# 第86話:五十年前の天界と、誇り高き翼
暖炉の火が、ぱちりと爆ぜた。
小屋の中の全員が、ゼルエルの言葉を待っていた。シアも、テラも、フィリアも。傷を癒され、それでも心は晴れぬまま、ただ静かに、老いた天使の語りに耳を傾けている。
「五十年前…」
ゼルエルは、暖炉の炎を見つめながら、ゆっくりと語り始めた。
「俺たちは、天界の守護者だった。昂翼十聖天――そう呼ばれる、十人の頂点。俺はその筆頭、第一位の座にいた」
アルトは、息を呑んだ。
あの偏屈な養い親が。土と鋏にまみれて生きてきたこの老人が。天使の頂点に立っていた。
「天界は、美しい場所だった」
ゼルエルの黄金の瞳が、遠い昔を映す。
「白亜の尖塔が雲を貫き、永遠の光が絶えず満ちていた。罪も、飢えも、争いもない。病に倒れる者も、奪い合う者もいない。すべてが、あるべき場所に、あるべき形で収まっていた。完璧に整えられた、秩序の世界だ」
ゼルエルは、自嘲するように、わずかに口の端を歪めた。
「俺たちは、その秩序を守ることに、誇りを持っていた。疑いなど、欠片も抱いたことはなかった。それが、正しいことだと信じていたのだ。……愚かにもな」
パチ、と薪が爆ぜる。
「仲間がいた。第三位のカマエル。気難しく、口の悪い年配の天使だったが……その実、誰よりも仲間思いだった。第四位のソフィエル。慈愛の塊のような女でな。傷ついた者を、放っておけない性分だった。第七位のシャムシェルは……」
「あたしのことは余計だよ、ゼルエル」
シャムシェルが、ぶっきらぼうに口を挟んだ。
「けど、まあ……今思えば、悪くない連中だったさね」
そう呟く老婆の横顔は、どこか懐かしそうだった。だが、ゼルエルの話を止めはしなかった。
「そして、まだ新人だった、第十位の若者がいた」
ゼルエルの声が、わずかに沈んだ。
「名を、バルディエル。天使としての権能を持たない特異体質だったが剣の才だけは、天性のものを持っていた。俺が、剣を教えていた」
「……っ」
アルトの脳裏に、自分を刺した、あの長身の天使の姿が浮かんだ。あの男が、師匠の弟子。
「あいつは、不器用な男でな。周りからは出来損ないと笑われていた」
ゼルエルが、ふっと、懐かしそうに目を細めた。
「だが、誰よりも努力した。誰よりも早く起き、誰よりも遅くまで剣を振っていた。俺は、あいつのそういうところが、嫌いじゃなかった」
その横顔は、まるで——出来の悪い、しかし愛おしい弟子を語る、師の顔だった。
◇
「すべてが変わったのは、ある日の『間引き』だった」
ゼルエルの声が、低くなった。
「間引き……?」
シアが、おずおずと尋ねた。
「天界には、地上を管理する役目があった。地上に増えすぎた生命を、定期的に……減らす。それが『間引き』だ」
アルトの背筋が、冷たくなった。帝国を襲った、あの顔のない天使たち。あれは、その「間引き」だったのか。
「俺たちは、それを当然の作業だと思っていた。地上の生き物は、所詮、管理される側の存在。雑草を抜くように、害虫を駆除するように……数を調整する。それが秩序を保つことだと、信じて疑わなかった」
ゼルエルは、自分の皺だらけの手を見下ろした。
「その日、俺たちは、ある地上の街を間引きに向かった。いつも通りの、ただの作業のはずだった。命令された数の生命を減らし、天界へ戻る。それだけの、退屈な仕事のはずだった」
炎が、揺れる。
「街は、火の海になった。俺たちの放つ光が、家々を焼き、逃げ惑う者たちを照らし出した。悲鳴が満ちていた。だが、俺たちは何も感じなかった。雑草を焼くのに、いちいち心を痛める庭師がいるか? ……当時の俺たちは、そういう感覚だった」
アルトは、思わず拳を握った。庭師、という言葉が、これほど冷たく響いたことはなかった。
「だが、ソフィエルが――気づいてしまった」
「何に……ですか」
フィリアが、震える声で聞いた。
「崩れた家の陰で。一人の母親が、自分の体を盾にして、子どもを庇っていた。炎が迫る中、その女は逃げようともせず、ただ我が子を抱きしめていた。子どもは泣きながら、母の名を呼んでいた。母は、子どもに、笑いかけていた。『大丈夫よ』と。そう言うように」
ゼルエルの声が、震えた。
「その光景を見て、ソフィエルの剣が……止まった」
ゼルエルの声が、掠れる。
「『これは、ただの生き物の反射ではない』と、あれは言った。『これは、愛だ』と」
アルトは、何も言えなかった。
「俺たちは、教えられてきた。地上の者は、心を持たない。ただ生きて、増えるだけの、下等な存在だと。間引かれることに、何の意味もないと。……だが、違った」
ゼルエルが、目を閉じた。
「あの母親の目に宿っていたものは、紛れもなく、俺たち天使が持つものと同じ……魂だった。命を懸けて、誰かを守ろうとする、確かな意志だった。打算でも、本能でもない。ただ、愛していたから、守った。それだけだった」
ゼルエルは、深く、息を吐いた。
「ソフィエルは、その場に膝をついて、動けなくなった。剣を取り落として、ただ震えていた。俺は、あいつの肩を掴んで、無理やりその場から引き剥がした。……『お前は、何を迷っている。これは作業だ。情を挟むな』と、そう叱った。自分に言い聞かせるように」
ゼルエルの拳が、固く握られた。
「だが、その夜。ソフィエルが、俺に言ったんだ。『ゼルエル。あなたは本当に、あれが何も感じない道具に見えたの?』と。……俺は、答えられなかった」
しばしの沈黙。
暖炉の炎の爆ぜる音だけが、小屋に響いていた。
「俺たちは、その日から、眠れなくなった。目を閉じれば、あの母親の顔が浮かぶ。俺たちが今まで間引いてきた、数えきれない命の一つひとつが、急に、重く、のしかかってきた」
アルトは、エルダのことを思った。今、天使に囚われている彼女も、あの天使たちにとっては「間引く対象」でしかないのだろうか。胸が、締めつけられた。
◇
「それからの俺たちは、密かに調べ始めた」
ゼルエルが、続けた。
「地上の者たちが、本当に心を持たない存在なのか。あるいは、そうではないのか。……調べれば調べるほど、恐ろしい事実が見えてきた」
「事実……」
「地上の者たちは、歌を作っていた。誰に聞かせるでもない、ただ美しいというだけの歌を。絵を描いていた。土の壁に、見たままの空や花を。死者を悼んで、墓を建て、花を手向けていた。愛し合い、家族を作り、まだ見ぬ未来を願い、子に名を与えていた」
ゼルエルは、一つひとつ、噛みしめるように言った。
「それは、俺たちが『心を持たぬ道具』だと教えられてきた存在の、振る舞いではなかった。むしろ――俺たち天使よりも、ずっと豊かに、ずっと懸命に、生きていた」
ゼルエルが、目を開けた。その瞳には、五十年前の怒りが、まだ燻っていた。
「俺たちは、天界の帝に問うた。地上の者は、本当に間引いていい存在なのか、と。だが――返ってきたのは、沈黙だった。そして、命令だけが繰り返された。『余計なことを考えるな。ただ、間引け』と」
「……ひどい」
シアが、唇を噛んだ。
「カマエルが、最初に動いた。あの気難しい男が、天帝に食ってかかった。『俺たちは、何を殺しているんだ』と。怒鳴り散らして、処分されかけた。次に、ソフィエルが声を上げた。そして、シャムシェルが」
ゼルエルが、シャムシェルを見た。老婆は、無言で、炎を見つめていた。
「あの頃……新人のバルディエルは、何も知らなかった。ただ、憧れの先輩たちが、次々と天帝と対立していくのを、戸惑いながら見ていた。あいつは、真面目すぎたんだ。秩序を、命令を、疑うことを知らなかった。……俺が、そう育ててしまった」
ゼルエルの声に、苦いものが混じった。
「最後に、あいつは俺に聞いてきた。『師匠。あなたたちは、間違っているのですか。それとも、天界が間違っているのですか』
と。……俺は、何も言ってやれなかった。ただ、剣だけを置いて、天界を去った。あいつを、置いて」
その横顔に、五十年分の悔いが滲んでいた。
「俺は、筆頭だった。誰よりも、秩序を重んじる立場にいた。……だが、もう、見て見ぬふりはできなかった」
ゼルエルの手が、テーブルの上の剪定鋏に、そっと触れた。
「俺たちは、決めた。天界を、捨てると」
炎が、大きく揺れた。
「だが、ただ逃げるだけでは、何も変わらない。地上の者たちは、これからも間引かれ続ける。俺たちは……天界が最も恐れ、最も隠していた『あるもの』を、盗み出して、地上へ持って逃げることにした」
アルトの心臓が、跳ねた。
「それが――この、世界の真実を覆す鍵だ。天界が、血眼になって探しているものでもある」
「ちょっと待ってください」シアが、たまらず口を開いた。「そんな大事なものを盗んで、よく無事に逃げられましたね……相手は、天界なんですよね?」
「無事では、なかったさ」
ゼルエルの声が、沈んだ。
「逃げる時に、追手と戦った。多くの仲間が傷つき……二度と帰らない者も少なくなかった。地上に降りられたのは、ほんの一握りだ。俺と、ソフィエルと、シャムシェルと、カマエル。……それだけだった」
ゼルエルの黄金の瞳が、まっすぐにアルトを見据えた。
「だが、その話をする前に。……お前たちは、もっと根本的なことを知らなければならない」
炎が、静かに燃える。
「なぜ、天使が、地上の者を間引くのか。なぜ、お前たち人間の攻撃が、天使に通じないのか。……その、本当の理由を」
ゼルエルが、ゆっくりと、息を吸った。
「聞けば、お前たちは、自分が何者なのかを知ることになる。……覚悟は、いいか」
誰も、何も言わなかった。
ただ、アルトが、静かに頷いた。
ゼルエルの黄金の瞳が、暖炉の炎を映して、ゆらりと揺れた。
「――では、話そう。この世界の者が誰も知らない真実を」
(第86話 終)




