# 第79話:秩序の化身と、堕ちる意識
夜空から、それは静かに舞い降りた。
長身の、男だった。
背中まで伸びた長い髪が、炎の照り返しを受けて、絹のように揺れている。鋭く整った相貌は、どこまでも酷薄で、けれど不思議と目を奪われるほどに美しい。纏う鎧には、他の天使のような華美な装飾が一切なかった。ただ機能だけを突き詰めた、無駄を削ぎ落とした静かな美しさがそこにある。腰には、一振りの長剣。それだけ。
表情は、ぴくりとも動かない。怒りも、嘲りも、退屈すらも、何ひとつ浮かんでいない。ただ、静かに、虫けらでも見るようにこちらを見下ろしている。その双眸だけが、黄金に、氷のように冷たく光っていた。
言葉は、ない。佇まいだけで、すべてを語っていた。
全員が、同時に悟った。
格が、違う。
ティラエルとも、ラグエルとも、根本的に何かが違う。あの二人が「強敵」なら、この男は——災害だ。
「さっさと起きろ、ティラエル」
その天使が、静かに言った。
その瞬間。
「あーあ、もう。せっかく寝たふりしてたのにさぁ」
地に伏していたはずのティラエルが、文句を言いながら、何事もなかったように起き上がった。
傷が、ない。
あれほどの攻撃を浴びたはずの体に、傷ひとつ残っていない。
「そ、そんな……っ」
シアが、信じられないという顔で剣を取り落としそうになった。あれだけの全力の一撃が、まるで通じていなかったのだ。
「だってさぁ! ラグエル」
「……ああ」
大の字に倒れていたラグエルも、ゆっくりと身を起こした。首を鳴らしながら、岩のような巨体が立ち上がる。
「正直、地上の人間がここまでやれるとは思わなかった。感慨に浸っていたところだ」
「ば、馬鹿な……っ!」
テラが目を剥いた。
「貴様もぐああ、などと呻いておったではないか」
「仕方ないじゃない! すっごく眩しかったんだからさぁ」
軽口を叩き合う二人の天使を前に、俺たちは呆然と立ち尽くすしかなかった。
全力で倒したはずの相手が、二人とも、無傷で立っている。
(……まだだ。まだ、終わってない)
俺は、震える足を踏みしめた。
「みんな……あと少し、頑張れるか」
掠れた声を、必死に振り絞る。
「いいかげん、帝国騎士団が街の異変に気づいて、城から出てくるはずだ。それまで、耐えるんだ!!」
帝国騎士団。
この大陸において、無敵と謳われる最強の騎士団。「不滅の盾」レオンハルトを筆頭に、各地の戦で武勲を立てた名のある武将が、数えきれないほど在籍している。一個小隊でも、並の魔物の群れなど物の数ではない。
その彼らが本隊で援軍に来てくれれば、この絶望的な状況も、まだ覆せるかもしれない——
「てーこくきしだんー?」
ティラエルが、心底おかしそうに、長髪の天使の右手を見ながら言った。
「来れるといいねぇ。まあ——」
ティラエルが、にやりと笑った。
「首と胴が、繋がってればの話だけどさ」
ティラエルが、長髪の天使の右手から何かをひったくり、俺たちの足元へと放り投げた。
それは。
ごろりと地面を転がって、止まった。
「不滅の盾」レオンハルトの——首だった。
「ひ……っ、いやああああっ!!」
フィリアが、悲鳴を上げて顔を背けた。
俺は、言葉を失った。
騎士団最強の男の首。それが意味するのは、ただ一つ。帝国騎士団は、もう——壊滅している。
そして、その傍らに、もう一つ。
何となく、見覚えのある首が転がっていた。
隣で、エルダが青ざめた顔で、ガタガタと震えながら呟いた。
「……皇帝、陛下……」
「……っ!?」
俺は、絶句した。
帝国騎士団の壊滅。そして、皇帝の死。
それは、この大帝国そのものが、たった一夜で陥落したことを意味していた。
「あ、隊長。あれが、例の庭師ですよ」
ティラエルが、俺を指さした。
「そうか」
長髪の天使は、たった一言だけ返すと、こちらへと——歩き始めた。
普通の歩みだった。何の能力も使われていない。なのに、誰一人、動けなかった。まるで時が止まったかのように、足が地面に縫い付けられて、声すら出せなかった。
――「ねぇ、ラグエル。不公平だと思わない?」
「……うちのティラエルが、世話になったようだな。地上の庭師よ」
――「あの人、天使としての権能すら、持ってないのにさぁ」
「礼という訳ではないが、痛みを感じぬよう、葬ってやる」
――「その剣技だけで、昂翼十聖天、《《第二位》》ってさ」
気づいた時には。
長髪の天使が、俺の目の前に、立っていた。
いつ抜いたのか。いつ振るったのか。誰も、見ていない。
俺の腹部に、冷たい何かが、深々と突き刺さっていた。
視線を、ゆっくりと下げる。
長髪の天使の長剣が、俺の腹を貫いて、背中まで突き抜けていた。
痛みは、まだ来なかった。何が起きたのか、俺自身も、周りの誰も、理解が追いついていなかった。ただ、生温かいものが、足元へと滴り落ちていく音だけが、やけに大きく聞こえた。
――「僕らが化け物なら、あの人は…」
一拍、遅れて。
「嫌ぁぁ!!アルト様あああああっ!!」
シアの、絶叫が響いた。
「名も知らぬ者に葬られるのも、不憫だろう」
長髪の天使が、静かに告げた。
「冥土の土産に、教えてやる。——我が名は、昂翼十聖天、第二位。『秩序』のバルディエル」
――「怪物だよ」
(第79話 終)




