第2話 俺がなんとかするから
「ありがとうございます」
俺がお茶を差し出すと、妹だと名乗った少女は小さく会釈をし、暖を取るように両手で湯呑みを包み込んだ。俺も自分のお茶を一口すする。
あの後、式場内の親族が寝泊まりするための休養室に場所を移した。葬儀社のスタッフも帰り、いまは俺と彼女の二人きりだ。
彼女はよほど凍えていたのか、あるいは猫舌なのか。湯呑みから立ち昇る湯気をじっと見つめたまま、なかなか口をつけようとしない。
「風呂を沸かしているから、入ったほうがいい。風邪を引くといけない」
風呂、という言葉を聞いて、少女は緊張を強めたように眉根を寄せた。
「大丈夫だ。ちゃんと中から鍵がかかるのは確認してある。服も乾かしたほうがいいし、ここの利用者用の寝間着もあるから使って」
「あ、ありがとうございます」
さらに縮こまるようにして、彼女はうなずいた。
「風呂が沸くまでのあいだ、少しだけ話を聞きたいんだけど。いくつか質問してもいいかな?」
「は、はい。大丈夫です」
俺は湯呑みを置き、代わりにスマホを取り出してメモアプリを起動した。
「名前は、みなせはるかちゃんで合っている?」
「は、はい」
「漢字はどう書くの?」
「水に、浅瀬の瀬、遥は一文字で……えっと」
俺は画面に『水瀬遥』と打ち込み、彼女に向けた。
「これでいいかな?」
「あ、はい。合っています」
「じゃあ、遥ちゃん。俺の妹だって言っていたけど……正直、驚いてるんだ。親父が再婚してたなんて初耳でさ。いまは中学生?」
「高校生です。この春から」
ということは十五歳。俺が中学に通っている頃に彼女は生まれたわけか。親父め……息子をほったらかして、他所で家庭を作ってやがったのか。とんでもない奴だ。
親父への憤りはひとまず隅に追いやり、次の質問を投げかける。
「どこに住んでいるの?」
「仙台です」
そんな遠くから一人で来たのか。
「お母さんは明日来る予定?」
遥は湯呑みの底を見つめたまま、ぽつりと口を開いた。
「お母さんは、三年前に亡くなりました。今は……一人暮らしです」
「そうか。……ごめん、辛いことを聞いた。お母さんのほうに頼れる親戚はいないの?」
彼女は首を振る。
それでは生活していけないだろう。
短い沈黙が流れる。湯気だけが、白くゆらめいていた。
「俺も母親はいないんだ。幼い頃に亡くしてね。だから、肉親がいたってわかって嬉しいよ」
遥は顔を上げ、唇を動かした。
「……私も、嬉しいです。一人ぼっちになっちゃったと思ってたから。お兄さんがいたなんて、今日まで知らなくて」
「そうだったんだ」
親父め。なんで黙ってたんだ。俺が再婚に反対するとでも思ったのか。いや、バツイチ子持ちと周りに知られたくなかったってほうがありそうだ。
待てよ。だとしたら、葬儀の案内もなしでどうしてここを知ったんだ。
尋ねようとしたところで、背後からメロディが流れ、「お風呂が沸きました」という音声が続いた。
聞きたいことは山ほどあるが、まずは彼女を温めるのが先だ。
「君が風呂に入っている間に、コンビニで食べるもの買ってくるよ。なにがいい?」
「だ、大丈夫です。お腹、空いてないですから」
「食欲がなくても、何か口に入れておかないと。明日も朝から忙しくなるからね」
「そ、それじゃあ……塩むすびを、ひとつだけ」
「一個じゃ足りないだろ。適当にいくつか選んでくるよ」
「ご、ごめんなさい。気を使わせてしまって……」
遥は申し訳なさそうに、上目遣いで俺を見つめてきた。
遠慮深い子だ。きっと今まで、相当な苦労を重ねてきたのだろう。よし、元気が出そうなスイーツもたっぷり買い込んでこよう。
俺はテーブルの上の財布と、スタッフから預かった葬儀式場の鍵を掴んで立ち上がった。
会場の外へと続く通路を歩いていると、スマホが震えた。美和からだった。
「もしもし――」
『あっ、先輩。すみません、お疲れのところ』
「大丈夫。忘れ物でもしたのか?」
『違います。ご飯、まだですよね?』
「ああ、今ちょうどコンビニに行こうとしてたところだ」
『よかった。差し入れ買ったので、今からそっち向かいますね。待っててください!』
こちらの返事も待たず、美和は一方的に通話を切った。
会場の玄関口でぼんやり待っていると、コンビニの袋を提げた美和が雨の中から現れた。
「悪いな、わざわざ」
「いえいえ。私もまだだったので、ついでですよ」
美和は傘を振って水気を飛ばすと、手際よく傘入れに差し込んだ。
「上がらせてもらいますね。ビールも一本くらいなら、いいですよねっ」
美和は休養室へと歩いていく。その後ろ姿を見送っていた俺は、数秒遅れて思い出した。遥がいる。しかも、今は風呂に入っている真っ最中なのだ。二人が鉢合わせる――そんな最悪のシミュレーションが脳裏をよぎり、頭が真っ白になった。
……これは誤解される!
慌てて追いかけ、休養室に入ったところで彼女の前に回り込んだ。
「め、飯なら外に行こう! ほら、この近くに気になる店があるんだ」
「ええっ、雨すごいですよ? せっかく買ってきたんだから、ここで済ませましょうよ」
美和が、怪訝そうに俺の背後を覗き込んだ。
「……あれ? なんか、シャワーみたいな音しません?」
ギクッ。
「雨だよ。雨」
「そうですかねえ……。あ、誰かいたんですか?」
「な、なんで? そんなわけないだろ」
「だって、テーブルに湯呑みが二つありますよ」
美和が湯呑みを指さす。
「俺が二つ使ったんだよ」
「じゃあ、あの靴は?」
美和の視線の先には、遥が脱いだローファーが綺麗に揃えられていた。
「さ、さあ? 誰か履き忘れたんじゃないか? 最初からあったし」
もはや自分でも何を言っているのかわからない。これ以上ボロが出る前に、なんとかこの場を離れなければ。
強引に美和の背中を押して部屋から出そうとした瞬間、彼女は手に持っていたコンビニの袋を床に落とした。
袋からビールの缶が二本、虚しく床を転がっていく。
俺は慌ててしゃがみ込み、缶を拾い上げた。
美和を見上げると、彼女は袋を落としたことにすら、気づいていないようだった。石のように固まった表情で、俺の頭上の先を凝視している。
おそるおそる、視線の先を辿った。
遥がいた。バスタオル一枚を体に巻き、決まりの悪い表情で俺のほうを見つめている。
「美和、待て。今お前が考えていることは間違っている。頼むから説明させてくれ」
立ち上がり、必死に彼女を押し留めようとする。
「通夜の場所に、女の子を連れ込むなんて……。一体、どういう『寝ずの番』を過ごすつもりだったんですか――」
美和の目が、これまで見たこともないほど鋭く見開かれた。
「最低! 先輩のこと、もっと真面目な人だと思ってたのに!」
美和は俺の言い分に耳を貸そうともせず、弾かれたように走り去っていった。
「待て! これには深いわけがっ!」
追いかけようとした瞬間、拾い損ねていたもう一本のビール缶を思い切り踏んづけた。俺は盛大にすっ転ぶ。
痛みで呻きながら起き上がったときには、もう美和の姿はどこにもなかった。
「……ごめんなさい。私のせいで、彼女さんに誤解させてしまって」
寝間着に着替えた遥は、可哀想なくらい縮こまって頭を下げていた。少し大きめのシャツがはだけないよう、襟元をぎゅっと掴んでいる。
「いや、彼女は、職場の後輩だから。また、後で誤解を解いておくよ。それより、食べよう。差し入れを買ってきてくれたんだ」
美和が残していったコンビニの食べ物をテーブルに広げた。おにぎり、唐揚げ、サラダ。ペットボトルのお茶など。明日、代金を払わないと。
「取り皿がなくて直箸になっちゃうけど、ごめんね」
おしぼりと割り箸を彼女の前に置く。
「わたしが食べてもいいんでしょうか? お兄さんのために買ってきてくれたものなのに」
「俺一人じゃ食べきれないし、賞味期限もあるから。気にせず食べて」
「すみません……」
遥は遠慮がちに、昆布のおにぎりへと手を伸ばした。俺も鮭のおにぎりと、ビールの缶を手に取る。
プルタブを開けると、プシュッと勢いよく泡が飛び出した。
一滴もこぼすまいと、慌てて口をつける。苦味が喉を通りすぎる。
遥はおしぼりで丁寧に手を拭くと、おにぎりのフィルムを剥き、小さな口でゆっくりと咀嚼し始めた。
俺も唐揚げを一つ放り込み、ビールで流し込む。
「それでさ。さっきの続きなんだけど」
遥はおにぎりを持った手を下ろし、真っ直ぐに俺を見た。
「俺のことは今日初めて知ったって言ってたよね。……どうして、ここで葬儀があるってわかったの?」
「それは……」
遥は一度立ち上がり、部屋の隅にあるスクールバッグを手に戻ってきた。座布団に座り直し、バッグの中から一通の封筒を取り出す。無地の、何の変哲もない封筒だった。
「お父さん、自分に何かあったときに読むようにって、これを残してくれていたんです」
「手紙……?」
受け取った紙は、今日の雨のせいか、それとも彼女の涙の跡か、少し湿っていた。
拝啓。
我が子よ。この手紙をお前が見るころには俺はもうこの世にはいないだろう。
一度この書き出しをやってみたかった。もし生きていたらスルーしてほしい。
まあ、この手紙は保険ってことだ。
ここで、衝撃の告白。
お前には血を分けた家族がいる。
俺になにかあったときは、助け合って暮らしていくんだぞ。
では、さらばだ。アディオス。
〒630-〇〇〇〇
奈良県N市N町7-26
日下部拓海
――なんなんだこれは。くそ親父。
手紙を持つ手に力がこもり、手紙がクシャとしそうになる。
「お父さんが亡くなったって連絡があって、手紙のことを思い出して……。それで、書いてあった住所を訪ねたら、ご近所の方が、通夜はここだって教えてくださって」
遥はうつむいたまま呟いた。声が小さく震えている。顔を覗き込むと、今にも零れそうな涙を必死に堪えていた。
無理もない。もし俺が「知らない」と突き放せば、この子は今夜、行く当てもなく雨の中を放り出されるのだ。
「……事情はわかったよ。今まで、苦労をかけたね」
俺は努めて穏やかな声で、彼女の目を見て言った。
「もう心配いらない。これからは、俺がなんとかするから」
遥は堪えていた涙をぽろぽろとこぼし、「ありがとうございます」と何度も、何度も、絞り出すように繰り返した。
安心したせいか、それとも緊張の糸が切れたのか。しばらくすると遥は瞼を重そうにし、こくり、こくりと船を漕ぎ始めた。ジェットコースターのような一日だったのだろう。無理もない、限界だ。
控え室に布団を敷いてやり、寝るように促すと、彼女は素直に従った。
「おやすみ」
声をかけて、そっと襖を閉める。俺はまだ手をつけていなかったビールを掴み、誰もいない葬儀場へと向かった。
ああは言ったものの、……これからが大変だ。親父の手続きだけでも手一杯なのに、遥との共同生活が始まる。部屋だけは余っているから住む場所には困らないが、やらなければならないことが山積みだ。
スマホを取り出し、AIに現状を相談してみる。画面には、次々とやるべきことのリストが並んだ。
『未成年後見人の申立て』『転居届と世帯変更』『学校への保護者変更連絡』……。
忌引き休暇だけでは、到底足りそうにない。明日、葬儀に高林部長が来てくれるはずだ。そこで有給の相談をするしかないだろう。
親父の棺の前までやってきて、顔をのぞき込む。
まったく。安らかな顔しやがって。
新しい線香に火を移し、香炉に立てる。
ビールを開け、やけ酒気味に喉を鳴らす。缶の縁に溜まったビールを指ですくい、親父の乾いた唇をなぞるように湿らせてやった。親父と酒を酌み交わす機会なんて、これまで一度もなかった。これが最初で最後だ。
こうやって一緒に飲んでいたら、親父も俺に遥のことを話してくれたんだろうか。顔を合わせれば冗談ばかり言っている陽気な親父だったが、酒の力がないと話せなかったのかもしれない。たまに家に帰ってきても、うるさい奴だと相手をしてこなかったからな……。後悔は尽きない。
ビールを最後の一滴まで飲み干すと、俺は玄関のソファに深く腰を下ろした。目を閉じ、明日やるべきことを一つずつ、暗闇の中で数え始めた。
【あとがき】
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