閑話5「拾ってもらったぶんは、返す」― 神楽槙の誓い
槙は夜、一人で飲む習慣があった。
酒は強くない。
缶ビール一本を一時間かけて飲む程度だ。
酔いたいわけじゃない。
ただ、一日の終わりに少しだけ、誰かと話すような時間が欲しかった。
話し相手はいないので、飲みながら考える。
それが槙の夜の過ごし方だった。
今夜は夜霧蒼汰のことを考えていた。
(あいつ、影の鎖を出した)
朝の公園で見せてもらったあれは、正直、予想より早かった。
スキルの「生成段階」に至るには、通常半年から一年かかる冒険者が多い。
蒼汰は登録からまだ三週間も経っていない。
(才能か、それとも目的の力か)
缶ビールを一口飲んだ。
(どっちでもいい。どっちにしても、あいつは伸びる)
窓の外に、渋谷の夜景が広がっていた。
槙のアパートはそれほど高い場所ではないが、路地を挟んだ向こうに、街の光がにじんで見えた。
倉橋元のことを思い出していた。
いつも、こういう夜に思い出す。
◆
槙が十七歳の頃の話だ。
覚醒して《剛拳》を得たのはいいが、使い方がわからなかった。
ただ強く殴るだけのスキルだと思っていた。
試験でも「平均的な攻撃型」と評価されて、それ以上でも以下でもなかった。
家族とは仲が悪かった。
家にいる理由もなかった。
だから夜の渋谷をうろうろしていた。
特に目的もなく、ただ時間を潰していた。
ある夜、路地裏で蹲っていたら、声をかけられた。
「何してんだ、こんなとこで?」
振り返ると、五十代くらいの男が立っていた。
がっしりした体格。
短い白髪。
顔に傷が一本。
冒険者の装備を担いでいたが、今は依頼帰りらしく疲れた顔をしていた。
「飯、食ったか」
「……食ってない」
「そうか。来い」
それだけだった。
名前は倉橋元。Aランクの冒険者だった。
当時すでに引退寸前だったが、まだ現役で動いていた。
なんで声をかけたのかと後で聞いたら、「目つきがよかったから」と言った。
(目つき)
槙はそのとき、自分の目がどんな目をしているのか全くわからなかった。
ただ蹲っていただけだ。でも倉橋には何かが見えたらしかった。
その夜、近くの定食屋で飯を食った。
倉橋は何も聞かなかった。
家のこと、家族のこと、これからのことを、何一つ聞かなかった。
ただ飯を食いながら、冒険者の話をしてくれた。
ダンジョンで見た景色。
仲間との失敗談。
モンスターの面白い習性。
話を聞きながら、槙は飯を食った。
(久しぶりに、誰かと同じテーブルで飯を食った)
それだけのことが、なぜかひどく嬉しかった。
◆
それから倉橋に拾われた。
「鍛えてやる」と言われて、断る理由がなかった。
朝から走らされて、基礎体術を教えられて、《剛拳》の使い方を一から叩き込まれた。
倉橋は厳しかったが、理不尽ではなかった。
「なぜそうするのか」を必ず説明してくれた。
「打ち方を変えれば用途が変わる。スキルの名前は変わらなくても、使い手が変わればスキルは変わる」というのが倉橋の口癖だった。
三年間、倉橋のもとで修行した。
その間に、倉橋の体が悪くなった。
ダンジョンで受けた毒の後遺症だと言っていた。
でも倉橋は愚痴を言わなかった。
ただ「俺が動けなくなるまでに、お前を一人で立てるようにする」と言って、訓練の密度を上げた。
槙が二十歳になったとき、倉橋は「もう十分だ」と言った。
「お前はもう一人でやれる。俺が教えられることは全部教えた」
「まだです。もっと」
「馬鹿。師匠を超えるのが弟子の仕事だ。早く超えろ」
そう言って、倉橋は笑った。
その半年後に、倉橋は死んだ。
ダンジョンで、ではない。
家で、静かに。
後遺症が悪化して、眠るように逝った。
葬式には冒険者仲間が大勢来た。
槙はその中で一番端っこに立っていた。
声をかけてくれる人もいたが、うまく返事ができなかった。
帰り道に一人で泣いた。
路地裏で。
誰にも見せなかった。
(倉橋さん。俺、まだ全然超えられてないですよ)
(Bランクどまりで、まだAにも届いてない)
◆
缶ビールが空になっていた。
槙は空き缶を机に置いて、窓の外を見た。
(倉橋さんが俺を拾った理由、今でもわからない。本当にただの「目つき」だったのか、それとも別の何かがあったのか)
(でも俺は確かに変わった。倉橋さんがいなかったら、今の俺はない)
蒼汰のことを、また考えた。
ADRの前で見かけたとき、なぜ声をかけたのか。
自分でも正確にはわからない。
ただ「目つきがいい」と思った。
それが全部だった。
(倉橋さんが俺に言ったのと、同じ理由だ)
(繋がってるな、と思った。拾ってもらったぶんを、誰かに返す。その連鎖が、俺にまで来た)
蒼汰が「スキルなしでダクロを倒した」という話を瀬戸から聞いたとき、槙は少し驚いた。そして少しだけ、倉橋さんに似てると思った。
倉橋さんも、手段を選ばない人だった。
スキルがなくてもスキルで戦うような人だった。
状況をそのまま受け入れて、その中で最善を探す。
(蒼汰はまだ若い。まだ何も知らない。でも根っこにあるものは本物だ)
槙は「悪くないぞ、夜霧」と今朝言ったことを思い出した。
振り返らずに言ったのは、照れくさかったからだ。
それ以上の理由はない。
(倉橋さんも、褒めるとき振り返らなかった。俺が似たことをするとは思わなかった)
新しい缶ビールを開けようとして、やめた。
今夜は一本で十分だった。
槙は窓を少し開けた。
秋の夜の空気が入ってきた。
遠くに、ダンジョンの入り口を示す青い表示灯が見えた。
あそこに今夜も誰かが潜っているのだろう。
「……まあ、頑張れ、夜霧」
誰にも聞こえない声で、槙は言った。
倉橋さんが自分にそう思っていたかどうか、確かめる方法はもうない。
でも槙は、今夜だけは、そう信じることにした。
窓を閉めて、電気を消した。
槙の部屋に、渋谷の夜景だけが残った。
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