# 第82話:逃走の馬車と、大魔導師
顔のない天使たちが、逃げるシアたちに次々と襲いかかってくる。
「させません!」
シアが肩の矢も抜けないまま剣を振るい、テラが拳で人形を吹き飛ばす。フィリアが魔法で退路を切り開く。意識のないアルトを背負ったテラを守りながら、一同は必死に街を駆け抜けた。
そして、ようやく——帝国の外門の外へと、転がり出た。
そこに、一台の馬車が停まっていた。
その傍らに、小さな人影。
「あの人が、オリビアさんの言ってた迎え……?」
シアが、声をかけようとした、その時。
隣で、フィリアが、信じられないものを見るように目を見開いていた。
「……え」
その顔から、血の気が引いていく。
「お、おばあちゃん……!?」
フィリアが、叫んだ。
そこに立っていたのは——あの日、森の小屋でフィリアを唐突に放り出し、姿を消した、育ての親だった。
小柄で、腰の曲がった老婆。けれど、その眼光だけは、鷹のように鋭い。
「再会の感動に浸ってる暇はないよ」
老婆は、フィリアの言葉を遮るように、ぴしゃりと言った。
「さっさと乗んな! 出すよ!」
そう言うが早いか、老婆は驚くほど軽やかに御者台へと飛び乗り、手綱を鳴らした。
馬車が、急発進する。
全員が荷台に転がり込むのと、馬車が走り出すのは、ほぼ同時だった。
◇
走り出した馬車の荷台で、フィリアはシアの肩の傷の応急手当をしていた。
矢を慎重に抜き、傷口を清めて、布を巻いていく。
「……あのお婆さんが、フィリアの育ての親、なんですか?」
シアが、痛みに顔をしかめながら尋ねた。
「うん」
フィリアの手が、少し震えていた。
「私を森で拾って、魔法を教えてくれた人。……ある日突然、『もう教えることはない』って、私を一人にして消えちゃった人」
フィリアは、傷を巻く手を止めなかった。
「どうして今、ここにいるのか……私にも、分からない」
その時だった。
「……ん」
背負われていたアルトの体が、ぴくりと動いた。
「アルト様!?」
シアが、弾かれたように振り返った。
アルトが、ゆっくりと目を開けた。
「……ここは」
「アルト様……! よかった……! 本当によかった……っ!」
シアが、ぼろぼろと涙をこぼした。
アルトは、一瞬呆けたように天井を見上げ——それから、はっと身を起こした。
「……っ、天使は! 帝国は、どうなった!?」
シアたちが、沈痛な面持ちで俯いた。
誰も、すぐには答えられなかった。
その沈黙が、すべてを物語っていた。
「……そう、か」
アルトの顔が、歪んだ。
帝国の壊滅。皇帝の死。騎士団の全滅。そして、自分が為す術もなく刺されたこと。バラバラだった記憶が、急速に繋がっていく。
そして——アルトは、気づいた。
この馬車の中に、いるべき一人が、いないことに。
「……エルダは?」
シアたちが、びくりと肩を震わせた。
「エルダは、どこにいる」
「……っ」
シアが、唇を噛んだ。涙が、止まらなかった。
「……エルダさんは……天使に、連れ去られて……っ」
その瞬間。
アルトは、拳を、馬車の床に叩きつけた。
ガンッ、と鈍い音が響く。
「……っ、くそっ……!」
脳裏に、記憶が蘇る。
あの日、帝国に来る前。買い出しに付き合ってくれたエルダ。荷物を抱えて、少し誇らしげに隣を歩いていた横顔。「わたくしのアルト様」と口を滑らせて、耳まで真っ赤にしていた、あの夜。
大図書館の前で、自分を侮辱されても、彼女は俺のために怒ってくれた。祖母の真実を知る怖さよりも、俺の役に立つことを選んでくれた。
俺は、誓ったはずだった。この手で、仲間を守ると。彼女を、守り抜くと。
なのに——その彼女が連れ去られる時、俺は地面に倒れて、何ひとつできなかった。
同時に、別の声が、頭の奥で響いた。かつて自分を追い出した、伯爵の声だ。
——お前が、無能だからだ。
剪定が、作庭が、接ぎ木が、何だというのだ。一番守りたかったものを、守れなかった。仲間に新しい力を授けておきながら、肝心の自分は、ただ刺されて倒れているだけだった。
「……俺は」
アルトの口から、掠れた声が、絞り出された。
「俺は……無能だ」
かつて自分を嘲笑った、あの言葉。否定し続けてきたはずのその言葉が、今、初めて、胸に深々と突き刺さっていた。
誰も、何も言えなかった。
その時。
馬車が、ガタンと停まった。
「馬を休ませる。降りな!」
御者台から、老婆の声が飛んだ。
◇
馬車を降りた俺たちの前に、老婆が立っていた。
「あなたは……」
アルトが、警戒と困惑の入り混じった目で老婆を見た。
「おばあちゃん、どうして……どうして、こんな所にいるの」
フィリアが、震える声で問うた。
「ふん。相変わらず察しが悪い子だねぇ、あんたは」
老婆が、呆れたように鼻を鳴らした。
そして、パチン、と指を鳴らす。
その瞬間。
老婆の両目が——黄金色に、輝いた。
「……っ!?」
全員が、息を呑んだ。
天使の、瞳。
「昔はねぇ……シャムシェルと名乗っていたのさ」
老婆が、にやりと、不敵に笑った。
小柄で腰の曲がった体のどこから滲み出るのか、皺だらけの顔に、見る者を圧倒する底知れない貫禄が満ちていく。さっきまでただの気難しい老婆にしか見えなかったその姿が、今は、一人の規格外の存在として、そこに立っていた。
「けど、そんな辛気臭い名前はとっくに捨てたのさ。今のあたしは——そうだねぇ」
老婆が、節くれだった指を、ビシッとアルトたちに突きつけた。
「天下無双の『大魔導師様』とでも、呼んでもらおうかね!」
(第82話 終)




