# 第85話:再会の養父と、五十年前の真実
誰もいないはずの小屋の扉が、内側から開いた。
そこから、一人の老人が、ゆっくりと姿を現した。
白髪を後ろで束ね、使い込まれた作業着を纏っている。背は高いが、年相応に痩せている。手には、土のついた古い剪定鋏。
その顔を見た瞬間、アルトの全身が、凍りついた。
「……師匠」
忘れるはずがない。孤児院から自分を引き取り、庭師の技術のすべてを叩き込んだ、養い親。何年も前に旅に出て、消息を絶っていた——ガリウス・バトラー。
「よう、アルト」
ガリウスが、片手を上げた。まるで、昨日も会っていたかのような、何気ない仕草で。だがその目は、深手を負ったアルトの体を、痛ましげに見ていた。
「でかくなったな。……いや、最後に会った時も、もう一人前だったか。立派な庭師になったようだな」
「師匠……っ、師匠!」
アルトが、駆け寄った。深手を負った体に鞭打って、転びそうになりながら。
「どこに、行ってたんだ! 何年も、何年も連絡もなく……っ、心配したんだぞ……!」
「悪かった」
ガリウスは、静かにアルトの肩を受け止めた。
「お前には、言えないことがあってな。……今日まで、隠し通すしかなかった」
「言えないこと……?」
アルトが、顔を上げた。
その時、隣でシャムシェルが、ふんと鼻を鳴らした。
「積もる話は山ほどあるだろうがね。……アルト。あんたの師匠は、ただの庭師じゃないよ」
「え……?」
アルトの背筋が、嫌な予感に冷えた。
ガリウスが、ゆっくりと息を吐いた。
そして——その瞳を、開いた。
枯れ草色だったはずのその双眸が、静かに、黄金色へと変わっていく。
「……っ!?」
アルトが、息を呑んだ。シアも、テラも、フィリアも、言葉を失った。
天使の、瞳。
「そんな……師匠も、天使……なのか……?」
「ああ」
ガリウスが、静かに頷いた。
「俺の本当の名は、ゼルエル。かつて天界で『曙光』と呼ばれた、元・昂翼十聖天の一人だ」
アルトは、何も言えなかった。
自分を育ててくれた人。土の匂いと、鋏の握り方を教えてくれた人。来る日も来る日も、不器用な自分に根気強く庭の手入れを叩き込んでくれた、たった一人の家族。
その人が、帝国を滅ぼし、エルダを奪い、ソフィエルを殺した、あの怪物たちと——同じ存在だった。
頭が、追いつかない。受け入れたくない。だが、あの黄金の瞳が、否応なく現実を突きつけてくる。
「……っ、なんで」
ようやく、それだけが口から漏れた。
「なんで、今まで黙ってた。なんで、あんたが天使で……なんで、こんな所に隠れて……っ」
「全部、話す」
ゼルエルが、アルトの目を、真っ直ぐに見た。その黄金の瞳には、嘘も、ごまかしも、なかった。あるのは、深い疲労と、覚悟だけだった。
「だが、その前に——お前の傷を診せろ。ソフィエルが命を懸けて繋いだ命だ。無駄にはできん」
「……オリビアさんを、知ってるのか」
「ああ。古い、戦友だ」
ゼルエルの声が、わずかに沈んだ。彼女が逝ったことを、もう知っているのだろう。
◇
小屋の中は、記憶のままだった。
古びた木のテーブル。乾いた薬草の束。壁にかけられた、無数の剪定道具。アルトが子どもの頃に座っていた、低い木の椅子。
ゼルエルは、アルトの腹の傷に手をかざし、淡い光で丁寧に手当てをした。シアの肩の傷も、テラの打ち身も、順に癒していく。
全員が、暖炉の前に腰を落ち着けた頃。
シャムシェルが、エルダのことを、かいつまんでゼルエルに伝えた。バルディエルに刺されたアルト。連れ去られたエルダ。命を懸けたソフィエル。
ゼルエルは、目を閉じて、静かに聞いていた。
「……そうか。ついに、動き出したか」
長い沈黙の後、ゼルエルが、ゆっくりと目を開けた。
「アルト。お前たちには、知る権利がある。いや——知らなければ、この先、戦うことすらできない」
「のんびり聞いてる場合か!」
テラが食ってかかった。
「エルダが、今も天使どもに捕まってるんだぞ」
「焦る気持ちは分かる」
ゼルエルが静かに返した。
「だが、何も知らずに天界へ突っ込めば、お前たちは全員、ソフィエルと同じ末路を辿るだけだ。……急がば回れ、だ」
テラが、ぐっと黙った。その通りだと、分かっているのだ。
パチ、と暖炉の薪が爆ぜた。
炎の灯りが、ゼルエルの皺深い横顔を、揺らしている。
「なぜ、天使がお前たちに攻撃を通せなかったのか。なぜ、天使が人間を間引くのか。俺たちが、何のために天界を捨てたのか。そして——エルダを取り戻すために、何をすべきなのか」
ゼルエルは、剪定鋏を、そっとテーブルに置いた。
その音が、やけに静かに響いた。
「全部、繋がっている。すべての始まりは、五十年前だ」
ゼルエルの黄金の瞳が、遠い過去を見るように、細められた。
「……では、話そう」
炎が、ぱちりと爆ぜる。
「五十年前の、真実を」
(第85話 終)




