」
鮮血が、舞った。
ゼルエルの右腕が、光剣を握ったまま、菜園の土の上に、落ちる。
「……っ」
バルディエルの足が、止まった。
その目が、わずかに、見開かれる。
地に落ちた、師の右腕。光剣を握ったまま、ぴくりとも動かない、その腕を、バルディエルは、見ていた。
殺すつもりで、来た。抹殺が、任務だった。なのに――いざ、師の血を見た瞬間。胸の奥が、ざわりと、波立った。
この腕は。自分に、剣の握り方を教えた腕だ。何度も、何度も、自分の構えを正してくれた腕だ。それを、自分は――。
だが、ゼルエルは。
倒れなかった。
膝もつかず、悲鳴も上げず。失った右の肩から、血を滴らせながら――ただ、まっすぐに、立っていた。
そして、残った左手を、静かに、掲げる。
その左の手のひらに、再び、光が――収束し始めた。
じわり、と。新たな光剣が、形を成していく。
血を失い、腕を失ってなお、消えることのない、夜明けの光が。
「……まだ、だ」
ゼルエルの声は、掠れていた。だが、その瞳の光は、消えていなかった。
「まだ、終わっていない、バルディエル」
◇
バルディエルは、立ち尽くしていた。
片腕を失ってなお、立ち上がる師。その姿に――言いようのない、感情が、込み上げてきた。
「……なぜ、だ」
バルディエルの声が、震えていた。
「なぜ、そこまでする。たかが、地上の者のために。心を持つように見えるだけの、道具のために。あなたは、天界の筆頭だった。力も、地位も、誇りも、すべてを持っていた。それを、すべて捨てて……腕の一本まで失って、それでも、なお」
バルディエルの刀を握る手が、わずかに、震えていた。
「なぜ、あなたは……そんな顔で、笑っていられるんだ……!!」
「バルディエル」
ゼルエルが、静かに、その名を呼んだ。
左手に光剣を握り、片腕を失い、全身から血を流しながら。それでも、その声は、どこまでも、穏やかで、優しかった。
「お前は、まだ――俺が、なぜ笑っていられるのか、分かっていないだろう」
「……っ」
「お前が、その答えを、心の底から分かった時。……お前は、きっと、変われる」
ゼルエルは、新たな光剣を、構えた。
「ならば、もう少し。剣を、交えよう」
朝の光が、片腕の老剣士を、照らしていた。
菜園の花が、風に、静かに揺れている。
その穏やかな光景の中で。
血を流す師は――まだ、笑っていた。
(第91話 終)




