# 第81話:献身の代償と、秩序の慈悲
「門の前に、迎えを用意しています」
オリビアが、血を吐きながらも、静かに言った。
「アルトさんを連れて、今すぐ街を離れなさい」
「で、でもっ、エルダさんが……!」
シアが、拘束されたエルダを振り返った。
「オリビアさんだって、そんな体で……!」
「私はね」
オリビアは、穏やかに微笑んだ。
「あなたたちという希望を守るために、今日この日まで生き長らえてきたの。どうか——この老いぼれに、役目を果たさせてちょうだい」
「そんな……っ」
フィリアが、唇を震わせた。
「大丈夫。彼らは、すぐにエルダの命を奪うことは無いはずよ。利用価値があるなら、なおさらね」
オリビアの目が、優しくエルダの方を見た。
「あの子を、頼むわね。……さあ、行って! あの人のもとへ!」
オリビアが、両手を広げた。
「拒絶の壁!」
先ほどラグエルの拳を弾いた光の結界が、今度は逆向きに——シアたちを優しく押し出し、オリビア自身と天使たちを、内側に閉じ込めるように包み込んだ。
「——っ!」
テラが、決心した顔で、眠ったままのアルトを担ぎ上げた。空いた手で、呆然とするシアとフィリアの手を、強く引く。
「行くぞ! オリビア殿の覚悟を、無駄にするな!」
「やっ……離して、テラさん! エルダさん……エルダさんっ!!」
シアが、引きずられながら、結界の中のエルダに向かって叫んだ。
「待ってて! 絶対っ、絶対に助けに行くから……!!」
その叫びを背に受けながら、オリビアは、遠ざかる小さな背中を、目を細めて見送った。
「……ゼルエル。シャムシェル。あとは——頼んだわよ」
誰にも聞こえない声で、そっと呟いた。
◇
シアたちが走り去った後。
「ちょっとぉ、これ何なのさ!」
ティラエルが、結界を内側から殴りつけた。だが、光の壁はびくともしない。矢を撃ち込んでも、まるで手応えがなかった。
「クソッ、全然壊れる気配ないんだけど!」
「無駄だ。止めろ」
バルディエルが、静かに言った。
「当時、その結界を破れたのは、昂翼十聖天でも——第一位の男のみだった」
ティラエルが、舌打ちして手を止めた。
バルディエルは、ゆっくりとオリビアへと歩み寄った。
「ソフィエル。五十年前、貴様らが天界から盗み出したアレらは、一体どこに——」
問いかけて。
バルディエルは、言葉を止めた。
オリビアが、結界を展開した姿勢のまま、微動だにしていないことに気づいたのだ。
胸は、上下していない。
「……すでに、絶命していたか」
「は? 絶命って、結界まだ発動したまんまじゃんか!」
ティラエルが、素っ頓狂な声を上げた。
「何言ってんのさ、隊長! 死人が結界張れるわけ——」
「拘束された娘を見ろ」
バルディエルが、淡々と言った。
重圧に縫い止められたエルダが、祖母の死を悟り、声にならない嗚咽を漏らしていた。涙が、地面へとぼたぼたと落ちている。
「……死してなお、己の使命を果たすか」
バルディエルが、静かに腰の剣を抜いた。
「見事だ」
剣が、一閃。
あれほど誰にも破れなかった光の結界が、硝子のように砕け散った。
◇
「貴様らは、その娘を連れて、先に天界へ戻れ」
バルディエルが、ティラエルとラグエルに命じた。
「私は、この罪人を処理してから戻る」
「はいはーい」
「はっ」
二人の天使が答えると、虚空に光の門が現れた。エルダを引きずったまま、その向こうへと消えていく。
「アルト、さま……」
最後に、エルダの掠れた声が、夜に溶けて消えた。
◇
残されたのは、バルディエルと、オリビアの亡骸だけだった。
炎の音だけが、遠くで響いている。
しばしの、静寂。
「……ソフィエル様。お久しぶりです」
バルディエルは、剣を鞘に納めると、結界を張ったまま事切れていたオリビアの体を、そっと抱え上げた。
乱れた白髪を整え、その亡骸を、地面に丁重に横たえる。
そして、光を失ったまま見開かれていた黄金の双眸を、指先で、優しく閉じてやった。
脳裏に、遠い記憶が蘇る。
——バルディエル。またこんな時間まで、剣の修練をしていたのね。だめよ、手を見せてごらんなさい。ほら、こんなに豆をつくって。
——バルディエル! 昂翼十聖天へ、ようこそ。これからは、共に天界の平和を守りましょうね。
あの頃。彼女は、誰よりも優しく、誰よりも気高い、自分の憧れの存在だった。
その人が、なぜ天界を裏切り、地上の人間などのために、命を捨てたのか。
「……何が」
バルディエルの声が、わずかに、震えた。
「何が、貴方たちを——ここまで突き動かしたというのだ……!」
答えは、返らない。
バルディエルは、しばらく、その亡骸を見下ろしていた。
やがて、静かにオリビアの体を抱き上げると、無言で、光の門へと歩み出した。
表情は、変わらない。
ただ、その腕に抱かれた亡骸だけが、まるで眠っているかのように、安らかだった。
門の向こうへ、その背中が消えていく。
後には、燃え続ける帝国の夜だけが、残された。
(第81話 終)




