# 第84話:大魔導師と、懐かしい山小屋
「おばあちゃんが……天使……?」
フィリアが、言葉を失って立ち尽くしていた。
自分を拾い、育て、ある日突然消えた育ての親。その正体が、今まさに帝国を滅ぼし、あれほど多くの命を奪った天使たちと、同じ種族だというのだ。
あんなに優しかった人が。あんなに厳しく魔法を教えてくれた人が。あの怪物たちと、同じ存在だったなんて。フィリアの頭の中で、信じてきたものと、目の前の現実が、うまく噛み合わなかった。
「待ってくれ」
アルトが、一歩前に出た。まだ顔色は悪いが、その目には理性が戻っていた。
「オリビアさんの仲間ってことは……あんたは、俺たちの味方ってことでいいんだな?」
「はぁ?」
シャムシェルが、心底呆れたように片眉を上げた。
「分かりきってることを、いちいち聞くんじゃないよ! 敵があんたらをわざわざ馬車で迎えに来てやると思うのかい、この唐変木が!」
「……悪かった」
アルトは、素直に頭を下げた。状況が状況だ、慎重になるのも無理はないが、確かに彼女の言う通りだった。
「じゃあ、一つだけ。俺たちを、どこに連れていくつもりだ?」
「そりゃあ……着いてからのお楽しみさね」
シャムシェルが、にやりと、意味ありげに笑った。
「まあ、あんたはよぉく知ってる場所だろうがね」
「俺が、知ってる……?」
アルトが、眉をひそめた。今のアルトに、天使と繋がるような心当たりは、何ひとつない。だが、シャムシェルの確信に満ちた口ぶりが、妙に引っかかった。
「さあ、御託はそこまで! そろそろ出るよ、馬車に戻んな!」
腑に落ちないまま、一同は馬車へと戻っていく。
「……フィリア!」
その背中に、シャムシェルが声をかけた。
「……っ、な、何、おばあちゃん」
フィリアが振り返る。
シャムシェルは、黄金に輝く瞳で、じっとフィリアを見ていた。いや——見ているのは、フィリアの体を巡る魔力の流れ、その成長の軌跡だった。
「……まあ、なんだ」
シャムシェルが、ばつが悪そうに、視線を逸らした。
「突然いなくなって……悪かったね」
「おばあちゃん……」
フィリアの瞳に、みるみる涙が溜まっていく。
「いい魔法使いに、なったじゃないか」
その一言で。
こらえていたものが、決壊した。
「——っ、ぅ、うわぁぁんっ!」
フィリアが、シャムシェルに飛びついて、子どものように泣きじゃくった。
「ほんとに……ほんとにっ、大変だったんだからぁ……! ひとりで、ずっと、ずっと……っ!」
「わ、分かった、分かったから! だから謝ってるじゃないさね……っ」
普段の威勢はどこへやら、シャムシェルが、孫娘の勢いにすっかりたじたじになっている。皺だらけの手が、行き場を失っておろおろと宙をさまよい、それから、観念したように、そっとフィリアの背中に置かれた。
「……ったく。泣き虫なのは、昔から変わらないねぇ」
口ではそう言いながら、その声は、どこまでも優しかった。
その光景を見守りながら、一同の張り詰めていた緊張が、少しだけ、ほぐれた。
シアが、自分のことのように涙ぐみながら微笑む。テラも、ふっと口元を緩めた。
エルダを奪われ、帝国を失い、アルトは深手を負った。何もかもが、最悪の夜だった。
それでも——こうして再会できたものも、守られたものも、確かに、ここにある。
その小さな灯りが、折れかけた心を、かろうじて繋ぎ止めていた。
◇
馬車が再び走り出して、数刻。
荷台に揺られていたアルトは、ふと、窓の外の景色に違和感を覚えた。
深い森。切り立った山道。遠くに見える、特徴的な双子の岩山。
「……え」
見覚えが、ある。
それも、ただの見覚えではない。子どもの頃、毎日のように見ていた——
「ここって……」
やがて、馬車が、ゆっくりと停まった。
「着いたよ! 降りな!」
シャムシェルの声が飛ぶ。
一同が、馬車を降りる。
「うわぁ……すごい山奥ですね。どこですか、ここ……?」
シアが、辺りを見回しながら言った。
だが、アルトは。
目の前に広がる、懐かしすぎる風景に、ただ立ち尽くしていた。
苔むした石段。見上げるほどの大樹。その根元に建つ、古びた木造の小屋。煙突。井戸。そして、雑草一本ない、丁寧に手入れされた小さな菜園。
忘れるはずが、ない。忘れられるはずが、ない。
ここで、剪定を覚えた。ここで、植え替えを教わった。ここで、あの偏屈で口の悪い養父と、来る日も来る日も、泥にまみれて土をいじった。文句を言いながら、それでも鋏を握り続けた、自分の原点。
孤児院から引き取られた幼い自分が、人として、庭師として、形作られていった場所。
名も知らぬ親の代わりに、不器用な愛情で自分を育ててくれた、たった一人の家族との、思い出の場所だった。
アルトの口から、掠れた声が漏れた。
「……師匠の、山小屋……?」
なぜ、ここに。
なぜ、シャムシェルが、この人里離れた場所を知っている。そして、なぜ迷うことなく、ここへ俺たちを連れてきた。
師匠は、もう何年も前に旅に出たきり、消息を絶っている。この山小屋は、とうに無人のはずだった。
なのに——菜園は、手入れされている。雑草一本ない。まるで、つい先ほどまで、誰かが丁寧に世話をしていたかのように。
混乱するアルトの、その背後で。
ことり、と物音がした。
誰もいないはずの小屋の、軋む木の扉が
——ゆっくりと、内側から、開いた。
(第84話 終)




