# 第75話:地竜拳聖と、緩徐の宣告
――テラが、動いた。
先ほどまでとは、まるで別人だった。あれほどテラの全身を地面へと縫い付けていたラグエルの重圧。その見えない檻の中で、テラは、いつも以上のキレを持って大地を蹴った。重さに押し潰されるどころか、その重さごと力で捩じ伏せ、跳ねのけている。地龍の力が、文字通り血肉の一部となって全身を巡っているのだ。
「ほう……っ!」
ラグエルが拳を繰り出した。テラもまた拳を突き出す。
二つの拳が、空中で交差した。
互いの拳が、互いの顔面を捉える。
鈍い音。テラの頬が裂け、ラグエルの頬から鈍い音がした。二人とも、避けなかった。避ける気もなかった。拳士としての、純粋な意地のぶつかり合いだった。
互いの拳を顔面に受けたまま、二人はしばし睨み合う。
ラグエルの口元が、わずかに緩んだ。
「……良い拳だ。先ほどまでの貴様とは、まるで違う」
どこか満足そうな声だった。
「ならば、これならどうだ」
ラグエルが拳を引いた。その拳の一点に、重圧の権能が凝縮されていく。空間が歪むほどの「重さ」が、たった一つの拳に集約されていく。
「衝突する重圧!!」
それを、振り下ろした。
「地拳術・一の型――【天突】!!」
テラが下から拳を突き上げる。
打ち下ろしの拳と、突き上げの拳が、真正面から激突した。
凄まじい轟音。衝撃波が広場の石畳を吹き飛ばし、周囲の建物の窓ガラスが一斉に砕け散った。
拮抗――は、しなかった。
上から振り下ろされるラグエルの重圧の一撃。下から突き上げるテラの拳。位置のエネルギーが乗る分、ラグエルに利があった。テラの拳が、じりじりと押し込まれていく。
(押し負ける――!)
テラは即座に判断した。
力比べでは勝てない。ならば、受け流す。
テラは拳を引き、ラグエルの拳の軌道に逆らわず、その力を地面へと受け流した。同時に、勢いを利用して前方へと一回転する。
「地拳術・四の型――改!」
本来、四の型は前方に一回転し、その勢いのまま踵を叩き込む踵落としの技だ。だが今のテラの肉体は、人のそれではない。
回転の遠心力を、人の脚ではなく、長く強靭な竜の尾へと乗せる。
「【龍尾旋】!!」
鱗に覆われた巨大な尾が、前方回転の勢いをそのまま乗せ、真上から振り下ろされた。
人の四肢では決して出せない、竜種の尾だからこその一撃。重さも、軌道も、ラグエルの予測の外にあった。
「ぐ……っ!?」
ラグエルが咄嗟に両腕を頭上で交差させ、辛うじて受け止める。だが、その巨体が初めて大きく仰け反った。岩のような体が、たたらを踏む。重い呻き声が漏れ、全身を覆っていた重圧の波動が、一瞬、確かに緩んだ。
その刹那を、フィリアは見逃さなかった。
「――今です!!」
杖を振り上げ、迷いなく言霊を紡ぐ。
「弾き飛ばして!――純白の暴牛・雷!!」
純白の巨大な牛が顕現した。全身に紫電の雷光を纏い、地を蹴るたびに雷鳴を轟かせながら、ラグエルへと突進する。
その速度は、まさに雷光そのもの。一瞬の閃きが、闇を引き裂いて奔った。
「ぬうっ!?」
雷を纏った突進が、仰け反ったラグエルの胴体に突き刺さった。轟音と閃光。ラグエルの巨体が大きく弾き飛ばされ――先ほどモグラが穿った、地面の大穴へと落下していく。
「フィリア!」
テラが叫んだ。
「なるべく高く、アイツを打ち上げられるか!」
「はい!!」
迷いのない返事だった。
フィリアが杖を穴へと向け、新たな言霊を編む。
「数多の水を!――純白の巨象・水!!」
純白の巨象が、長い鼻から大量の水を噴き出した。
その水流が、モグラの穿った縦穴へと一気に流れ込む。逃げ場のない穴の中で、水圧が爆発的に高まった。
「ぐおおおっ!?」
落下していたラグエルの巨体が、凄まじい水圧によって下から突き上げられ、間欠泉のように天高く打ち上げられた。
夜空に、無防備な巨体が舞う。
そして、その遥か上空で。
テラが、待ち構えていた。
いつの間に跳躍したのか。竜の膂力で夜空高くまで跳び上がったテラが、打ち上げられてくるラグエルの背後をぴたりと取った。
落下してくる巨体に背後から組みつき、両腕をラグエルの脇の下から回して、その頭部を自分の腹の前で固定する。そのまま、テラは自らの身体ごと前方へと倒れ込み、逆さまになった。
ラグエルの脳天が真下を向く。テラの体重と、竜の膂力と、二人分の落下の勢い。そのすべてが、ラグエルの脳天一点へと収束していく。
「終わりだ、天使」
錐揉み回転しながら、二つの巨体が地面へと一直線に落ちていく。
「地拳術・五の型――落岩杭堕!!」
轟音は、もはや音ではなかった。空気そのものを叩き割るような、暴力的な衝撃だった。
ラグエルの脳天が、地面へと激突する。広場全体が放射状に陥没し、衝撃で土砂が高々と噴き上がった。砕けた石畳が雨のように降り注ぐ。
やがて土煙が晴れると、クレーターの中心で、岩のような巨体が、大の字になったまま、ぴくりとも動かなくなっていた。重圧の波動も、もう感じられない。完全に、沈黙していた。
静寂。
クレーターから、テラがゆっくりと歩み出てきた。
竜化が解け、いつもの姿へと戻っていく。紅の瞳が、元の色へ。鱗の紋様が、肌の下へと引いていく。
テラは肩で息をしながら、倒れて動かないラグエルを静かに見下ろした。
「……詫びよう、天使。化け物は私の方だったようだ」
不敵な、しかしどこか誇らしげな笑みだった。胸の奥で、地龍の魂が満足げに唸るのを、テラは確かに感じていた。
「礼を言うぞ、相棒」
小さく、誰にも聞こえない声で呟く。
◇
その一部始終を、欄干から眺めていた者がいた。
ティラエルだ。
「あーあ。何やってんのさ、ラグエル」
気だるそうに、心底呆れたように頭を掻く。
「真面目にやってないのは、どっちなのさ。あれだけ偉そうに説教しといてさあ」
俺はティラエルを見た。
「お前の上司は倒れたぞ。その余裕も、そこまでだ」
「上司ぃ?」
ティラエルが、きょとんとした顔をした。
それから、可笑しそうにくつくつと笑い出した。
「あー、そっか。自己紹介、まだだったね」
その瞬間。
不意に、嫌な予感が、俺の頭をよぎった。
背筋を、氷のように冷たいものが這い上がってくる。
おかしい。仲間が一人倒されたというのに、この少年には焦りも怒りも、何ひとつ浮かんでいない。むしろ、退屈な前座がようやく終わった、とでも言いたげな顔をしている。
ティラエルが、欄干からゆっくりと身を起こした。気だるげな金色の瞳が、初めて、こちらを真っ直ぐに見下ろした。
「君たちの健闘を讃えて、特別に教えてあげる」
――夜風が、止まった。
「昂翼十聖天、《《第六位》》――『緩徐』《かんじょ》のティラエル」
ティラエルが、にっこりと笑った。
「別に、覚えなくていいよ。どうせ君たち、みんな死ぬんだから」
凍りついた空気の中で、誰も、言葉を発することができなかった。
(第75話 終)




