# 第88話:盗まれた至宝と、三つの断片
「至宝……?」
アルトは、ゼルエルの言葉を繰り返した。
「ああ。俺たちが天界から盗み出したもの。天界が、五十年間、血眼になって取り戻そうとしているもの。それは――『人類の設計図』だ」
「設計図……?」
「お前たち人間を、最初に作り上げた時の、大本のデータだ。体の仕組み、魂の在り方、力の限界、寿命、姿形……人類という種族の、すべてが記された、根源の情報。言うなれば、人類という種そのものだ」
ゼルエルは、暖炉の炎を見つめた。
「植物の種に、その木がどれほど高く育つか、どんな花を咲かせるかが、最初からすべて記されているように。お前たち人類の、ありとあらゆる可能性と限界が――この設計図には、書き込まれている。天界はこれを使って、人間を作り、管理し、必要とあらば作り変えてきた」
ゼルエルの声が、低くなった。
「間引きを完遂するにも、これが要る。だから、これを奪われた天界は、五十年間、計画を完全には進められずにいる。……お前たちが今も生きていられるのは、俺たちがこれを盗んだからだ」
「その設計図は、今……どこにあるんだ」
アルトの問いに、ゼルエルは、静かに答えた。
「お前の、目の前にある」
◇
ゼルエルが、テーブルの上の剪定鋏に、そっと手を置いた。
古びた、刃の欠けた、なんの変哲もない鋏。アルトが、ずっと使い続けてきた相棒。伯爵に「ゴミ」と笑われた、あの鋏。
「……これが?」
アルトは、目を見開いた。
「こんな、ただの鋏が……人類の設計図、なのか?」
「いや。正確には、違う」
ゼルエルは、首を振った。
「……その鋏は、設計図そのものじゃなく、設計図を読み解き、書き換えるための――『鍵』であり、『器』だ」
ゼルエルは、ゆっくりと、言葉を選んだ。
「たとえるなら、こうだ。分厚い本があるとする。だが、その本は、特別な眼鏡がなければ、文字が読めない。鋏は、その『眼鏡』だ。設計図という本を読み、そこに手を入れるための、唯一の道具なんだ」
アルトは、手の中の鋏を、まじまじと見つめた。
ただの、古い鋏だと思っていた。なのに、これが――人類の運命を読み解く、鍵。
「じゃあ、本体は……設計図の中身は、どこにあるんだ」
ゼルエルの黄金の瞳が、まっすぐにアルトを見た。
「それは――もう、お前の中にある」
◇
「設計図は、あまりに危険だ。天界に奪い返されれば、すべてが終わる。だから俺たちは、一つにまとめて置いておくことを、避けた」
ゼルエルは、続けた。
「設計図の中身を、三つの『断片』に分けた。そして、それぞれを、別々の場所に隠した。器となる鋏とも、バラバラにしてな。……一つに集まっていれば、いつか必ず天界に見つかる。だが、バラバラにして別々に隠せば、そう簡単には揃えられない」
ゼルエルは、一度言葉を切り、そして、告げた。
「その断片を宿していたのが――お前の、仲間たちだ」
アルトの心臓が、跳ねた。
「シア。そして、エルダ」
「……っ!?」
シアが、自分の胸に手を当てた。
「私が……?」
「ああ。シア、お前の中には、設計図の断片の一つが宿っていた。お前を、その器として選んだのは……調律のカマエル。かつての第三位で――地上では、奴隷商をやっていた男だ」
シアの表情が、凍りついた。
奴隷商。自分を、物のように売り買いした者たち。その元締めだった天使が、自分の、育ての親。
カマエル。今、初めて聞く、名前。
「……その人が、私を」
「ああ」
ゼルエルは、静かに頷いた。だが、シアの顔に浮かんだのは、喜びでも、感謝でもなかった。
むしろ――戸惑いと、行き場のない感情だった。
自分は、奴隷だった。首輪をつけられ、呪いを刻まれ、物のように売り買いされ、虐げられてきた。それが、設計図を守るための「器」だったから? 育ての親がいたなら、なぜ、自分はあんな目に遭ったのか。なぜ、助けてくれなかったのか。
聞きたいことは、山ほどあった。
だが、その相手は――もう、いない。
「カマエルは、すでに、この世にいない」
ゼルエルの声が、沈んだ。
「翼を失った天使は、人間並みの寿命しか残されていない。あいつは、最後の仕事をした後――静かに、逝った。」
ゼルエルは、アルトの持つ鋏に目をやった。
「そして……お前の中に宿っていた断片は、もう、そこにはない。アルトと初めて出会い、あいつの手が触れた、あの瞬間。お前の断片は、鋏へと取り込まれた。エルダの断片も、同じだ。あの子と出会った時、すでに鋏が、回収している」
シアが、自分の胸を見下ろした。
シアは、何も言えなかった。
感謝も、恨みも、どこにもぶつけられない。ただ、複雑な感情だけが、胸の中で、渦を巻いていた。
アルトは、そんなシアの肩に、そっと手を置いた。
シアが、はっと顔を上げる。
「……今は、無理に整理しなくていい」
アルトの、静かな声だった。
「ゆっくりで、いい。お前の気持ちは、お前のものだ」
シアの目が、わずかに潤んだ。だが、涙は、こぼさなかった。ただ、こくりと、小さく頷いた。
◇
「エルダに断片を託したのは、ソフィエル。お前たちが、よく知る通りだ」
ゼルエルが、続けた。
「だが、安心しろ。エルダの断片は、すでにお前の鋏の中にある。天使どもが、いくらあの子の体を調べたところで、設計図の断片は、もう見つからん」
「……じゃあ、エルダは」
「お前の力でなら、取り戻せる。歪められ、傷つけられたとしても――お前の剪定は、それを正しい形に、仕立て直せるはずだ」
ゼルエルが、頷いた。
「だが、それも、設計図を完成させてからの話だ」
「……どういうことだ」
アルトが、身を乗り出した。
「人間が天使に攻撃できないのは、設計図に『創造主たる天使には、傷をつけられない』という制限が、刻まれているからだ。だが――その鋏を持つお前なら、設計図に直接、手を入れられる。その『制限の枝』を、剪定できる」
ゼルエルの黄金の瞳が、強く光った。
「お前の『剪定』は、ただのスキルじゃない。人類の設計図を、直接いじる力だ。才能という枝を整え、不要な力を切り、別の誰かへ接ぎ木する。……それは、鋏という鍵を持つ、お前だけの力だ」
アルトは、息を呑んだ。
そして、気づいた。
「……だから、なのか」
ぽつりと、呟いた。
「俺がシアに、初めて触れた時。『剪定』が、覚醒した。あれは――」
「気づいたか」
ゼルエルが、頷いた。
「鍵である鋏を持つお前と、断片を宿していたシアが、初めて出会った。その瞬間、設計図が反応し、お前の力が――本来の姿に、目覚めたんだ」
一話の、あの日。行き倒れのシアを助けた、あの瞬間。
すべては、その時から、繋がっていた。
「お前の力で、設計図の『制限の枝』を切り落とせば――人間は、天使に攻撃を通せるようになる。創造主に逆らえぬという、枷を断ち切るんだ。……それが、天使に対抗する、唯一の道だ」
小屋の空気が、張り詰めた。
絶望的だった戦いに、初めて、細い光が差した。
「だが、そのためには、設計図を完成させなければならない。鍵である鋏。すでに鋏が回収した、シアとエルダの、二つの断片。そして――まだ手に入れていない、最後の、三つ目の断片」
「三つ目は、どこにあるんだ」
アルトが、問うた。
ゼルエルの瞳が、遠く、北の方角を見た。
「エルフの里。その奥深くにある――『世界樹』だ」
炎が、ぱちりと、爆ぜた。
「最後の断片は、その世界樹に隠されている。だが――それを取り出すには、ある者の力が要る」
ゼルエルの視線が、静かに、フィリアへと向いた。
「フィリア。お前の力が、どうしても必要になる」
「……私の?」
フィリアが、戸惑ったように、自分を指さした。
「な、なんで、私なんですか? 私、エルフの里になんて、行ったこともないのに……」
「その理由も含めて――すべては、里に着いてから話す。今、ここで語るには、あまりに重い」
ゼルエルは、それ以上は語らず、ただ、フィリアを見つめた。
何か言いかけて――やめた。
フィリアは、その視線の意味を、まだ知らない。
◇
アルトは、手の中の鋏を、強く握りしめた。
この鋏の中には、もう、シアとエルダの断片が眠っている。あとは、エルフの里にある、最後の一つ。すべてを揃え、設計図を完成させ、人類の枷を剪定する。そして――エルダを、取り戻す。
やるべきことが、見えた。
「……行こう」
アルトは、立ち上がった。
さっきまで「俺は無能だ」と打ちひしがれていた、その同じ口から、今度は、確かな意志のこもった声が出た。
「エルダを、取り戻す。そのために、強くなる。俺たちは――道具なんかじゃないってことを、あいつらに思い知らせてやる」
テラが、ふっと笑った。
「ようやく、いつものお前に戻ったな」
シアも、フィリアも、力強く頷いた。
暖炉の炎が、一同の決意を照らすように、明るく燃え上がった。
だが――その輪の中で、ゼルエルだけが。
どこか、遠くを見るような目で、静かに、アルトの横顔を見つめていた。
まるで、何かを、覚悟するように。
(第88話 終)




