遠里小野橋(おりおのばし)を渡る風
1970年代のノスタルジックな思いで。
第一章:秋風の退職勧奨
二〇〇七年、秋。 大阪の街を包む風は、どことなく湿り気を帯びながらも、肌を刺すような冷たさを孕み始めていた。 津田康一、五十五歳。彼は今、人生の大きな分岐点に立たされていた。
「津田さん、お耳に挟んでいるとは思いますが……」
目の前で申し訳なさそうに頭を下げているのは、十歳ほど年下の上司、佐藤だった。かつては康一が目をかけ、一から仕事を教え込んだ部下である。その彼から「希望退職」という名の引導を渡される日が来るとは、若い頃には想像もしなかった。
いつの間にか、日本社会において希望退職を募ることは「経営の合理化」という名の恒例行事になっていた。デフレの波は執拗に企業の体力を削り、かつては人事の責任者が辞表を胸に覚悟を決めて行うような重たい決断も、今や季節の変わり目に行われる事務的な手続きへと変質してしまった。
康一自身、かつては管理職として部下に肩叩きをする側に回ったこともある。その時の相手の絶望的な表情、震える拳を、彼は今でも鮮明に覚えている。だからこそ、目の前で言葉を濁す佐藤の苦しみも、痛いほど理解できた。
(まあ、潮時か……)
幸い、二人の子供は何とか大学を卒業し、それぞれ自立して働いている。住宅ローンの目処も立った。康一は、この勧奨を受け入れることに決めていた。
そんな折、長年懇意にしてきた取引先の担当者に、引継ぎを兼ねた最後の挨拶に向かうことになった。会社は我孫子にある。予定より早く終わった帰り道、康一はふと思い立ち、学生時代に幾度となく通り慣れた「遠里小野橋」へと足を向けた。
橋の欄干に手をかけ、眼下を流れる大和川を眺める。 川面を撫でる風が、康一の記憶の蓋を静かに押し開けた。
第二章:大学通りのモラトリアム
三十数年前、康一は阪和線沿いにある公立の大学の経済学部に通っていた。 一九七〇年代半ば。激しかった学園紛争の嵐は過ぎ去り、キャンパスにはどこか虚脱したような、空虚な空気が漂っていた。授業は表面的には平穏に行われていたが、校舎の壁には色褪せた立て看板が残り、時折、拡声器から響く政治的主張も、かつての熱を失った残響のように聞こえた。
康一もまた、その時代の空気に染まっていた一人だった。 「独占資本主義」や「資本論」といった小難しい言葉を口にすることに、ある種の知的ファッションとしての格好良さを感じていた。学業は単位を落とさない程度にこなし、残りの時間は喫茶店で無駄に時間を過ごすか、友人ととりとめもない議論を戦わせる。それは、怠惰でありながらも、何か大きなものに抗っているつもりでいる、青臭い特権的な時間だった。
二年生に進級した四月のある日、悪友の秋山に誘われて、康一はある読書サークルの門を叩いた。
秋山という男は、康一とは正反対の性質だった。康一が左翼的な気風に憧れて政治的なポーズを取る一方で、秋山は女子大との合コンや刹那的な遊びに執着していた。そんな秋山が、キャンパス内で新入生勧誘をしていたある女性を指差して言った。
「おい津田、見ろよ。あの子、すごい綺麗な目をしてるぞ。見てるだけでゾクゾクする」
指の先には、小柄でショートカットに緩いパーマをあてた女性がいた。 秋山の言う通り、彼女の瞳は吸い込まれるような深みを持つエキゾチックな光を放っていた。だが、康一が同時に目を奪われたのは、薄いブラウスを押し上げるような、彼女の豊かな胸の膨らみだった。
「二年生だけど、興味あるんだ」 秋山は臆することなく彼女に近づいていった。その勢いに押されるように、康一もサークルの例会に顔を出すことになった。
その女性は、文学部三年の吉原麻美といった。 結局、秋山はいつものように二回ほど顔を出しただけで、別の女子大との合同サークルへと去っていったが、康一はその後も真面目に通い続けた。左翼がかった文学論や社会批評の雰囲気が、当時の彼の好みに合っていたこともあるが、何より麻美と話す時間が心地よかった。
麻美は、そのサークルの背後にある学生団体のメンバーだという噂もあったが、康一にとってはどうでもいいことだった。回を重ねるごとに彼女と打ち解け、たわいない冗談を言って笑い合える関係になった。彼女のエキゾチックな瞳に見つめられるたび、康一の胸は高鳴った。
しかし、夏休みを目前にしたある日、事態は急変した。 「サークルは当分の間、休止になります」 簡素な連絡があったきり、部室の扉は閉ざされた。内ゲバか、それとも組織の分裂か。キャンパス内では不穏な噂が飛び交い、麻美を含む中心メンバーたちは、忽然と姿を消してしまった。
第三章:遠里小野橋の静寂
吉原麻美のいない夏休みは、ひどく退屈で重苦しいものだった。 第一次オイルショックの余波で物価は高騰し、学生たちの生活も困窮し始めていた。世の中全体が、出口の見えないトンネルを歩いているような閉塞感に包まれていた。
九月になり授業が再開されたが、彼女の姿は依然としてキャンパスにはなかった。 「あいつら、もう戻ってこないらしいぜ」 仲間の言葉を聞くたび、康一の心には小さな穴が空いたような寂しさが広がった。
当時、康一は我孫子にある個人経営の小さな学習塾で、小学生に勉強を教えるバイトをしていた。 その夜も八時過ぎに仕事を終え、いつものように下宿先である堺市の浅香山へと歩き始めた。我孫子から大和川を越えて浅香山へと至る帰り道。九月の夜風は少しずつ冷たさを増し、火照った体に心地よかった。
遠里小野橋に差し掛かった時だ。 街灯の乏しい橋の向こうから、一人の女性が歩いてくるのが見えた。小柄な体躯、特徴的なショートカット。 「……吉原さん?」 康一が声をかけると、彼女は驚いたように足を止めた。
「久しぶりやね、津田くん。バイトの帰り?」 「あ、はい。……元気でしたか?」 気の利いた言葉が浮かばず、間抜けな問いかけをしてしまった。
「いろいろあってね、大変やったわ。ちょっと疲れが溜まってるねん」 彼女は少しやつれたようにも見えたが、かつてと同じ愛嬌のある笑顔を見せた。議論の時の鋭い眼差しとは違う、どこか儚げで優しい眼差し。 「無理しないでくださいね」 「ふふ、ありがとう。……ねえ津田くん、もしよかったら、うちの下宿に来ない?」
屈託のない誘いだった。 麻美の下宿は、平屋の木造アパートで、女子学生専用であったが大家は別の家にいるため、男女問わず出入りは自由であった。女子だけということもあり、入り口には鍵がかかっているが、外から声をかければ自由に入れるところだった。そして彼女の部屋はサークル仲間の溜まり場のようになっていたころもあり、康一も一度だけ訪れたことがあった。
部屋に入ると、麻美は「ちょっとこれだけ書かせて」と机に向かい、何やら熱心にノートを綴り始めた。康一は居場所に困り、部屋の隅に積み上げられていた文芸誌をパラパラとめくって時間を潰した。六畳一間の簡素な部屋には、生活感がほとんどなかった。
「津田くん、コーヒー淹れたよ。一緒に飲もう」 しばらくして、彼女は二つのカップを手に、康一の隣に座り込んだ。 「何読んでるん?」 「柴田翔の書評です」 「ああ、『されど我らが日々――』かな? ひびたような心で長い人生を送るってどんなんやろう・・・」 麻美はじっと何かを見つめるように言った。
彼女が康一の手元を覗き込もうと、顔を近づけてきた。 その瞬間、彼女の髪から甘いシャンプーの香りがふわりと漂い、康一の鼻腔をくすぐった。薄いTシャツ越しに、彼女の柔らかな胸の感触が康一の腕に伝わる。
沈黙が流れた。 二人の距離は、吐息が重なるほどに近い。 康一はたまらなくなって、彼女の顔を見た。エキゾチックな瞳が、潤みを帯びて自分を見つめている。 どちらからともなく、顔が近づいた。 唇が重なった。
吸い付くような感触と、激しくなる鼓動。康一は彼女の体を抱き寄せようとした。 その時だった。
「吉原さん! 吉原さん、おる!?」
外から、大声で彼女を呼ぶ声が響いた。 弾かれたように二人は離れた。 「あ……山下さんたちだわ。ごめん、開けてくる」 麻美は赤らんだ顔を伏せ、そそくさと玄関へ向かった。
入ってきたのは、サークルの仲間だった男女三人だった。彼らは部屋に康一がいることなど目に入らない様子で、麻美を取り囲んだ。 「もう限界やろ、麻美。実家に戻って休めって」 「でも、私が抜けたら今の対立はどうなるの? 私はまだ大阪を離れられない」 「自分の体を一番に考えろ。持病が再発したら、それこそ終わりやぞ」
激しい押し問答が始まった。そこで康一は初めて、彼女が重い持病を抱えながら、活動の心労でボロボロになっていたことを知った。自分たちの踏み込めない「内情」と、彼女の過酷な現実。 先ほどまでの甘い空気は霧散し、康一は自分がひどく場違いな存在に思えた。 「……失礼します」 逃げるように、康一は彼女の部屋を後にした。
第四章:再会、そしてそれぞれの道
それから卒業まで、康一が大学で麻美を見かけることは二度となかった。 彼女の学部棟の近くを何度も歩いたが、彼女は忽然と姿を消してしまったようだった。
康一はそのまま就職活動に入り、関西の中堅商社へと入社した。 配属されたのは機械部門の営業で、奇しくも最初に任されたのは、馴染みの深い我孫子にある機械メーカーの製品を、東南アジアへ売り込むプロジェクトだった。 「運命だな」 康一は仕事に没頭した。バブルへ向かう上り坂を、無我夢中で駆け抜けた。
社会人になって二年目の、九月の夜だった。 我孫子での接待を終え、酒気を帯びた康一は酔い覚ましに遠里小野橋まで歩いてきた。南海高野線に乗って帰るつもりだった。
橋の上で、前方から来る女性とすれ違った。 康一は足を止めた。相手も、足を止めた。 「……津田くん?」 「吉原……さん」
彼女は以前よりも少しふっくらとして、健康そうな顔色をしていた。 聞けば、あの日以来、実家のある京丹後に戻って一年半ほど療養していたのだという。二年の留年を経てようやく卒業の目処が立ち、春からは京都市内の中学校で教員として働くことが決まったと、晴れやかな笑顔で語った。
「津田くん、立派になったね。ネクタイ、似合ってるよ」 彼女は康一のスーツ姿を眩しそうに眺めた。 「吉原さんも、元気そうでよかった」 「……いろいろあったなぁ、本当に」
彼女は遠い目で大和川の深い闇を見つめ、意味ありげな余韻を残して「さよなら」と告げた。 それが、康一が彼女を見た最後だった。
終章:されど我らが日々
二〇〇七年、秋。 遠里小野橋から眺める景色は、かつてのそれとは一変している。 川沿いの建物は新しくなり、行き交う人々の服装も様変わりした。
康一は商社マンとして、バブルの絶頂とその崩壊、その後の長い低迷期を、一兵卒として戦い抜いてきた。誇れるような華々しい功績があるわけではないが、家族を養い、社会の一部として役割を果たしてきたという自負はある。
だが、こうして退職を前に一人佇んでいると、思い出すのは仕事の成功でも失敗でもなかった。 二十歳の康一が感じた、あの夜の風の冷たさ。 下宿の暗がりで感じた、シャンプーの甘い香り。 初めて触れた女性の唇の柔らかさと、薄いTシャツ越しに伝わってきた確かな胸の鼓動。麻美さんはあのとき心身ともにボロボロだったんだな。辛さを一時だけ康一と共有したような時間だったのかもしれない、と康一は思い出すように考えた。
あの瞬間、確かに自分たちは生きていた。 社会の矛盾に悩み、青い議論に酔いしれ、そして誰かを切実に求めていた。
川筋を冷たい風が通っていった。
「よし、行こうか」
康一は自分に言い聞かせるように呟くと、欄干から手を離した。 橋を吹き抜ける風が、彼の背中を優しく押した。 彼はもう振り返らない。 思い出という名の重荷をこの場所に置き去りにして、康一は一歩、また一歩と、新しい人生の待つ対岸へと遠里小野橋を渡っていった。(完)
誰にでもある淡い思いと今思う切なさ。




