# 第27話:湯上がりの残り香と、黒髪の誓い
激しい湯煙の攻防戦を終え、なんとか理性のハサミを保ちきった俺は、火照った身体を夜風で冷ましながら、宿の自室へと戻っていた。
贅沢にも二部屋続きになっているその客室のソファーに腰掛けていると、トントン、と控えめなノックの音が響いた。
「アルト様。シアです。……少し、よろしいでしすか…?」
「ああ、いいよ。入ってくれ」
扉を開けて入ってきたシアは、すでに寝間着代わりの薄手の白シルクのシャツに着替えていた。
先ほどまでお湯に浸かっていた漆黒の長い髪は、まだ完全に乾ききっておらず、しっとりと湿って彼女の華奢な肩に落ちている。その隙間から覗く白い首筋が、なんだか妙に艶めかしい。
「フィリアはもう寝たのか?」
「はい。湯船で魔力を使いすぎたのか、ベッドに入るなり泥のように眠ってしまいました。……あの、アルト様。先ほどは、その……フィリアと一緒になって騒ぎ立ててしまい、申し訳ありませんでした」
シアはソファーの少し離れた場所にちょこんと腰掛け、申し訳なさそうに視線を落とした。
長い睫毛が、部屋の魔導ランプの光を浴びて淡い影を落としている。
「いや、気にしてないよ。賑やかで楽しかったしね。……それより、髪、まだ乾いてないじゃないか。そのままじゃ風邪をひくよ」
「……これまでは、乾くまで放っておくのが常でしたので」
「だめだよ。体調管理も、俺たちパーティの大事な手入れの一つだ。……ちょっとこっちにおいで」
俺はシアを自分の前の床に座らせると、宿に備え付けられていた清潔なタオルを手に取り、彼女の頭を優しく包み込んだ。
「あ……」
シアの身体が一瞬、ビクッと強張る。だが、俺がゆっくりと、愛おしむようにハサミを扱う時と同じ手つきで髪の水分を拭き取り始めると、彼女はふぅ、と小さく息を吐いて、俺の膝に背中を預けるようにして脱力した。
「アルト様の手は……とても温かいですね。それに、不思議です。アルト様に触れられていると、私の内側にある魔力が、驚くほど静かに凪いでいくのが分かります」
「俺は庭師だからね。荒れた枝を落ち着かせるのは得意なんだ」
タオル越しに、シアの滑らかな漆黒の髪を撫でていく。
その美しい髪を見つめながら、俺はあの日、路地裏で出会った時のことをそっと口にしてみた。
「シア。あの日、君が路地裏で倒れていた時……君の体内の魔力は、本当に酷い雑草に締め付けられているようだった。……辛いことを思い出させてしまうかもしれないけれど、君はあそこで、ずっと一人だったのかい?」
俺の問いに、シアの背中が、ほんの少しだけ寂しげに丸まった。
静寂が部屋を満たす中、彼女は自分の膝の上で十本の指をぎゅっと絡ませ、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「……私は、親の理不尽な借金のカタとして、見知らぬ商人に奴隷として売られました」
「奴隷に……」
「はい。そこでの扱いは酷いものでした。ただの『喋る道具』として、来る日も来る日も過酷な労働と、終わりのない暴力を課せられました。生き延びるために、私は死に物狂いで泥をすするような思いで戦いました。ですが……その過程で心も身体も限界を迎え、気づけば私の体内の魔力動線は、ズタズタに引き裂かれ、歪んでしまっていたのです」
昨日、彼女の体内に絡みついていた、あの哀れな『黒い雑草の根』。
あれは、信じていた肉親に売られ、奴隷として尊厳を傷つけられながら、命を削って生き延びようとした結果生まれた、絶望の傷痕だったのだ。
「魔力が歪み、まともに動くこともできなくなった途端、商人は手のひらを返しました。『壊れた奴隷に価値はない』と。私は身一つで路地裏へゴミのように投げ捨てられ、ただ腐り落ちて死ぬのを待つだけの、名もなき雑草になっていました」
シアはそこで一度言葉を切り、ゆっくりと振り返って、俺の顔を真っ直ぐに見つめた。
琥珀色の瞳に、部屋の明かりが美しく反射している。
「そんな私を……あの暗闘から引き抜いてくれたのが、アルト様です」
シアの手が、そっと俺の膝の上に重ねられた。
「他の誰もが私を薄汚いゴミとして見下し、素通りしていく中で……アルト様だけが、私の価値を見出し、ハサミ一つであんなにも優しく、綺麗に整えてくださった。奴隷の鎖ではなく、一人の人間として、私の生きる意味を取り戻してくれたのです。その上、私に相応しいと、あの美しい純白の剣まで与えてくださった……」
彼女の白い頬が、お湯のせいだけではない熱で、ほんのりと赤く染まる。
「だから……私は誓ったのです。この命、この剣の全てを、アルト様のために捧げると。アルト様が世界という庭を整えるなら、私はそのハサミを守る鞘になりたい。……それが、私の本心です。ですから、その……フィリアにアルト様を独り占めされるのは、少しだけ、寂しくて……」
一気に語り終え、恥ずかしそうに、だが絶対に逸らさない強い意志と仄暗いほどの独占欲を込めて俺を見つめるシア。
その健気で、あまりにも重く純粋な信頼に、俺の胸の奥が温かいもので満たされていく。
「……そっか。手入れのしがいがある、最高の護衛だ」
俺はタオルを置き、彼女の濡れた黒髪を、今度は直接手のひらで優しく撫でた。
「シア。君はもう奴隷じゃない。俺の大事な仲間だ。だから、もう二度と君を一人で使い潰したり、見捨てたりはしないよ。これからも、俺の側で綺麗に咲いていてくれ」
「……っ、はい……! はい、アルト様……!」
シアは嬉しそうに目を細め、俺の膝にコテン、と頭を預けた。
髪から香る温泉の残り香と、彼女の確かな体温。
過去の深い傷を乗り越え、より一層強固になった絆を胸に、俺たちは明日、新たな未知の庭園へと向けて旅立つ。
(第27話 終)




