# 第49話:最奥の少年と、終わった準備
「皆さん、少し失礼いたしますわ」
エルダが振り返り、右手を優雅に掲げた。
「聖陰の混沌たる癒し――『我が双眸に、光闇の平穏を《カオス・ヒール》』」
彼女が紡いだその言葉とともに、これまでのいかなる回復魔法とも根本的に異なる、驚くほど濃厚な温かさが俺たちの全身へと瞬時に浸透していった。
光でもなく、闇でもない、完全に調和した混沌のエネルギーが、身体の奥底に刻まれた傷と疲労を文字通り根元から溶かしていく。骨身に染み付いていた重い倦怠感が、みるみるうちに霧散していった。
「……なんという凄まじさだ」
グラムが己の分厚い右腕を何度も握り締め、驚愕の声を漏らす。
「あれほどの打撃を受け、肉体が裂けかけていたというのに、万全だった時以上の力が満ちていく……」
「エルダさん……!!」
シアがたまらずエルダの身体に勢いよく飛びついた。
「ありがとうございます! 身体がまるで羽根のように軽くなりました!!」
「あらあら、元気になって何よりですわ」
エルダは珍しく気恥ずかしそうに視線を逸らし、小さく微笑んだ。
「私の中で光と闇の花が完全に咲いたことで、回復にも攻撃にも偏らない、完全に中立な魔力が自在に使えるようになりましたの。人体の自然治癒を極限まで加速させるには、この混じり気のない中立のエネルギーが最も相性が良いのですわ」
「それは、私が進めている魔導医療の研究テーマに直結する素晴らしい発見です……!!」
フィリアが興奮のあまり、大きな瞳を爛々と輝かせた。
「ふふ、後でいくらでも議論に付き合って差し上げますわ。ですが今は、先へと参りますわよ」
そびえ立つ巨大な大扉は、俺たちが一歩近づくと、まるで意思を持っているかのように自然と開き始めた。内側からゆっくりと、俺たちを奥へと案内するように。
扉の向こう側に広がっていたのは、言葉を失うほどに広大な、球体状の空洞だった。
天井も、床も、周囲の壁も、すべてが半透明な純白の結晶で覆われており、その中心には地脈のすべての流れが一点に集約される、巨大な祭壇が鎮座している。結晶の奥から透けて見える地脈の奔流は本来美しかったはずだが、現在のその色は澱んだ漆黒に濁り、おぞましい濁流となって激しく渦を巻いていた。
「ここが……世界の『根の根』……」
テラが圧倒され、声を小さく戦慄かせる。
しかし、俺の視線はすぐに、地脈の奔流よりも遥かに異質な存在へと吸い寄せられた。
――祭壇の前。
そこに、一人の少年が佇んでいた。
見た目は俺たちとそう変わらない年齢に見える。しかし、どこか現実の年齢が掴めないような、奇妙で不気味な印象を放っていた。白に近い淡い金髪に、折れそうなほど細い手足。そして何より異様なのは、その背中に、純白の巨大な翼が二枚、折り畳まれていることだった。
(翼……? 鳥の獣人とも違う、見たこともない存在だ……)
しかし、それ以上に俺の目を引いたのは、その少年の瞳だった。
爛々と輝く――金色。
少年は祭壇に両手を預け、黒く濁りきった地脈のエネルギーをどこか遠くへと流し込みながら、こちらに気づく様子もなく、ぶつぶつと退屈そうに独り言を呟いていた。
「……本当、面倒くさいんだけどな。下等な生き物のくせに、妙に生命力だけは強いんだよね、こいつら……」
俺たちは互いに顔を見合わせた。
「あの……」
フィリアが恐る恐る、震える声をかけた。
少年は一切の反応を示さない。
「すみません、少しお話を伺ってもよろしいですか!!」
シアが一段大きな声で呼びかける。
やはり無視だ。こちらの存在が最初から視界に入っていないかのように、完全に黙殺している。
「こちらを向いてもらえるか、少年」
グラムが威圧感を放ちながら一歩前に出た。
それでも無視。
あからさまな態度に、グラムの顔に怒りの情念が滲む。
「おい」
無視。
「聞こえているのか、小僧」
無視。
グラムが激しく舌打ちをし、少年の肩を強引につかんで引き剥がそうとした
――その、瞬間だった。
「――僕に気安く触るなよ、虫けらが」
一瞬にして、空間の空気が凍りついた。
少年の声には抑揚がなく、完全に感情が欠落していた。しかし、その静かな一言と同時に、グラムの巨体が大砲から放たれた弾丸のように、通路の反対側の壁まで一直線に吹き飛ばされたのだ。
凄まじい衝撃音が轟く。背後の壁を大きく粉砕し、岩盤の床へと力なくずり落ちていくグラム。
「グラム!!」
テラが声を上げて駆け寄る。
少年はそれでも、まだこちらを振り返ろうとはしなかった。ただ、心底うんざりしたようにため息をつき、ようやく億劫そうに首だけをこちらへと向けた。
その冷徹な金色の瞳が、俺たちを静かに見下ろす。
「……なんなの、君たちは。地上の虫けら? 珍しいね、こんな底の底にまで落っこちてくるなんて」
その口調は、家の中に現れた見たことのない虫を見つけた人間が「珍しい種類だな」と呟く感覚に酷く酷似していた。驚いているわけでも、警戒しているわけでもない。ただ、純粋に「珍しい現象だ」と観察しているだけだ。
「そもそも、最近僕の計画が妙に狂ってたんだよね。地脈に流した腐りが、何度も不可解に切り直されててさ。誰かが裏で邪魔をしてるなとは、ずっと思ってたんだけど」
少年の金色の瞳が、俺の手元で静かに佇む剪定鋏の刃でぴたりと止まった。
「……あぁ、そういうこと。それ、君がやってたの?」
「地脈をあるべき姿に整えに来た」
俺は鋏を握り直し、真っ直ぐに少年を見据えて答えた。
「ここに渦巻く腐りの連鎖を、すべて止めるためにね」
「へえ」
少年は少し考えるように首を傾げた。そして、ふっと何かを思い出したように、その顔に残酷な笑みが浮かぶ。
「――それ、めちゃくちゃ邪魔だったんだけどな」
声の音調が、一瞬にして数段階下がった。
俺のすぐ横で、シアがいつでも抜剣できるよう剣の柄に手をかけた。エルダの周囲に、爆発的な魔力の粒子が練られ始める。
しかし少年は、すぐにまたどうでもよさそうな、退屈な表情へと戻った。
「……まあいっか。もう全部終わったし」
「終わった、とはどういう意味だ」
少年が少し意外そうに俺を見た。まるで、ただの虫が人間の言葉を明確に喋ったのを、初めて耳にしたかのような顔だ。
「上にいる虫けらどもをさ、綺麗に間引いてくれって言われてたんだよね、僕。数がちょっと増えすぎちゃったから。でも、いちいち手を下すのって面倒くさいじゃない?」
少年が軽く、大袈裟に肩をすくめて見せた。
「だから、自分たちで勝手に殺し合ってもらうことにしたんだ。地脈を通じて濃厚な腐りのエネルギーを一気に流し込んで、正気を奪えば、あとは勝手に同士討ちを始めて全滅してくれるから。――その、すべての流し込みのが、さっき完全に終わったんだよね」
シン、と、空気が凍りつくような沈黙が空間に落ちた。
一拍の遅れを伴って、俺はその言葉の持つ最悪の意味を理解した。
地の民の都。
あそこに今も残っている、大勢の、罪のない人たちが。
「テラ……!!」
「……分かってる」
テラの顔が、血の気が引いたように蒼白に染まっていた。
「早く戻らないと……都が、みんなが大変なことになる……!」
「あれ」
少年がその時、初めて俺たちの中の一人に対して、明確にその視線を止めた。テラでもなく、俺でもない。――エルダだ。
少年の金色の瞳が、エルダの宿す深みのある瞳を、しばらくの間じっと射抜くように見つめる。
「……あいつ、なんで……」
少年が低い声で、信じられないといった風に呟く。しかし、すぐに小さく首を振ってその思考を打ち消した。
「いや、そんなわけないか。でも一応、隊長に報告しておくか……」
その時、少年の背後の空間が、ガラスが割れるようにぐにゃりと歪んだ。
歪みの向こうから、別の大きな翼を持つ人物が姿を現した。こちらはかなり大柄な体格をしていた。そしてその双眸には、少年と同じ、冷徹で神聖な黄金の瞳が怪しく宿っていた。
「ティラエル。まだこんな場所で油売って遊んでいたのか。次の仕事が詰まっている、早く戻れ」
「え、もう? 休憩もなし?」
「お前の休憩時間は終わりだ。来い」
少年――ティラエルと呼ばれた存在は、あからさまに嫌そうな顔をして唇を尖らせた。それから俺たちの方へと再び向き直り、大きなあくびを噛み殺しながら、吐き捨てるように言った。
「じゃあ、僕は忙しいから。君たちも早く地の都とやらに戻った方がいいんじゃない? ……まぁ、もう手遅れだと思うけどね」
「待て!!」
俺は一歩踏み出し、消えゆく少年の背中に声をぶつけた。
「お前は、一体何者なんだ…!!」
少年は一瞬だけ、冷たい視線を俺に寄越した。そして、微かに、蔑むように笑った。
「自己紹介は、虫けら相手にはしない主義なんだよね」
刹那、まばゆい光の粒子が散り、二人の姿は空間から完全に掻き消えた。
後に残されたのは、重苦しい静寂だけだった。
「……今の、一体なんだったんですか……」
フィリアが、今にも泣き出しそうな掠れた声で呟く。
誰も、その問いに答えることはできなかった。
答えを出す代わりに、俺は手の内の剪定鋏を、指が白くなるほどに強く握りしめた。
「都へ戻るぞ。一刻を争う、急げ!!」
(第49話 終)




