糺(ただす)の円環 ―夏への回帰―
光輝シリーズ、短編集です。
一、凍てつく静寂
十一月の終わり、下鴨神社の「糺の森」は、冬の入り口に立っていた。 私は、冷え切った空気を肺の奥まで吸い込みながら、朱塗りの楼門へと続く参道を歩いていた。五十八歳。人生の午後を過ぎ、黄昏時を迎えようとしている私にとって、この寒さはどこか心地よかった。 半年前、離婚届に判を押した。三十年連れ添った妻との別れは、激しい争いがあったわけではない。ただ、互いの心の輪郭が長年の摩擦で摩耗し、もう重なり合うことができなくなった。家の中に充満していた生活のノイズが消え、残ったのは耳が痛くなるほどの沈黙だけだった。
「……変わらないな、ここは」
瀬見の小川を渡る。かつて十九歳の私が、泰江と歩いた道だ。 当時の私は、未来というものが無限に広がる平野のように見えていた。その平野のどこまでも、彼女と一緒に歩いていけるのだと信じて疑わなかった。しかし、人生は平野などではなく、一度入り込めば出口の見えない原生林のようなものだった。
二、蝉時雨の壁
ふと、視界が歪んだ。 眼鏡の度が急に合わなくなったような、奇妙な眩暈。立ち止まり、目を瞑ってやり過ごそうとしたその時、音が消えた。 冬の枯葉がカサつく音も、遠くで鳴くカラスの声も、参拝客の足音も。 代わりに、地の底から湧き上がるような、圧倒的な響きが鼓膜を叩いた。
――ジリ……ジリリリリ……ッ!
目を開けると、そこはもう冬ではなかった。 木々の葉は狂おしいほどの深緑に膨れ上がり、頭上の空は雲一つない濃紺の夏空が突き抜けている。肌を刺していた冷気は消え失せ、サウナのような湿った熱気が一気に私の体を包み込んだ。 驚いて自分の腕を見る。コートを着ているはずの腕に、じっとりと汗が浮いている。
「なんだ……これは、どうなっている」
困惑する私の前に、一人の少女が立っていた。 白いノースリーブのワンピースに、大きなリボンのついた麦わら帽子。彼女は小川の縁に屈み込み、水面を覗き込んでいる。 心臓が、痛いほど跳ねた。
「泰江……」
その名は、四十年間、心の奥底に封印してきた鍵だった。 彼女がゆっくりと立ち上がり、こちらを振り返る。十九歳のままの、瑞々しい肌と、少し悪戯っぽく細められた瞳。 しかし、彼女の視線は私を通り越し、私の背後へと向けられた。
「遅いよ、浩一くん! 置いてっちゃうからね」
鈴を転がすような声。 振り返ると、そこにはTシャツにジーンズ姿の、若かりし日の私が走ってくるところだった。彼は私の体を透過するようにして通り抜け、彼女の元へと駆け寄った。
三、繰り返される「あの日」
私は、透明な亡霊のように二人を追った。 これは記憶なのか、それともこの森が持つ「偽りを糺す」力が、私に見せている審判なのか。
二人は森の奥、祭場である「切芝」へと向かう。そこは当時、私たちが「別れ」を予感しながらも、口に出せなかった場所だ。 若い私は、彼女に何かを渡そうとしていた。小さな箱だ。 私は思い出す。あれは就職が決まり、東京へ行くことが決まった私が、彼女に贈ろうとして結局渡せなかったリングだ。 「遠距離になっても、僕たちは大丈夫だ」 そんな青臭い言葉を、当時の私は飲み込んでしまった。代わりに口から出たのは、「向こうの生活が落ち着いたら、連絡するよ」という、逃げ道を作ったような不実な約束だった。
何度も、何度も。 森の中で、その場面が繰り返される。 若い私が口籠もり、彼女が少しだけ寂しそうに笑って、「うん、待ってるね」と嘘をつく。 その瞬間、風が吹き抜け、激しい蝉時雨が再び辺りを支配し、場面は最初に戻る。
「やめろ……もういい。もう見たくない」
私は叫んだ。 自分がこれまで「仕事が忙しかったから」「仕方がなかったから」と、自分に言い聞かせてきた全ての言い訳が、この夏の光の下で暴かれていく。 私は彼女を愛していたのではない。彼女を待たせているという優越感に浸り、結局は自分の一番大切な「安定」を選んだのだ。
四、糺の審判
三度目のループが始まろうとした時、私は思わず二人の間に割って入った。 届くはずのない手が、若い私の肩を掴む。
「言え……! ちゃんと、行かないでくれと言え!」
その瞬間、世界が止まった。 蝉の声がピタリと止み、森が死んだような静寂に包まれる。 白いワンピースの彼女が、ゆっくりと顔を上げた。その瞳が、初めて「五十八歳の私」を真っ直ぐに捉えた。
「浩一くん。あなたは、何を糺しに来たの?」
彼女の声は、十九歳のそれではなく、どこか慈愛に満ちた、大人の女性のような響きを持っていた。 私は崩れ落ちるように膝をついた。 「私は……自分に嘘をついていた。君を幸せにする自信がないことから、逃げたんだ。その逃げ癖が、その後の人生でも、妻との関係でも……ずっと続いていたんだ」
告白した瞬間、胸の奥で何かが弾けた。 彼女が近づき、私の白髪が混じった頭を優しく撫でた。その手は、夏の熱さではなく、冬の木漏れ日のような、穏やかな温もりだった。
「もういいのよ。森が、あなたの真実を聞いたから」
五、冬の光の中へ
気づくと、私は瀬見の小川のほとりで独り、冷たいベンチに座っていた。 蝉の声はもう聞こえない。耳に届くのは、乾いた風が枯葉を踊らせる音だけだ。 首元に手をやると、マフラーの隙間に、一枚の青々とした「柊の葉」が挟まっていた。 季節外れの、瑞々しい緑色。
私はゆっくりと立ち上がった。 足取りは、来る時よりも少しだけ軽い。 過去を変えることはできない。失った彼女も、去っていった妻も、戻ってくることはないだろう。 しかし、私は初めて、自分の人生の「偽り」をこの森に置いてくることができた。
参道を戻る私の背中に、柔らかな冬の陽光が差し込む。 これから帰る、誰もいないはずの家。 だが、そこには以前とは違う、新しい静寂が待っているような気がした。(完)
遠い時代の思い出がいくつになっても思い出されれますね。




