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# 第80話:翼の折れた天使と、覚悟の献身



「アルト様……っ! アルト様あぁっ!!」


 エルダが叫びながら、倒れたアルトに縋りついた。

 震える手を傷口にかざし、必死に魔力を練る。


「お願い、間に合って……っ!」


「あ、隊長。あれが、例の僕らと同じ瞳を持った女ですよ」


 ティラエルが、エルダを指さして言った。

 バルディエルの切れ長の黄金の瞳が、ゆっくりとエルダへ向く。そして、無言で歩み寄った。


「——近寄らないで!」


 エルダが咄嗟に光と闇の魔力弾を放った。混沌の砲撃が、バルディエルへと殺到する。

 だが。

 その全てが、バルディエルの体に触れる寸前で、まるで最初から存在しなかったかのように、霧散した。

 爆発も、衝撃も、何ひとつ起きない。傷ひとつ、つかない。歩みすら、止まらない。表情ひとつ、動かない。


「そんな……っ」


 バルディエルは、無造作にエルダの腕を掴むと、アルトから引き剥がした。そして、その顔を——まじまじと、見つめた。


 沈黙。


「……ほう」


 バルディエルの口から、初めて、わずかな感情の滲んだ声が漏れた。


「確かに、我らの血が混じっているな」


 冷たい瞳が、エルダの相貌をじっと見据える。


「それに……似ている」


 バルディエルの瞳の奥に、ほんの一瞬、遠くを見るような色が過ぎった。だがそれは、瞬きの間に消えた。

 何を思い出したのか。バルディエルは、それきり口をつぐみ、少しの間、沈黙した。


「即刻、始末する予定だったが……気が変わった。何かに使えるかもしれん」


 バルディエルは、エルダを背後へと放り投げた。


「『探求』に引き渡す。ラグエル、拘束しておけ」


「はっ」


 ラグエルが、放られたエルダを受け止めると、その全身に重圧をかけて地に縫い止めた。


「うげー、『探求ぅ』?」


 ティラエルが、心底気の毒そうに顔をしかめた。


「あの変態に体をいじくり回されるなんてさ、可哀想にねぇ」


「……っ、放しなさい……! アルト様……!」


 エルダが重圧の中でもがくが、抜け出せない。


「隊長。残りは、いかがしますか」


 ラグエルが問うた。

 バルディエルは、シアたちを一瞥した。そして、たった一言。


「殺せ」


「かしこまりました」


 ラグエルが拳を構える。


「やるぞ、ティラエル」


「はいはい」


 ティラエルが、面倒くさそうに弓を構えた。

 ラグエルの巨体が、倒れたアルトと、その傍らのシアたちへと迫る。


「アルト様……! やらせません……っ、絶対に……!」


 シアが、アルトに覆いかぶさった。肩の矢も抜かないまま、自分の小さな体を盾にして、迫る巨大な拳からアルトを守ろうとする。守れるはずもない一撃を前に、それでも、退かなかった。

 ラグエルの拳が、振り下ろされる。

 シアの背に、その一撃が——届こうとした、その時。


 ドーム状の光の結界が、アルトとシアを包み込んだ。

 重圧を纏ったラグエルの拳が、その結界に弾かれ、鈍い音を立てて止まった。


「む……っ」


 ラグエルが、顔をしかめた。


「……何だ、これは」


 誰もが、結界の出どころを探して、視線を巡らせた。

 そこに、立っていたのは。


「お祖母様……!?」


 エルダが、目を見開いた。

 燃える夜の中、白いドレスを纏ったオリビアが、静かにそこに立っていた。皺の刻まれた顔に、穏やかな、しかし揺るぎない決意を湛えて。

 バルディエルの瞳が、わずかに細められた。


「……貴様は」


 冷たい声に、初めて、明確な何かが混じった。


「やはり、そこの娘は、貴様の血族だったか」


 バルディエルが、ゆっくりと告げた。


「老いさらばえて、見違えたぞ。——天界の大罪人にして、元・昂翼十聖天、第四位。『献身』のソフィエル」


 その名に、その場の全員が息を呑んだ。

 第四位。バルディエルに次ぐ、序列。


「……その名は、もう捨てたわ」


 オリビアは静かにそう言うと、ゆっくりとアルトの元へと歩み寄った。

 膝をつき、アルトの傷口に、その皺だらけの手をかざす。


「献身の権能——『無償のアガペー』」


 温かい光が、その手から、まるで陽だまりのように溢れ出した。

 それは、これまでアルトたちが受けたどんな回復魔法とも違っていた。傷を「治す」のではなく、まるで失われた命そのものを、外から分け与えているような光。


 腹を貫かれていたアルトの傷が、見る間に塞がっていく。裂けた肉が繋がり、流れ出ていた血が止まり、失われた体温が、じわりと戻っていく。

 止まりかけていた心臓が、再び脈打ち始めた。

 だが、アルトの意識が戻ることはなかった。


 深手から命を引き戻しただけで精一杯なのか、その瞼は固く閉じられたまま、ただ規則正しい寝息だけが、かすかに漏れている。


「命は、繋ぎ留めたわ。でも、目を覚ますにはもう少しかかる」


 オリビアが、優しく微笑んで、傍らで泣きじゃくるシアの頭を、そっと撫でた。

 その、瞬間。


「——ごほっ……!」


 オリビアが、大量の血を吐いた。


「お祖母様!!」


 重圧に縫い止められたエルダが、悲鳴のような声を上げた。


「翼をもがれた身で、天使の権能を行使したのだ」


 バルディエルが、淡々と言った。


「当然の代償だろう」


 オリビアの体が、ぐらりと傾いだ。シアが慌ててその体を支える。


「オリビアさん……! しっかり……っ」


 だが、オリビアは、穏やかなままだった。

 口元の血を拭うこともせず、シアに向かって、静かに微笑んだ。


「……いいの」


 掠れた、けれど確かな声だった。


「この日のために、私は——生き長らえてきたのだから」


 その目は、すでに。

 生にも、死にも、もう何も揺らがない——何もかもを覚悟しきった者だけが持つ、静かで、どこまでも澄んだ黄金の目をしていた。


(第80話 終)


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