# 第102話:秩序の綻びと、封じられた真実
天界。
白亜の尖塔が、雲海を貫き、永遠の光が、隅々まで満ちている。罪も、飢えも、争いもない、完璧な秩序の世界。
だが今、その光景を見上げるバルディエルの胸に、かつての誇りは、なかった。
ただ、違和感だけが、澱のように、沈んでいた。
バルディエルは、ゼルエルの亡骸を、天界の外れ――誰も来ない、静かな丘に、葬った。裏切り者を丁重に弔うなど、天界の掟に反する行いだ。だが、そうせずには、いられなかった。
そして。
「……確かめる」
師の遺した言葉を、胸に。
バルディエルは、天界の中枢へと、足を向けた。
◇
向かった先は、天界研究局――ではなかった。
そこは、今や、あの探求の天使、ザミエルの巣窟。まともな記録は、期待できない。
バルディエルが向かったのは、もっと古い場所。
【記録の大書庫】
天界の、あらゆる歴史が記された、太古の記録庫。第二位の権限があれば、立ち入れる。
重い扉を、押し開ける。
埃の匂い。古びた、無数の記録板。何百年も、誰も訪れていないような、静寂。
「……間引きの、記録」
バルディエルは、記録板を、手繰り始めた。
天界が、地上で行ってきた「間引き」。その、公式の記録。
――地上生物の、個体数調整。
――秩序維持のための、必要措置。
どの記録にも、そう記されていた。冷たく、簡潔に。まるで、庭の草むしりでも報告するかのように。
「……やはり、そうなのか」
バルディエルは、記録板を、握りしめた。
ゼルエルの言った通りだ。天界は、地上の者を「調整対象」としか、見ていない。心を持つ命として、扱ってなど、いない。
だが――。
これだけでは、まだ、足りない。
ゼルエルは言った。人間は、天使が作った、人工生命体だと。星を耕すための、道具だと。
その、証拠が。
バルディエルは、書庫の、さらに奥へと、進んだ。
◇
奥へ、進むほどに。
記録は、古く、断片的に、なっていった。
そして――一番奥の、壁。
そこに、ひときわ古い、封じられた扉が、あった。
【第一紀・封印区画】
幾重にも、封印の術式が、施されている。第二位の権限でも、開けられない。天帝級の権限がなければ、決して。
「……ここに、あるのか」
バルディエルは、確信した。
天界が、最も隠したがっている、真実。それは、この扉の、向こうにある。
封印に、手をかざす。
びりびりと、拒絶の力が、バルディエルを、弾いた。開かない。当然だ。
「……力ずくで、開けるしか、ないか」
バルディエルが、腰の刀――暁月夜に、手をかけた、その時。
「――そこで、何をしている」
背後から、声が、かけられた。
バルディエルは、振り返った。
そこに立っていたのは――一人の、天使。
白銀の鎧を纏った、女の天使。その背に、六枚の翼。
「……ガブリエル」
バルディエルは、その名を、呼んだ。
第五位、【空寂】のガブリエル。天界の、風紀を司る天使だった。
「秩序のバルディエル。……あなたが、こんな場所に。しかも、封印区画に、手をかけるとは」
ガブリエルの、冷たい瞳が、バルディエルを、射抜く。
「何を、探している?」
◇
バルディエルは、答えなかった。
どう、答えればいい。「天界が、隠している真実を、探している」とでも、言うのか。
「……任務だ」
バルディエルは、短く、答えた。
「裏切り者、曙光のゼルエルを、討った。その、残党の手がかりを、探している」
半分は、本当だった。半分は、嘘だ。
ガブリエルは、しばらく、バルディエルを、見ていた。
その、空寂の瞳が。すべてを、見透かすように。
「……ゼルエルを、討った」
ガブリエルが、静かに、繰り返した。
「あなたの、師を」
バルディエルの、心臓が、跳ねた。
「知って、いたのか」
「当然だ。……あなたが、あの男に剣を習っていたことくらい、誰もが、知っている」
ガブリエルの、表情は、読めなかった。
「よく、討てたな。……あなたにとって、あの男は、特別だったはずだ」
「……任務、だからだ」
「そうか」
ガブリエルは、それ以上、追及しなかった。
だが、その視線は――バルディエルの、心の奥を、探るように、注がれていた。
「一つ、忠告しておこう、バルディエル」
ガブリエルが、踵を返しながら、言った。
「その封印に、手を出すな。……あそこに眠るものは、我らのような下位の者が、触れていいものではない」
「下位……?」
バルディエルの、眉が、動いた。
第五位のガブリエルが、自らを「下位」と呼ぶ。
「あそこにあるものを知っていいのは、天帝陛下と……ごく、一部の者だけだ」
ガブリエルの声に、かすかな、緊張が、混じった。
「詮索は、身を滅ぼす。……忠告は、したぞ」
そう言って、ガブリエルは、歩き出した。
だが、数歩進んで――ふと、足を、止めた。
「……バルディエル」
背を向けたまま、ガブリエルが、言った。
「あなたは今、任務のためだと言った。残党を追っている、と」
その声は、静かで、感情が、読めなかった。
「だが、覚えておくといい。……天界の目は、どこにでもある。あなたが、どこで、何を見て、何を考えているか。……すべて、見られていると、思うことだ」
バルディエルの、背筋が、冷えた。
それは、忠告なのか。
それとも――警告なのか。あるいは、脅しか。
「私は、あなたを見逃した。今日は、な」
ガブリエルが、ちらり、と、肩越しに、バルディエルを見た。
その空寂の瞳には、何の色も、浮かんでいなかった。慈悲も、敵意も。ただ、底の知れない、虚無だけが、あった。
「次に会う時、あなたが、どちら側にいるのか。……せいぜい、間違えないことだ」
それだけ言い残して。
ガブリエルは、書庫の闇の中へと、消えていった。
後には、彼女が味方なのか、敵なのか――その答えの、欠片すら、残されていなかった。
◇
一人、残されたバルディエルは。
封印された扉を、じっと、見つめていた。
(……ごく、一部の者)
ガブリエルの言葉が、耳に、残っている。
天帝陛下と、ごく一部の者だけが、知る、真実。
第五位の天使ですら、触れることを、恐れる、秘密。
その、扉の奥に。
師が命を懸けて伝えようとした、真実が、眠っている。
だが――この封印は、今の自分には、開けられない。力ずくで破れば、天界中に、知られてしまう。裏切り者として、追われる身になる。
「……焦る、な」
バルディエルは、自分に、言い聞かせた。
記録は、見た。天界が、地上の者を「調整対象」としか見ていないことは、分かった。だが――それだけでは、足りない。
師は、言った。
自分の目で、確かめろ、と。
記録板の文字ではなく。封印の奥の秘密でもなく。
まず、この目で。地上の者が、本当に、心を持たぬ道具なのか。それとも――ゼルエルが命を懸けて伝えた通り、魂を持つ、命なのか。
それを、確かめてから。
すべては、そこからだ。
「……地上へ、降りよう」
バルディエルは、書庫に背を向けた。
かつて、間引きの任務で、幾度となく降り立った、地上。
だが、今度は――斬るためでは、ない。
見るために。知るために。
師が遺した問いの、答えを、探すために。
バルディエルは、地上へと続く、光の階を――静かに、降りていった。
その胸に、まだ名前を知らない、一つの感情を、抱えたまま。
(第102話 終)




