# 第90話:曙光と暁月夜、相対す
「『曙光』のゼルエル……!」
バルディエルの声は、静かだった。だが、その奥に、抑え込まれた何かが、確かに滲んでいた。
ゼルエルは、ゆっくりと振り返った。
「久しいな、バルディエル。……いや、今は『秩序』の名で呼ぶべきか」
「どちらでも、構わない
」
バルディエルは、腰の刀に手をかけた。
「あなたを討つことに、変わりはない」
朝の菜園に、張り詰めた空気が満ちる。
「すでに、必要な情報はすべて天界に報告済みだ。じきに追手が差し向けられる」
バルディエルは、淡々と続けた。
「人類の設計図の在処。離反者の所在。残った私の任務は、ただ一つ――裏切り者である、あなたの抹殺だけだ」
ゼルエルは、表情を変えなかった。
「そうか。……ならば、来い」
「抵抗、するのだな」
「いいや」
ゼルエルは、静かに、右手を掲げた。
その手のひらに、光が、収束していく。眩いほどの輝きが、一振りの剣の形を取っていった。
光剣『明星』
夜明けに輝く星のような、白く鋭い光の刃。
「抵抗じゃない。これは――師として、お前に最後に見せる、稽古のようなものだ」
「……稽古、か」
バルディエルの目が、わずかに細められた。
そして――刀を、抜いた。
鞘走る、冷たい音。月光を宿したような、青く澄んだ刃。
刀の銘は、暁月夜。
夜明けを待つ、闇に浮かぶ月。
「ならば――胸を、借りるとしよう」
◇
先に動いたのは、バルディエルだった。
地を蹴る音すら、ほとんどしなかった。気づいた時には、もう、ゼルエルの懐に踏み込んでいる。月の刃が、下から斬り上げられた。
光の剣と、月の刃が、激突する。
ガキィン、と高い音が、朝の空気を裂いた。火花が散り、光の粒子が、朝靄の中で舞った。
バルディエルの斬撃は、速く、正確で、そして――美しかった。一切の無駄がない。最小限の動きで、最短距離を、急所だけを的確に狙ってくる。感情を排し、ただ「相手を斬る」という一点に研ぎ澄まされた剣。
だが、ゼルエルは、その全てを捌いた。
光剣を翻し、受け、流し、いなし、そして逆に斬り返す。老いた体は、しかし、流れる水のように淀みなく動いた。
「……っ」
バルディエルの眉が、わずかに動いた。
速い。老いた体のはずなのに。翼を失い、人間並みの力しか残っていないはずなのに。
ゼルエルの剣は――バルディエルの知る、五十年前のそれより、研ぎ澄まされていた。
「驚いたか」
ゼルエルが、剣を交えながら言った。
「お前に剣を教えた後も、俺は……振り続けたのさ。地上で、土を耕しながら。人間として生きながら、それでも、剣だけは手放さなかった」
ゼルエルの光剣が、バルディエルの刀を、強く弾いた。
「お前が知っているのは、五十年前の俺だ。あの頃の俺で、止まっていると思ったか?」
ゼルエルの光剣が、一閃した。
「――暁光」
光が、刃から放たれ、横一文字に走る。バルディエルは、咄嗟に刀でそれを受け、後方へと滑った。地面に、光の焦げ跡が、深く刻まれる。
「……いや」
バルディエルは、体勢を立て直しながら、静かに答えた。
「あなたが、研鑽を怠る人ではないことくらい、知っている。……だからこそ」
バルディエルが、再び踏み込んだ。
「……月影」
ぽつりと、呟くような声。
その瞬間、バルディエルの姿が、残像を残してブレた。
左から来る、と見せかけて――右。
ゼルエルの首元へ、月の刃が走る。
だが、ゼルエルは、それすらも、紙一重で受け止めていた。
「ほう。……いい技だ。お前が、自分で編み出したんだな」
「ええ。あなたが去った後――独りで、磨いた」
二人は、再び距離を取った。
光の剣士と、月の剣士が、朝靄の中で、静かに対峙する。
◇
「……一つ、聞かせろ」
バルディエルが、口を開いた。
その声は、まだ、冷静だった。
「なぜ、あなたは天界を裏切った。誇り高き昂翼十聖天の筆頭が。誰よりも秩序を重んじていた、あなたが」
「聞いていたんじゃないのか?」
ゼルエルが、静かに返した。
「あの小屋で。俺がアルトに語ったことを――お前は、ずっと外で、聞いていただろう」
バルディエルの動きが、一瞬、止まった。
「……気づいて、いたか」
「当然だ。お前の気配くらい、読める。教え子だからな」
ゼルエルは、光剣を構え直した。
「ならば、お前は知っているはずだ。天使が、地上の者に何をしているのか。人間が、本当は何者なのか。……俺たちが、何のために天界を捨てたのかも」
「…あの小屋の壁の外で、息を殺して、最初から最後まで。確かに、すべて、聞いた。天使は星を失った難民で、人間は星を耕すために作られた人工生命体で……間引きは、不要になった道具の、廃棄だと」
バルディエルの刀を握る手に、ぎりっと力がこもった。
「あなたの声は、確かに、私の耳に届いた。一言一句。……だが」
バルディエルは、奥歯を噛みしめた。
「信じられない。信じられるはず、ないだろう…!!」
初めて、その声に、感情の波が滲んだ。
「五十年だ。五十年間、天界を信じてきた。秩序を守ることに、誇りを持ってきた。あなたがいなくなった後、独りで、最下位から這い上がってきた。すべては、天界のため、秩序のためだと信じて……っ」
バルディエルが、踏み込んだ。
「それが、すべて嘘の上に成り立っていたなどと――どうして、信じられるか!……月影!」
残像。だが、今度は、先ほどより、踏み込みが鋭い。感情が、剣に乗っている。
ゼルエルは、それを受け止めた。受け止めながら、静かに言った。
「信じられない、ではない。……信じたく、ないんだろう」
「……っ!」
バルディエルの刃が、わずかに、揺れた。
「考えてもみろ。もし、それが真実だと認めたら――どうなる。お前が間引いてきた、数えきれない地上の者たち。あれが、心を持った命だったと、認めることになる。お前の剣が、何の罪もない者たちを、屠ってきたと認めることになる」
ゼルエルの光剣が、バルディエルの刀を、静かに押し返した。
「信じてしまえば、お前の五十年が、無意味になる。お前が守ってきた秩序が、崩れ落ちる。お前自身が、虐殺の片棒を担いできたことになる。……だから、お前は、信じない。いや、信じられない。違うか?」
バルディエルの目が、見開かれた。
図星を、突かれた者の目だった。
「黙れ……っ」
初めて、バルディエルの口から、荒い声が漏れた。
◇
剣戟が、激しさを増していく。
月の刃が、唸る。光の剣が、応える。
朝靄を裂き、火花を散らし、二つの剣が、何度も、何度も、交わった。
「……朧!!」
バルディエルの呟きと共に、その斬撃が、霞んだ。一閃が、二閃に。二閃が、三閃に。捉えどころのない連撃が、ゼルエルへと殺到する。
ゼルエルは、光剣を高速で振るい、その全てを弾き返した。だが、明らかに、押され始めていた。老いた体が、悲鳴を上げている。呼吸が、乱れ始める。
それでも――バルディエルの斬撃は、もはや、ただの任務遂行ではなかった。
何かを、振り払うように。
胸の奥でせり上がる、認めたくない何かを、断ち切るように。
剣が、感情を帯びていく。冷徹だったはずの月の刃が、熱を持ち始めていた。
「あなたは……っ」
バルディエルの声が、震えていた。
「あなたは、私の、師だった……! 憧れだった……! 誰よりも気高く、誰よりも強く、秩序の頂点に立つ……理想だった……!」
月の刃が、光の剣に、叩きつけられる。
「それが、なぜ……! なぜ、裏切った! なぜ、私を置いて、消えた! なぜ……っ、地上の者なんかのために、すべてを捨てたんですか!」
ゼルエルは、その激情の刃を、静かに受け止めた。
かつて、権能の一つも持たず、出来損ないと笑われていた新人。誰よりも早く起き、誰よりも遅くまで剣を振っていた、不器用な若者。
それが今、これほどの剣士になって――涙すら滲ませながら、自分に問うている。
(……すまなかった、バルディエル)
ゼルエルの胸が、締めつけられた。
お前を置いていったことを、ずっと、悔いていた。あの日、お前の問いに、何も答えてやれなかったことを。
だが、ゼルエルは――まだ、言葉では答えなかった。
ただ、静かに、光剣を構え直す。
「……バルディエル」
ゼルエルの声は、どこまでも、穏やかだった。
「言葉で語っても、お前は信じまい。お前は、真面目すぎる。理屈では、その心を、変えられん」
ゼルエルの黄金の瞳が、まっすぐに、教え子を見据えた。
「だから――剣で、語ろう。お前が、一番よく分かる言葉で」
朝の光が、二人の影を照らしていた。
菜園の花が、風に揺れている。
その穏やかな朝に、激しい剣戟だけが、場違いなほど鋭く、響き続けていた。
(第90話 終)




