始まりの日5
「・・・・・・渋澤さん・・・」
少し掠れたハリのない小さな声が俺の名前を呼んだ気がして、俺は瞼を開けた。少しぼーっとし過ぎたようだ。俺を呼ぶ声の主を探そうと周囲を見渡すと、視界の隅にぼさぼさで不清潔な髪に埋もれた小さな瞳がこちらを直視しているのが入った。
声の主は阿漕タク。殆ど喋らず空気と化していた彼は、今まで存在感を消し続け集団の中に居続けることで生き延びていた。不格好な前髪から除く瞳は妖しくぎらついており、背筋に何か冷たいものを入れられたような感覚がした。
「あ、阿漕さん・・・?」
黙ってこちらを見続ける彼に戸惑いながら声をかけた。すると彼の唇が動き出し、ぼそぼそと小さな声で話し出した。
「・・・少し・・・話がしたいです・・・隅に・・・」
何事かと思い、俺は彼の指示に従い小さな更衣室の隅に動いた。阿漕さんはチラリと周囲に目配せすると、周りに聞かれないよう小さく耳打ちした。
「二人でここを・・・抜け出しませんか?」
「・・・それって、どういう・・・」
「ここにいてもいずれ殺される・・・あなたも嫌でしょう?先の長い人生をここで終えるなんて。・・・幸いこちらには大家さんも、美東さんも居ます・・・ここは年長組の彼らに任せて、私たちはここを離れるべきです・・・!」
少し、彼の言い分をはっきりと理解するのに時間を要した。だれもが最初に考えついただろうが、その人の優しさ故に行動に移せなかった事。それを自分たちはするべきだ、と彼は主張した。
「つまり、彼らを見捨てて逃げようってことですか・・・?」
「ええ、そうです・・・!心苦しいですが、はっきり言ってお荷物なんですよ・・・大家さんは行動力もあり頼りになりますが、いかんせん集団意識が強く自分が生き延びるための意欲がない・・・美東さんの娘さんだってそうだ・・・この状況を理解していない、ただの足手纏いだ・・・!一番頼りになるのは近江さんですけど・・・見ての通り・・・」
「でも、俺は彼らに助けてもらいました・・・!彼らを裏切ることなんて・・・」
「恩に報いようとでも・・・?・・・そんな考え古いんだよ・・・!・・・今の時代は弱肉強食、バカまじめにやったって、苦労するのはいつも自分だ!」
熱くなった阿漕さんが吐く社会への「毒」を聞いて、何時だったか、この眼前にいる男が学生時代に周りから避けられていたという話を耳にしたことがあったのを思い出した。仲間外れは褒められたものではないと思うが、人間は必ずしも完璧ではないものだ。そいつと過ごすことが苦になるのであれば、距離を置くことだって心理的衛生上必要なことだ。俺は改めてそれを実感すると同時に、さっきの自分の愚かな考えを猛烈に恥じた。裏切られる側の気持ちを理解した気になって、そして感情が沸々と煮えたぎり、拳を硬く握っていた。
この目の前のクズを殴ってやろうかと思ったが、その考えは俺もさっき思ったことだ。言えた立場では無いと拳を解き、感情を鎮めた。
「・・・わかりました・・・・・・でも、考えさせてください・・・俺は、まだ彼らのことを・・・」
「・・・分かっています・・・ですが、時間はありません・・・答えを出すなら早急に・・・」
そう言い残して解散するのが正解なのだろうか。もやもやした気持ちで阿漕さんから離れた場所に座り込んだ。なんとなく、彼の近くにいると思考を乱されそうで、無意識に距離を取っていた。
「・・・ユイちゃん」
「・・・ん?」
隣の床をポンポンと叩いてユイちゃんを呼び寄せた。サユリさんの近くで暇そうだった彼女は、俺の声に反応すると横にちょこんと腰を下ろす。少し体調面や未来の出来事について話した後、阿漕さんの話がちらついて、俺は黙り込んでしまった。何故だか急にさっきの行動について謝らなければということでいっぱいになっていたのだ。さっきはごめんね、と言うだけなのに、うまく言葉が出ていかない。何回も気持ちを正したが、それでも声が出なかった。
何度か決心した後、急に静まりかえった俺の顔を覗き込む彼女に小さく、ごめんね、と先程の大人げない対応を謝罪した。当の彼女は真意を理解していないようだったが、それでも俺の心にのしかかっていたもやもやが少しだけ晴れた気がした。結局、また自分のエゴにユイちゃんを巻き込んだのだ。俺は再び自分が嫌いになった。
すこし時が経ち、大家さんが運んできたという食料が入った段ボール箱を開けて食事が始まった。多種多様な缶詰を頬張り、空腹を和らげていると、ダイゴさんの容体が急変した。
「・・・そろそろ本格的に不味いな・・・薬はもう無いというのに・・・渋澤君、阿漕さん」
サユリさんに代わってダイゴさんの看病をしていた大家さんに呼ばれ、俺と阿漕さんは彼の指示を仰いだ。
「そろそろここを離れるべきかも知れない。二人で近くを偵察し、安全を確認してくれないか」
「・・・!移動ですか?」
「ああ、ダイゴ君の容体も良くない・・・薬ももう心もとない。移動するべきだ」
「薬が効かないんですか?」
「・・・・・・、ああ。残念だがね。道中見つかり次第射殺される危険性もある。十分気を付けてくれ!」
「・・・はい!」「・・・」
大家さんから安全と思われるルートを教えてもらい、俺たちはバリケードの隙間から更衣室を抜け出した。道中通路の安全を確認しながら、出入口までのルートを移動する。
「・・・やはり正面玄関は駄目みたいです・・・引き返しましょう・・・」
前方を警戒していた阿漕さんから情報が入る。正面入口を見ると、スポットライトを常時照射し、傍らには迷彩服の自衛隊員が小銃を構えて待機していた。しばらく時間が経っていたので捜索を切り上げてこの場を離れるかと思ったが、どうやら執念深くここを離れる気はないようだ。
阿漕さんと顔を見合わせアイコンタクトをとり、別の脱出口を見つけるため道を引き返す。音を立てず、静寂の影の中を180度体を向き直して此処から立ち去ろうとしたとき。
「~~~!」
突如、俺でも阿漕さんでもどちらでもない声が耳に入り、心臓がどきんと飛び跳ねた。
反射的に身体が固まってしまい、俺は終わったと思った。だが、どうやら神はまだここで俺の命を終わらせてはくれない様だった。この先歩む道を鑑みれば、此処で終わることもある意味では幸せだったかも知れないというのに。
「助けてくれ!妻が、変な奴らに噛まれてしまったんだ!ああ!そんな!血が止まらない!!一刻も早く救急車を!!妻を助けてくれ!!」
それは誰とも知らない中年男性の助けを求める声。ひとまず見つかった訳ではないという事実に胸を撫でおろすとともに、その声が俺たちに向けたものでは無いことから、彼らの生涯に幕が下りるであろうことを感じ取った。
「・・・・・・?・・・なんだ、どうして誰も来ない。見ろ!民間人が傷ついているんだぞ!どうして突っ立てんだよ!貴様らそれでも自衛隊か!?日本を守るのが役目だろうが!!さっさとしろこの税金泥棒が!!」
これから先言えることは、もう彼は長くないという事。そして、こいつら軍人は誰も助ける気が無いってことだ。
「あがっ!!」
乾いた銃声が鳴り、彼の生涯は幕を閉じたのだろう。ビシャッという液体がまき散らされる音とともに、彼の体は硬いコンクリートの地面に沈んだ。大方、当初は避難場所に待機していたが、市民の様子がおかしくなってくるにあたり、助けを呼ぶためにこの場にやってきたのだろう。さぞかし能天気な頭をしていた様だ。でなければ、訳も分からぬまま死体が転がる廊下を歩くことなんて出来るはずがない。
「・・・渋澤さん、止まって」
「・・・?」
彼が安らかに逝けるよう仏に願い、再度進み始めようとしたとき。阿漕さんが歩みを止めた。
何事かと思い阿漕さんの方に視線を向ける。すると、彼は何かを聞き逃すまいと耳を澄ましていた。
俺もそれに倣い、同じように耳を澄ますと、信じられない情報が耳に入った。
「・・・やはり、館内に撃ち漏らしが居るようだな・・・よし、全員聞け!これより館内の制圧の人員を増やす!疑わしきは射殺し、感染をここだけに食い止めるぞ!」
「第4班、5班。1、2班と合流し指示を仰ぎ、館内の制圧行動にあたれ!」
―――不味い。これ以上捜索の人出が増えれば、直にみんな殺されてしまう!
危惧していた事が現実となった時、俺たちに託された希望のカウントダウンが始まった。俺たちは素早く踵を返し、その場を去った。足音を鳴らさず、姿勢は低く。迅速でいて隠密に行動し、安全な脱出口を探した。
虱潰しに候補地を巡り、時には死体に紛れながら自衛隊をやり過ごし、ようやく人ひとり通れそうな窓を見つけた。
「・・・どうやら、此処から誰か逃げ出したようですね」
その窓を見つけた阿漕さんが呟く。その脱出口は地下用具倉庫内、地面から鉛直1メートルの高さにあった。40×50の長方形の窓は人ひとりなら通り抜けられそうな大きさをしており、その見知らぬ逞しき人は、そこから抜け出してそのまま真っすぐ花壇の垣根を突き進んでいったのだろう。逃げ出す際に窓枠に引っ掛けてほつれたのであろうきれいな布糸と、垣根の青々とした若い青葉が地面に散っていることがそれら一連の事象を物語っている、と阿漕さんは語った。
俺は彼の観察眼と推理力に素直に感心した。人間だれにでも褒められるべき長所があるというが、案外ほんとなのかも知れない。自分だけが生き残ることを第一とする利己的な外道だが、俺は彼の鋭い観察眼と注意深さを見習うことを教訓とした。
「これなら、あいつらとは真逆にあるし逃げ出してもバレませんね。よし、さっそくみんなを「まだそんなことを言っているのか!!!」」
俺の言葉を遮り、怒声が響いた。初めて聞く阿漕さんの張り上げた声に、思わず息を呑む。
「いいか。さっきも言っただろう!あいつらはお荷物なんだ!足手纏いだ!はっきり言って邪魔なんだよ!ここから逃げ出せてもあいつらは生き残れやしない!・・・どうせ見つかって殺されるのが関の山だ。一緒にいたら僕たちも巻き添えだ。だったら、あいつらを見殺しにしてでも僕は生き残る!・・・渋澤、お前も僕を邪魔するってんならみんな仲良くここで死ね!僕は知らないからな!」
前言撤回、目の前の男は、いいところが真性である外道の色に埋まってしまったどうしようもないクズ野郎だ。俺は拳を握りしめ、彼の頬を思いっきり振りぬいた。
体重の軽い阿漕さんは吹き飛ばされ、用具倉庫の壁に体を強く打ちつけた。
「一人で逃げようってんなら、勝手にしろ。俺はみんなで一緒にここを脱出する。俺に残された使命はそれだけだ」
俺がそう言い放つと、阿漕さんはよろよろと立ち上がり、こちらを睨むと「後悔するぞ」と吐き捨てて窓から脱出した。
これで良かったのか。そう言う類の迷いは捨て、俺は更衣室に駆けた。
阿漕は体育館を地下用具室の窓から脱すると、先人も通ったであろう獣道を抜け、ついに総合体育館を抜けた。後は勾配の緩い坂道を下り総合運動公園を抜け、自宅に戻り、ネットの掲示板に「【悲報】自衛隊、避難民に向け発砲し殺害」という見出しのもと、事の顛末を自己の英雄譚として書き込むだけだ。
しばらくこの話でネットは持ち切り。阿漕タクは自分を犠牲に住人を救おうとしたが泣く泣く断念し、命からがら逃げ延びた英雄として伝説となるであろう。
「・・・クッ、クハハッ!こいつはおもしれ―記事が書けるぜ・・・ん?」
脳内で壮大な妄想を繰り広げていた阿漕の前にうずくまる一人の男。そしてその背後に広がる街の景色の彼は絶望した。
街にともる電気の明かりは存在せず、代わりに赤赤とした火と天を覆う黒い煙。
「なんだよ・・・逃げても無駄ってことかよ・・・ハハハ」
阿漕は絶望し、その場にへたり込んだ。そして、唐突に立ち上がった目の前の男の様子を一見し、自己の生存を諦めた。とめどなく涙が零れ、小便をその場でまき散らす。彼は死を悟った。
「くそっ・・・僕はまだ・・・こんなところで!来るな!来るなあああ!うわあああああああ!!!」
立ち上がった男はよろよろと近づき、阿漕に覆いかぶさる。そして、阿漕の首元に歯を立て噛み付いた。
これが後に、日本を超え世界に蔓延る様になるアンデッド「ウォーカー」が引き起こした悲しき事件の1つであることを、渋澤はまだ知らなかった。




