# 第101話:牙の獣と、奪われた家族
暗い、洞の中だった。
土と、獣の匂い。湿った、冷たい空気。
アルト――いや、今は、ワイルドボアの体を持つ何かは、ゆっくりと、身を起こした。
巨大な、体。太い四肢。地を掴む、硬い蹄。すべてが、重く、力強い。
(……これが、ワイルドボアの体)
戸惑いながら、アルトは、周囲を見回した。
洞の奥。柔らかな下草を敷き詰めた、寝床。
そこに――三頭の、小さな影が、寄り添っていた。
(……子ども?)
まだ、牙も生えそろっていない、幼い、瓜坊たち。ぷう、ぷう、と、あどけない鳴き声を上げ、母を求めて、体を擦り寄せてくる。
アルトの、大きな体に。
(……俺の、子ども)
理屈じゃ、なかった。
この体に流れる、本能が、感情が、告げていた。この幼子たちは、自分の子だ。守るべき、大切な、家族なのだと。
温かい何かが、胸の奥から、こみ上げてくる。
アルトは、そっと、鼻先で、瓜坊たちを、撫でた。子どもたちが、嬉しそうに、体を寄せる。
その温もりが――ひどく、愛おしかった。
◇
外に、出た。
森は、朝の光に、満ちていた。
アルトは、子どもたちを引き連れて、餌を探し歩いた。土を掘り、木の実を探し、根を掘り起こす。
不思議な、感覚だった。
言葉は、ない。思考は、単純だ。だが――満たされていた。
子どもたちが、腹を満たす。その姿を見るだけで、胸が、温かくなる。
昼には、木漏れ日の下で、身を寄せ合って、微睡んだ。子どもたちの、規則正しい寝息。小さな体の、温もり。それを守るように、アルトは、じっと、辺りに気を配り続けた。
夕には、水場で、喉を潤した。水面に映る、自分の姿。太い牙を持つ、獰猛な顔。人間から見れば、恐ろしい魔獣そのもの。
だが、その傍らで、無邪気に水を飲む子どもたちの姿は、どこまでも、穏やかで、幸せそうだった。
この子たちが、いる。
それだけで、この重い体も、獰猛な牙も、すべて、意味があった。この子たちを、守るために、自分は、強く生まれてきたのだと。そう、思えた。
(……そうか)
アルトは、悟った。
この獣にも。
家族が、いた。
守るべきものが、あった。
ただ、生きて、子を育てて。ささやかな、けれど、確かな営みが。
自分たちが、あの日、当然のように見過ごした、あの獣にも。
こんな、日々が、あったのだ。
◇
だが。
平穏は、唐突に、破られた。
森に――人間の、匂いが、混じった。
アルトの、獣の本能が、警鐘を鳴らす。
草むらの奥から、現れたのは――数人の、男たち。
薄汚れた身なりに、下卑た笑み。手には、網と、縄と、そして――刃物。
「いたぞ! ワイルドボアの、巣だ!」
「瓜坊が三頭! こりゃ、大当たりだ!」
男たちの、脂ぎった目が、子どもたちに、注がれる。
「幼いのは、高く売れる。飼い慣らして、闘獣に仕立てりゃ、いい金になる」
「母親の牙も、いい値がつくぜ」
彼らは、それを生業とする、狩人だった。獣を狩り、子を奪い、売り捌く。それが、彼らにとっての、当たり前の、日常。
何も、特別なことでは、ない。
かつて、アルトたちが、魔獣を討つことを、当然と思っていたように。
彼らもまた、これを、当然と、思っていた。
「母親が、邪魔だ! 先に、仕留めろ!」
アルトは――咄嗟に、子どもたちを、庇った。
巨体を、盾にして。牙を剥き、威嚇の唸りを、上げる。
来るな。
私の、子どもたちに、手を出すな。
言葉にならない、必死の叫び。
だが、人間たちには、届かない。
届くはずが、なかった。彼らにとって、これは、ただの獣。狩りの、対象。それ以上でも、以下でも、ない。
「かかれ!」
男たちの、刃が、迫る。
◇
アルトは、戦った。
必死に。狂ったように。
子どもたちを、守るために。突進し、牙を振るい、男たちを、蹴散らそうとした。
一人を、跳ね飛ばした。
だが。
「この、化け物が!」
横合いから、槍が、突き込まれた。
脇腹に、灼けるような、痛みが走る。
「ぐ、が……っ!?」
血が、噴き出す。それでも、アルトは、倒れなかった。子どもたちの前から、動かなかった。
動けば、この子たちが、殺される。
連れて、行かれる。
だから――動くわけには、いかなかった。
「しぶとい奴だ! 囲め!」
男たちが、四方から、迫る。
一突き。二突き。三突き。
体中を、刃が、抉っていく。血が、地面を、赤く染める。視界が、霞んでいく。
それでも。
アルトは、牙を、剥き続けた。
子どもたちを、背に庇い続けた。
最期の、瞬間まで。
「……もう、終わりだ」
男の、刃が、振り上げられる。
アルトは、朦朧とする意識の中で、必死に、背後の、子どもたちを、見た。
怯えて、震えて、身を寄せ合う、三つの小さな命。
ああ。
守れ、なかった。
こんなにも、強い体を、持っていたのに。こんなにも、必死に、戦ったのに。
それでも、届かなかった。
この子たちは、これから、どうなるのだろう。売られて、鎖に繋がれて。二度と、この森の風を、感じることも、なく。
(……逃げろ)
声にならない、声で。
アルトは、最後の力を振り絞って、願った。
(逃げて、くれ……! 生きて、くれ……!)
だが、幼い子どもたちは、動けなかった。
ただ、母を――アルトを、見つめている。
助けて、と。その、つぶらな瞳が、訴えている。
その瞳を、目に焼き付けたまま。
刃が――振り下ろされた。
視界が、赤く、染まる。
そして。
ぶつり、と。
アルトの意識は、そこで、途切れた。
(第101話 終)




