第1話 あなたの妹です――
通夜の日。昨日から降り続く雨はやむ気配もなく、静かに地を濡らし続けていた。
父の死を天が悲しんでいるといった、ドラマのような感傷はない。弔問客は、故人を悼み、悲しんでいる役をきちんと演じていた。
親父は湿っぽい空気が大嫌いな陽キャだったので、そんなことは気にも留めないだろう。祭壇に飾られた遺影の中で、場違いなほど屈託のない笑顔を浮かべている。
そもそも弔問客は近所の人たちと、俺の職場の上司や同僚くらいで、親父のことを深く知る者はいなかった。皆、儀礼的に足を運んでいるに過ぎず、芳名帳に記帳する手つきもどこか事務的だ。
唯一の肉親である俺自身、深い感傷はない。交通事故で病院に担ぎ込まれたという連絡を受けた際も、驚きはしたが、頭が真っ白になるような衝撃はなかった。
ここ十年近く、親父とは年に一度会うか会わないかという疎遠な仲だった。そのせいで遺影に使える近影がなく、ずいぶんと若い頃の一枚を使うことになってしまったのだ。
式場の入り口に立つ葬儀社の男性スタッフが、時計に視線を落とした。そろそろ閉場の時間だ。
今日は寝ずの番だ。コンビニにでも行って、夜食を調達してこようか。
「先輩……」
背後から声をかけられ振り返ると、職場の後輩、桐谷美和が心配そうに立っていた。
「わたし、今日は失礼しますね。明日の葬儀にも出席しますから」
「昨日から本当にありがとう。助かったよ」
美和は葬儀社の手配から喪服のレンタルに至るまで、不慣れな俺を支えてくれた。葬式に出たこともない俺が喪主を務められたのは、間違いなく彼女のサポートがあったからだ。
「いえ、すべて両親の受け売りですから。去年、祖父を亡くしたばかりだったので」
「そっか。じゃあご両親にもお礼を伝えて。落ち着いたら挨拶に行くから」
「本当に気にしないでください」と美和は手を振る。
「しばらく休むことになるけど、何かあったら連絡して」
「大丈夫ですよ。先輩は普段から有給をちっとも使ってないんですから、こんな時くらい仕事のことは忘れてください」
美和は式場の出口へ向かい、俺も見送りのため入り口まで付き添った。傘と手荷物で手が塞がっている彼女の代わりに重い扉を開けた。激しい雨音とともに匂いが鼻を突く。
美和は傘を差し、軽く一礼すると、雨の降る敷地の外へと歩み去っていった。
彼女の姿が見えなくなるのと入れ替わるように、セーラー服姿の少女がこちらへ向かってくるのが見えた。
傘も差さず、全身ずぶ濡れだ。水たまりを踏んで、黒い水玉を跳ね上げる。
少女はうつむき加減に控えめな会釈をすると、俺の脇をすり抜けて式場の中へ入ろうとした。
「ちょっと、君」
近くにいた女性スタッフが慌てて制止し、タオルを差し出した。少女は頭を下げ、濡れた髪や衣服を軽く拭う。
スタッフは「替えを持ってきますから」と言い残し、スタッフルームの方へ小走りで消えていった。しかし少女は、タオルを握りしめたまま通夜の式場内へと進んでいく。
まさかの弔問客か。
俺は戸惑いながらも、少女の背を追った。
会場に戻ると、少女は父の棺の前で立ち尽くしていた。その肩が細かく震えているのは、冷たい雨のせいだけではないだろう。
あの子、いったい親父とどういう知り合いなんだ。
不意に、少女が膝から崩れ落ちた。棺に縋り付き、ぽろぽろと涙をこぼしながら、彼女は呟いた。
「お父さん」と――。
彼女の絞り出すような言葉を聞いて、脳裏をよぎったのは『パパ活』の三文字だった。
あのクソ親父。こんな子供どころか、孫みたいに歳が離れた娘とそんなことをしてやがったのか。
完全に逮捕案件。棺の中で手を組んでいる親父の両手に、頭の中で手錠をかけ、遺影の親父を睨む。先ほどまでの快活な笑顔が、下卑たニヤニヤ顔に見えてくる。
彼女に視線を戻す。彼女は棺の親父に縋り付きながら、細い肩を震わせて、押し殺すように泣いていた。
間違いなく、この子が誰よりも親父の死を悲しんでいる。
ただのパパ活で、こんなに悲しんだりするものだろうか。ひょっとしたら、足長おじさん的な清い援助だったのかもしれない。頼む、親父。せめてそうあってくれ。
彼女に近づき、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。雨で下着が透けていたからだ。
見ちゃいけない。視線を外す。
ひとつ息を吐き、意を決して少女に声をかけた。
「来てくれてありがとう。君は父とはどういう関係で?」
彼女はゆっくりと振り向いて、泣き腫らした赤い瞳で俺を見上げた。
可愛い子だ。まだ、あどけなさが残る顔を涙と雨でぐしゃぐしゃにしているが、整った顔立ちとわかる。
俺はズボンのポケットから白のハンカチを取り出すと、しゃがみ込んで彼女と目線を合わせた。
「俺は日下部拓真。拓海の息子だよ。君は?」
彼女はありがとうございますと言って、ハンカチを受け取り、目尻を押さえた。
「水瀬遥といいます。あなたの妹です――」
【あとがき】
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