# 第76話:緩徐の権能と、見えない刃
「なっ……六位、だと……?」
俺は、耳を疑った。
先ほど、テラとフィリアが死力を尽くしてようやく倒したラグエル。あの化け物は、自分を「第十位」だと名乗っていた。あれほどの怪物が、十番目。
そして今、目の前で気だるげに笑うこの少年は——その化け物より、四つも格上だと言ったのだ。
背筋を、氷の塊が滑り落ちていくような感覚があった。
格が違う。次元が違う。ラグエルでさえ全力を尽くさねば倒せなかった俺たちが、その四つも上の存在を相手に、どう戦えというのか。
ちらりとテラとフィリアを見る。二人とも、先ほどの激戦で消耗が激しい。テラは竜化を解いた反動で膝に手をつき、息を整えるのに精一杯だ。フィリアも杖にすがるように立っているのがやっとで、もう大きな魔法を撃てる魔力は残っていないだろう。しばらく加勢は望めない。
俺自身は、戦闘の才を持たない、ただの庭師だ。この絶望的な戦場で、剪定鋏で天使に斬りかかったところで、瞬きの間に射抜かれて終わるだろう。歯がゆかった。だが、それが現実だった。
今は、シアとエルダに託すしかなかった。
だが、その二人ですら、さっきから様子がおかしい。シアは剣を抜こうと構えたまま、エルダは魔力を練ろうとしたまま、二人とも妙にぎこちなく、動きが鈍い。何かに搦め捕られているような、そんな違和感があった。
「じゃあ、試合再開といこうか」
ティラエルが、気だるそうに弓を構えた。番えた矢が、淡く光を帯びる。
その指が、弦から離れた。
次の瞬間。
「——っ、ぁ……っ!?」
シアの肩口に、矢が突き立っていた。
誰も、矢が放たれた瞬間を見ていない。弓を引く動作も、弦が震える音も、矢が空を裂く軌跡も。何ひとつ、認識できなかった。気づいた時には、もう刺さっていた。シアの白い肩から、赤い染みがゆっくりと広がっていく。
見えなかった。あれだけ研ぎ澄まされたシアの反応速度をもってしても、避けるどころか、反応すらできなかった。
「さぁ、次は心臓だよ?」
ティラエルが、楽しそうに首を傾げた。
(どうする……っ)
俺は歯を食いしばった。あの速度に、どう対応しろというんだ。シアの【刹那】でも追いつけない。エルダが魔力を練るのも間に合わない。このティラエルの権能の謎を解かなければ、突破口は見えない。
その時、ふとシアの様子がおかしいことに気づいた。
苦悶の表情が、尋常ではない。肩を射抜かれただけにしては、あまりにも長く、苦しみ続けている。脂汗を浮かべ、歯を食いしばって、何かに必死で耐えているような——
「シア、どうした! 毒か!?」
「ア、アルト様……この、弓矢……」
シアが、脂汗を滴らせながら、震える声で絞り出した。
「変、なんです……刺さった時の痛みが、一気に来ないで……ゆっくり、ゆっくりと、肉を裂きながら、刺さって来る感じが、ずっと続いて……っ」
一瞬で終わるはずの痛みが、引き延ばされている。それは、想像を絶する責め苦のはずだった。
ゆっくり?
その言葉が、引き金になった。
俺の脳裏に、初めてティラエルと遭遇した、地の底での記憶が蘇る。
あの時、世界の根に流れる魔力は、酷い詰まりを起こして腐っていた。流れが、滞り、淀んでいた。まるで、時間そのものが、そこだけ遅くなっているかのように——
(もし、あれが……こいつの権能だったとしたら……!)
バラバラだった点と点が、一本の線に繋がった。
あの地の底の腐り。世界の根の詰まり。あれは魔力の流れを「遅く」したものだったんだ。そしてこいつは今、同じことを俺たちの感覚に対してやっている。
「シア! エルダ!」
俺は腹の底から叫んだ。
「今、お前たちは——感覚そのものを、遅くされている! ティラエルの攻撃がとんでもない速さに見えるのも、弓矢の痛みがゆっくり来るのも、全部そのせいだ!」
速いんじゃない。
俺たちの感覚が、引き延ばされて、遅くされているんだ。
「……へー。よく分かったね」
ティラエルが、ぱちぱちと軽薄な拍手をした。
それから、ふっと、笑みを消した。
底冷えのする、冷徹な表情で俺たちを見下ろす。
「で——分かったからどうするの?」
ティラエルは、すでに次の矢を番えていた。
「正解にたどり着いても、君たちの体が遅いことに変わりはないんだよ。仕組みが分かったところで、追いつけないなら意味がない」
弦が、ゆっくりと引かれていく。俺たちにはそう見えるだけで、実際は一瞬なのだろう。
「これで、終わり」
矢が、放たれた。
光の軌跡が、シアの心臓へと一直線に伸びる。エルダが何か叫んだ。だがその声も、ひどく間延びして聞こえた。
「シアーーっ!!」
俺は叫んだ。
間に合わない。届かない。声すら、遅れて聞こえる。
——だが。
矢は、シアの心臓を捉えていなかった。
そこには。
目を閉じたまま、静かに腰を落とし、剣の柄にそっと手を添えた——居合の姿勢を取る、シアの姿があった。
痛みに歪んでいた顔は、もうそこにはなかった。
ただ、静かだった。嵐の前の水面のように、どこまでも凪いでいた。
(第76話 終)




