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# 第89話:最後の庭仕事と、贖罪の告白


出発の支度が整った頃。

ゼルエルが、ふいにアルトを呼び止めた。


「アルト。里へ発つ前に、少しだけ……俺の庭仕事を、手伝ってくれないか」


唐突な申し出に、アルトは眉をひそめた。


「庭仕事? ……師匠、今はそんな場合じゃない。エルダが待ってるんだ。一刻も早く、エルフの里へ」


「分かっている」


ゼルエルは、静かに頷いた。


「分かっているさ。だが――、頼む」


その声に滲んだ、奇妙な静けさに、アルトの動きが止まった。


頼む。


その一言が、なぜか、胸に引っかかった。

ゼルエルの横顔は、穏やかだった。だが、その穏やかさの奥に、何か――言葉にできない覚悟のようなものが、潜んでいる気がした。

アルトは、しばらく沈黙してから、仲間たちを振り返った。


「……先に、馬車で待っててくれ。少しだけ、師匠を手伝ってくる」


「アルト?」テラが、訝しげに眉を寄せた。


「すぐ行く。……少しだけだ」


シアも、フィリアも、何かを察したように、静かに頷いた。三人は、馬車へと歩いていった。

小屋の前の、小さな菜園に、アルトとゼルエルだけが残された。



二人は、並んで土をいじり始めた。

朝の光が、菜園に柔らかく差している。露を含んだ土は、ひんやりと冷たく、指に吸いついた。伸びすぎた枝を払い、はびこった雑草を根から抜き、固くなった土を、丁寧に耕していく。


言葉は、なかった。

ただ、チョキン、という鋏の音と、ザク、ザク、と土を起こす音だけが、朝の静寂に、規則正しく響いている。鳥のさえずりが、遠くで聞こえた。


幼い頃から、何百回、何千回と繰り返してきた作業だった。隣に師匠がいて、二人で黙々と手を動かす。ただ、それだけ。

なのに、不思議と、心が凪いでいく。

アルトは、ふと思った。


――ああ、そうだ。俺は、この時間が好きだったんだ。


口数の少ない師匠だった。褒められたことなど、数えるほどしかない。それでも、こうして並んで土に触れている時だけは、言葉などなくても、確かに繋がっている気がした。家族、という言葉の意味を、アルトはこの庭で覚えた。


しばらくして。

ゼルエルが、土を見つめたまま、ぽつりと口を開いた。


「アルト。……すまなかった」


「え?」


アルトは、手を止めた。


「何を、急に」


「お前を、伯爵家から追放させたのは――俺だ」


アルトの手から、鋏が滑り落ちかけた。


「……何を、言ってるんだ」


「すべては、仕組まれていた。お前が職を失い、行く当てもなく旅に出て、行き倒れのシアと出会う。あの一連の出来事は、偶然じゃない。俺たちが――カマエルの権能『調律』を使って、描いた筋書きだ」


ゼルエルの声は、淡々としていた。だが、その淡々とした響きが、かえって重かった。


「俺が、農園ギルドに裏から手を回した。お前が伯爵家にいられなくなるように。お前が、外の世界へ出ざるを得ないように。……他の仲間たちにも、それぞれ、苦難を与えた。シアが奴隷に堕ちたのも、エルダが家族に疎まれたのも、フィリアが森で独りきりになったのも――すべて、お前たちが、出会うべくして出会うように、仕組んだことだ」


アルトは、言葉を失った。

手にした雑草を、握ったまま。土の匂いの中で、ただ、立ち尽くしていた。

自分の人生を狂わせた、あの理不尽な追放。理由も分からず、積み上げてきたものを奪われた、あの日。すべての始まり。


それが――目の前のこの人の、描いた筋書きだったというのか。


胸の奥が、ざわついた。怒りなのか、悲しみなのか、自分でも分からない感情が、せり上がってくる。


「……どうして」


ようやく、絞り出すように、それだけが口から出た。


「どうして、そんなことを。俺たちの人生を、駒みたいに……っ」


「詫びて済むことじゃない。分かっている」


ゼルエルは、土を握りしめた。皺だらけの手が、わずかに震えていた。


「お前たちが味わった苦しみは、すべて、俺たちのエゴが生んだものだ。人類を救う――そんな大層な大義を掲げて、俺たちは、お前たち一人ひとりの人生を、好きなように利用した。お前が流した涙も、シアが受けた仕打ちも、何もかも、俺たちが仕組んだことだ」


ゼルエルの声に、五十年分の悔恨が滲んだ。


「ずっと、お前に告げるべきか、迷っていた。知らないままの方が、お前は幸せかもしれない、とな。だが……これから先、お前は命を懸けて戦うことになる。その前に、すべてを知っておく権利が、お前にはある。……恨んでくれて、いい。罵ってくれても、構わん」



アルトは、すぐには言葉を返せなかった。

怒り。困惑。裏切られたという思い。様々な感情が、胸の中で渦を巻いていた。

だが――。


「……なんで、俺だったんだ」


気づけば、そう尋ねていた。


「世界に、人間は数えきれないほどいる。なんで、よりによって俺を、器に選んだ」


ゼルエルは、少しの間、黙っていた。

そして、遠い昔を思い出すように、目を細めた。


「昔。俺が、ある孤児院の庭の手入れを任された時のことだ」


ゼルエルの手が、足元の小さな野花に触れた。


「その庭の隅で、一人の小さな子どもが、しゃがみ込んでいた。他の子どもたちが、遊びで踏み荒らした花壇。誰も気に留めないような、小さな野花が、無残に踏みつけられて、倒れていた。雑草同然の、名もない花だ」


ゼルエルの声が、優しくなった。


「その子どもは――泣きそうな顔で、その花を、一本ずつ、丁寧に、土に植え直していた。汚れた手で、何度も、何度も。誰に頼まれたわけでもないのにな」


ゼルエルは、目を細めた。遠い、遥か昔を見るように。


「俺は、声をかけた。『どうせ、また踏まれるだけだぞ』と。すると、その子どもは、顔を上げて、こう答えた」


――でも、今、生きてるから。


「迷いのない、まっすぐな目だった。踏まれることも、また倒されることも、分かっている。それでも、今、目の前で生きているものを、放っておけない。……そういう目を、していた」


アルトは、息を呑んだ。

覚えていない。そんな昔のことは、もう、記憶にもない。だが――それは、紛れもなく、幼い日の、自分のことだった。


「踏まれても、報われなくても。今、生きているものを、見捨てられない。そういう人間だった。……俺は、その時に決めた。この子どもになら、人類の未来を託せる、とな」


ゼルエルが、アルトを見た。その黄金の瞳に、深い慈愛が宿っていた。


「俺の選択は、間違っていなかった。お前は、立派な庭師になった。そして――立派な、男になった」



土の上に、しばしの沈黙が流れた。

やがて、ゼルエルが、静かに問うた。


「最後に1つ答えてくれないか、アルト。お前にとっての――『正しさ』とは、何だ」


「……正しさ?」


唐突な問いに、アルトは、少し考えた。

土を耕す手を止めて、ゆっくりと、言葉を選びながら答える。


「……俺の正しさは、誰かにとっては、間違いなんだと思う」


ゼルエルが、じっとアルトを見つめた。


「俺が正しいと思ってやったことで、傷つく奴がいるかもしれない。俺が信じてる正義が、別の誰かの正義と、ぶつかるかもしれない。……だから、考える。話し合う。相手の言葉に、耳を傾ける」


真剣に語るアルトの姿に、かつて同じ問いかけをした一人の弟子の面影が、重なる。


「一方的に『これが正しい』って押し付けるんじゃなくて。ぶつかって、悩んで、それでも分かり合おうとして……その先に本当の正しさが、見えてくるんだと――」


「俺は、信じてる」

――私は、信じています。


ゼルエルは、少し驚いた顔をして、何も言わなかった。

そして、一言。


「……そうか」


ゼルエルは、ふっと、笑った。穏やかで、どこか寂しげな笑みだった。


「いい答えだ。お前は、本当に……いい男に育ったな」



庭仕事を、終えた。

耕された土は、しっとりと黒く、息を吹き返したように見えた。植え直された花が、朝日を浴びて、静かに揺れている。


「……行ってきます、師匠」


アルトは、立ち上がり、土を払った。

ゼルエルは、頷いた。


「ああ。……達者でな、アルト」


たった、それだけの言葉だった。

いつも通りの、そっけない別れ。何度も交わしてきた、ありふれたやり取り。

だが、アルトは、なぜか――その背中に、後ろ髪を引かれた。


馬車へと歩きながら、何度も、振り返る。そのたびに、ゼルエルは、ただ静かに、片手を上げて応えた。穏やかな、いつもの顔で。

やがて、馬車が動き出す。


御者台のシャムシェルが、手綱を鳴らす。車輪が回り、小屋が、菜園が、そして師匠の姿が、少しずつ遠ざかっていく。

アルトは、見えなくなるまで、ずっと、その姿を見ていた。


やがて、馬車は森の木立の奥へと吸い込まれ――ゼルエルの姿は、完全に、見えなくなった。

ゼルエルは、しばらく、その場に佇んでいた。

朝の風が、菜園の花を、さわさわと揺らしている。


その穏やかな横顔から、ふっと――先ほどまでの、慈愛に満ちた師の表情が、消えた。

代わりに浮かんだのは、かつて天界の頂点に立った者の、静かで、研ぎ澄まされた覚悟だった。

そして、誰もいなくなった庭で、ゼルエルは、前を向いたまま、静かに呟いた。


「……もう、いいぞ。出てこい。待たせたな」


その瞬間。

背後の空間が、陽炎のように、揺らいだ。

音もなく。気配もなく。まるで、最初からそこにいたかのように――一人の天使が、いた。

長身。背に流れる、長い髪。冷たく光る、黄金の瞳。そして、腰に佩いた、一振りの長剣。


バルディエル。


アルトたちが去るのを、ゼルエルが見送るのを、ずっと、息を潜めて待っていたのだ。


「お久しぶりです、師匠。……いや――」


かつての弟子が、静かに、そう告げた。


「『曙光』のゼルエル……!」


(第89話 終)


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