# 第48話:栽培と、混沌の覚醒
「お前のその手にあるそれは……一体、何なのだ?」
手の中で鋏が変化した。
鉄の刃が、静かに溶けるようにして形を変えていく。長い持ち手、丸みのある胴体、そして細く伸びた注ぎ口。それは剪定鋏が消滅したのではなく、別の道具へと「なり直した」のだった。
「ジョウロ……?」
シアが驚愕に目を丸くした。
「アルト様のハサミが……お水をあげる、ジョウロになりました……!!」
「これが……」
俺は新しく生まれ変わった道具を静かに握り直した。
「――『栽培』か」
剪定とは、不要な枝葉を切り落として形を整える技術だ。だが、栽培は違う。地中に眠ったままの芽に、等しく水と肥やしを与え、自らの力で咲かせるための技術だ。
地の獄王が、俺たちに向かって地響きを立てて一歩踏み出してきた。床が割れ、壁面が大きく崩落していく。
その圧倒的な破壊の圧力を正面から受けながら、俺は振り返ってエルダの瞳を見つめた。
「エルダ、少しだけ時間をくれ」
「……一体何をされるおつもりですの、アルト様」
「お前の中の闇魔法の芽はまだ完全に咲いていない。今の俺なら、その根元にまで水を届け咲かせることができるんだ」
エルダが、わずかに息を呑んだ。
「今、この死線の中で、ですの?」
「今だからこそできる。この怪物が放つ凄まじい腐りの圧力が、皮肉にもこの周囲の地脈の流れを最大限に活性化させているんだ。今なら、お前の中に眠る光と闇の根を、完全に一つに繋げられる」
エルダはしばらくの間、俺の目をじっと見つめ返していた。それから、ふっと諦めたように息を吐き出して優雅に瞼を閉じた。
「……分かりましたわ。アルト様に、わたくしのすべてをお任せいたします」
「シア、俺とエルダがあの怪物に潰されないように、時間を稼いでくれ」
「はいっ!! たとえ指一本であっても、アルト様たちには絶対に触れさせません!!」
シアが神速の動きで地の獄王の前に立ちはだかる。すかさずフィリアが白銀の杖を掲げて援護の魔法陣を展開し、グラムとテラが左右の側面を死守するようにして怪物の進撃を抑え込んだ。
俺は栽培のジョウロを、エルダの胸元へと静かに傾けた。
(……ある。光のさらに奥の奥――闇の根がどうしても辿り着けずにいた断絶された場所に、まだ眠っている美しい芽が)
これまでの植え替えや剪定とは、全く異なる感覚だった。清らかな水が乾いた大地へと染み込んでいくように、ジョウロの注ぎ口から流れ出る透明な魔力の雫が、エルダの体内へと静かに注ぎ込まれていく。
エルダの奥底で、光と闇の二つの根が、今まで決して届かなかった未踏の領域へと一斉に触手を伸ばし始めた。
「……っ」
エルダが、熱い吐息とともに小さく声を漏らした。
「これは……アルト様、この感覚は……っ!」
「咲かせるぞ、エルダ。お前が本来宿している、唯一無二の花を」
「あ……あぁ……っ!」
次の瞬間、エルダの全身から、これまでとは全く異質の奔流が噴き出した。
白銀の聖なる光と、宵闇の紫黒の帳が、相反する属性のまま美しく融合していく。光が闇を一方的に呑み込むのではなく、闇が光に屈従するのでもない。二つの相反する力が完全に対等に絡み合い、一本の太い大樹の幹となって天へと昇華していく。
「これが……これこそが、わたくしの真なる力……!」
『――個体名、エルダ・ルクレツィア。光と闇の完全なる調和を確認。条件を達成しました』
『スキル【聖陰魔法】が、覚醒。【混沌魔道士】へと進化します』
エルダがゆっくりと目を開いた。
その双眸には、これまで見たこともない底知れぬ魔導の輝きが満ちていた。光と闇が完璧な調和を保って発光し、彼女の強大な魔力をそのまま象徴している。
テラがその圧倒的な威圧感に気圧され、放然と呟いた。
「古代神話に語られる、光と闇を統べる禁忌の魔導……」
「アルト様」
エルダが俺を振り返った。その涼やかな声音は変わらないはずなのに、まるで深淵から響いてくるかのような重厚な響きを孕んでいた。
「……これほどまでに美しい景色が、わたくしの内側に眠っていたのですね」
「ずっとあったよ。ただ、お前自身の手が届くための水が、ほんの少し足りなかっただけさ」
エルダは愛おしそうに少しだけ目を細めた。それから、迫り来る地の獄王へと優雅に向き直る。
「では――不躾な侵入者に、極上の恩返しをいたしましょう」
エルダが両腕を広げた。光と闇が螺旋を描いて激しく混ざり合い、彼女の周囲に通路を覆い尽くさんばかりの巨大な混沌の渦を形成していく。
エルダの凛烈な声が、通路全体に厳かに響き渡った。
「――我が双眸の前に、すべて還れ!『聖陰の混沌解放』!!」
――炸裂した。
光でも闇でもない、見たこともない第三の色彩を帯びた爆発が、地の獄王を中心に同心円状に猛然と広がった。怪物の全身を覆っていた悍ましい腐りの瘴気が根こそぎ焼き払われ、堅牢無比だった岩の装甲に、深々とした亀裂が無数に走り出す。地の獄王が初めて、その巨体を大きく揺らして膝を折った。
「今です、アルト様!!」
シアの叫び声が響く。
俺は手にしたジョウロを再び握り直した。いや、違う。
気づけばその手の中には、いつもの相棒である剪定鋏が、元の姿でしっかりと戻っていた。
(栽培して、立派に育てた芽は……今度は俺の剪定で、完璧に仕上げる!)
腐りの瘴気が完全に払われ、むき出しになった地の獄王の「中心核」。あの歪んだ結び目さえ断ち切れば、この永き戦いは終わる。
俺は残されたすべての力で、空中へと高く跳躍した。
「――間引くっ!!」
チョキィィィン――!!!
深い、確かな手応えが、俺の右腕を一直線に貫いた。
地の獄王の、地割れのような断末魔の雄叫びが通路を激しく震わせる。
怪物の巨躯は、サラサラと崩れる砂細工のように、静かに足元から瓦解していった。
やがて濃い砂埃が完全に晴れた時、大扉の前にはただの無害な岩の残骸だけが転がっていた。あれほど辺りに立ち込めていた不快な腐りの瘴気も完全に消え失せ、空気は驚くほど清涼に澄み渡っている。
「……本当に、やったのか」
グラムが信じられないという表情で、その岩の残骸をただ見つめていた。
「アルト様――っ!!」
シアが壁際から猛烈な勢いで俺に向かって突撃してきた。そして、そのままの勢いで俺の胸へと全力で抱きついてくる。
「やらせていただきました!! やりましたよ!! アルト様凄すぎます!! エルダさんも本当に格好良かったです!! もう、全員凄いです!!」
「シア、少し落ち着いてくれ……苦しい……」
「落ち着いてなどいられません!!」
後ろではフィリアが感動のあまり大きな目を赤く潤ませていた。テラは石の残骸を無言で見つめ、グラムはようやく得心のいった顔で巨大な石剣を鞘へと収めた。
エルダがゆっくりと歩み寄り、俺のすぐ隣へと並び立つ。
「アルト様」
「ん?」
「……心からの感謝を。わたくしの、本当の花を咲かせてくださって」
その大人びた声が、微かに、愛おしそうに震えていた。
「礼には及ばないよ。元々お前の中にあった素晴らしいものを、俺が少しだけ引き出したに過ぎないからね」
「ふふ、それが一番難しいことですのよ、このお馬鹿さん」
「お馬鹿は酷いな、これでも一応命がけだったんだが」
エルダが小さく、実に上品に笑い声を漏らした。俺も苦笑いしながら、正面にそびえ立つ巨大な大扉を仰ぎ見る。
あの重厚な扉の先に、世界のすべての命を支える根がある。
「――行こうか」
「「「はい!」」」
三人の少女たちの声が、美しく重なって響いた。テラが先頭に立ち、グラムがそれに続く。
俺たちは、世界の運命が待つ最後の扉へと、一歩を踏み出した。
(第48話 終)




