# 第89話:最後の庭仕事と、贖罪の告白
出発の支度が整った頃。
ゼルエルが、ふいにアルトを呼び止めた。
「アルト。里へ発つ前に、少しだけ……俺の庭仕事を、手伝ってくれないか」
唐突な申し出に、アルトは眉をひそめた。
「庭仕事? ……師匠、今はそんな場合じゃない。エルダが待ってるんだ。一刻も早く、エルフの里へ」
「分かっている」
ゼルエルは、静かに頷いた。
「分かっているさ。だが――、頼む」
その声に滲んだ、奇妙な静けさに、アルトの動きが止まった。
頼む。
その一言が、なぜか、胸に引っかかった。
ゼルエルの横顔は、穏やかだった。だが、その穏やかさの奥に、何か――言葉にできない覚悟のようなものが、潜んでいる気がした。
アルトは、しばらく沈黙してから、仲間たちを振り返った。
「……先に、馬車で待っててくれ。少しだけ、師匠を手伝ってくる」
「アルト?」テラが、訝しげに眉を寄せた。
「すぐ行く。……少しだけだ」
シアも、フィリアも、何かを察したように、静かに頷いた。三人は、馬車へと歩いていった。
小屋の前の、小さな菜園に、アルトとゼルエルだけが残された。
◇
二人は、並んで土をいじり始めた。
朝の光が、菜園に柔らかく差している。露を含んだ土は、ひんやりと冷たく、指に吸いついた。伸びすぎた枝を払い、はびこった雑草を根から抜き、固くなった土を、丁寧に耕していく。
言葉は、なかった。
ただ、チョキン、という鋏の音と、ザク、ザク、と土を起こす音だけが、朝の静寂に、規則正しく響いている。鳥のさえずりが、遠くで聞こえた。
幼い頃から、何百回、何千回と繰り返してきた作業だった。隣に師匠がいて、二人で黙々と手を動かす。ただ、それだけ。
なのに、不思議と、心が凪いでいく。
アルトは、ふと思った。
――ああ、そうだ。俺は、この時間が好きだったんだ。
口数の少ない師匠だった。褒められたことなど、数えるほどしかない。それでも、こうして並んで土に触れている時だけは、言葉などなくても、確かに繋がっている気がした。家族、という言葉の意味を、アルトはこの庭で覚えた。
しばらくして。
ゼルエルが、土を見つめたまま、ぽつりと口を開いた。
「アルト。……すまなかった」
「え?」
アルトは、手を止めた。
「何を、急に」
「お前を、伯爵家から追放させたのは――俺だ」
アルトの手から、鋏が滑り落ちかけた。
「……何を、言ってるんだ」
「すべては、仕組まれていた。お前が職を失い、行く当てもなく旅に出て、行き倒れのシアと出会う。あの一連の出来事は、偶然じゃない。俺たちが――カマエルの権能『調律』を使って、描いた筋書きだ」
ゼルエルの声は、淡々としていた。だが、その淡々とした響きが、かえって重かった。
「俺が、農園ギルドに裏から手を回した。お前が伯爵家にいられなくなるように。お前が、外の世界へ出ざるを得ないように。……他の仲間たちにも、それぞれ、苦難を与えた。シアが奴隷に堕ちたのも、エルダが家族に疎まれたのも、フィリアが森で独りきりになったのも――すべて、お前たちが、出会うべくして出会うように、仕組んだことだ」
アルトは、言葉を失った。
手にした雑草を、握ったまま。土の匂いの中で、ただ、立ち尽くしていた。
自分の人生を狂わせた、あの理不尽な追放。理由も分からず、積み上げてきたものを奪われた、あの日。すべての始まり。
それが――目の前のこの人の、描いた筋書きだったというのか。
胸の奥が、ざわついた。怒りなのか、悲しみなのか、自分でも分からない感情が、せり上がってくる。
「……どうして」
ようやく、絞り出すように、それだけが口から出た。
「どうして、そんなことを。俺たちの人生を、駒みたいに……っ」
「詫びて済むことじゃない。分かっている」
ゼルエルは、土を握りしめた。皺だらけの手が、わずかに震えていた。
「お前たちが味わった苦しみは、すべて、俺たちのエゴが生んだものだ。人類を救う――そんな大層な大義を掲げて、俺たちは、お前たち一人ひとりの人生を、好きなように利用した。お前が流した涙も、シアが受けた仕打ちも、何もかも、俺たちが仕組んだことだ」
ゼルエルの声に、五十年分の悔恨が滲んだ。
「ずっと、お前に告げるべきか、迷っていた。知らないままの方が、お前は幸せかもしれない、とな。だが……これから先、お前は命を懸けて戦うことになる。その前に、すべてを知っておく権利が、お前にはある。……恨んでくれて、いい。罵ってくれても、構わん」
◇
アルトは、すぐには言葉を返せなかった。
怒り。困惑。裏切られたという思い。様々な感情が、胸の中で渦を巻いていた。
だが――。
「……なんで、俺だったんだ」
気づけば、そう尋ねていた。
「世界に、人間は数えきれないほどいる。なんで、よりによって俺を、器に選んだ」
ゼルエルは、少しの間、黙っていた。
そして、遠い昔を思い出すように、目を細めた。
「昔。俺が、ある孤児院の庭の手入れを任された時のことだ」
ゼルエルの手が、足元の小さな野花に触れた。
「その庭の隅で、一人の小さな子どもが、しゃがみ込んでいた。他の子どもたちが、遊びで踏み荒らした花壇。誰も気に留めないような、小さな野花が、無残に踏みつけられて、倒れていた。雑草同然の、名もない花だ」
ゼルエルの声が、優しくなった。
「その子どもは――泣きそうな顔で、その花を、一本ずつ、丁寧に、土に植え直していた。汚れた手で、何度も、何度も。誰に頼まれたわけでもないのにな」
ゼルエルは、目を細めた。遠い、遥か昔を見るように。
「俺は、声をかけた。『どうせ、また踏まれるだけだぞ』と。すると、その子どもは、顔を上げて、こう答えた」
――でも、今、生きてるから。
「迷いのない、まっすぐな目だった。踏まれることも、また倒されることも、分かっている。それでも、今、目の前で生きているものを、放っておけない。……そういう目を、していた」
アルトは、息を呑んだ。
覚えていない。そんな昔のことは、もう、記憶にもない。だが――それは、紛れもなく、幼い日の、自分のことだった。
「踏まれても、報われなくても。今、生きているものを、見捨てられない。そういう人間だった。……俺は、その時に決めた。この子どもになら、人類の未来を託せる、とな」
ゼルエルが、アルトを見た。その黄金の瞳に、深い慈愛が宿っていた。
「俺の選択は、間違っていなかった。お前は、立派な庭師になった。そして――立派な、男になった」
◇
土の上に、しばしの沈黙が流れた。
やがて、ゼルエルが、静かに問うた。
「最後に1つ答えてくれないか、アルト。お前にとっての――『正しさ』とは、何だ」
「……正しさ?」
唐突な問いに、アルトは、少し考えた。
土を耕す手を止めて、ゆっくりと、言葉を選びながら答える。
「……俺の正しさは、誰かにとっては、間違いなんだと思う」
ゼルエルが、じっとアルトを見つめた。
「俺が正しいと思ってやったことで、傷つく奴がいるかもしれない。俺が信じてる正義が、別の誰かの正義と、ぶつかるかもしれない。……だから、考える。話し合う。相手の言葉に、耳を傾ける」
真剣に語るアルトの姿に、かつて同じ問いかけをした一人の弟子の面影が、重なる。
「一方的に『これが正しい』って押し付けるんじゃなくて。ぶつかって、悩んで、それでも分かり合おうとして……その先に本当の正しさが、見えてくるんだと――」
「俺は、信じてる」
――私は、信じています。
ゼルエルは、少し驚いた顔をして、何も言わなかった。
そして、一言。
「……そうか」
ゼルエルは、ふっと、笑った。穏やかで、どこか寂しげな笑みだった。
「いい答えだ。お前は、本当に……いい男に育ったな」
◇
庭仕事を、終えた。
耕された土は、しっとりと黒く、息を吹き返したように見えた。植え直された花が、朝日を浴びて、静かに揺れている。
「……行ってきます、師匠」
アルトは、立ち上がり、土を払った。
ゼルエルは、頷いた。
「ああ。……達者でな、アルト」
たった、それだけの言葉だった。
いつも通りの、そっけない別れ。何度も交わしてきた、ありふれたやり取り。
だが、アルトは、なぜか――その背中に、後ろ髪を引かれた。
馬車へと歩きながら、何度も、振り返る。そのたびに、ゼルエルは、ただ静かに、片手を上げて応えた。穏やかな、いつもの顔で。
やがて、馬車が動き出す。
御者台のシャムシェルが、手綱を鳴らす。車輪が回り、小屋が、菜園が、そして師匠の姿が、少しずつ遠ざかっていく。
アルトは、見えなくなるまで、ずっと、その姿を見ていた。
やがて、馬車は森の木立の奥へと吸い込まれ――ゼルエルの姿は、完全に、見えなくなった。
ゼルエルは、しばらく、その場に佇んでいた。
朝の風が、菜園の花を、さわさわと揺らしている。
その穏やかな横顔から、ふっと――先ほどまでの、慈愛に満ちた師の表情が、消えた。
代わりに浮かんだのは、かつて天界の頂点に立った者の、静かで、研ぎ澄まされた覚悟だった。
そして、誰もいなくなった庭で、ゼルエルは、前を向いたまま、静かに呟いた。
「……もう、いいぞ。出てこい。待たせたな」
その瞬間。
背後の空間が、陽炎のように、揺らいだ。
音もなく。気配もなく。まるで、最初からそこにいたかのように――一人の天使が、いた。
長身。背に流れる、長い髪。冷たく光る、黄金の瞳。そして、腰に佩いた、一振りの長剣。
バルディエル。
アルトたちが去るのを、ゼルエルが見送るのを、ずっと、息を潜めて待っていたのだ。
「お久しぶりです、師匠。……いや――」
かつての弟子が、静かに、そう告げた。
「『曙光』のゼルエル……!」
(第89話 終)




