第16話「Eランク昇格試験、一度目の失敗」
Eランク昇格試験の申込書を出したのは、黒瀬とのスパーリングの翌朝だった。
受付の朝倉さんに「夜霧くん、少し早いかもしれませんが」と言われたが、蒼汰は「受けてみます」と答えた。今の自分がどこまでできるのか確かめたかった。
それだけだった。
試験は三日後の午前十時に設定された。
試験内容は事前に書面で渡される。
「規定モンスター三種の単独討伐。各一体。時間制限なし。ただし負傷による途中棄権は失格」。
対象モンスターはスライム(ミドロ)、ゴブリン(ガズ)、そして鉄皮蜥蜴だった。
(ミドロとガズは問題ない。問題はダクロだ)
ダクロとは第六話で悠と一緒に遭遇し、毒を喰らって悠に解毒してもらった経験がある。今回は単独だ。でもあのときより自分は強くなっている。
《影縫い》の射程も伸びた。影を「剥がして」手の中で動かすこともできる。
(やれる。やれるはずだ)
試験前日の夜、蒼汰はまた部屋で《影縫い》を練習した。
影を剥がして、伸ばして、手の中で形を変えて。
いつもより長く、二時間ほど続けた。
そのまま眠れないまま朝になった。
◆
試験官は瀬戸晴彦という四十代の男だった。
がっしりした体格で、短い白髪交じりの黒髪。
顔に古い傷が一本走っている。
元Bランクの引退冒険者で、今は協会の試験官を務めているらしい。
口数は少なく、余計なことを言わないタイプだった。
「夜霧蒼汰。Fランク。スキルは《影縫い》」と瀬戸は確認した。「始める前に言っておく。試験中に俺が止めたら即中断だ。判断は俺がする。文句は受け付けない」
「わかりました」
「では第一課題。ミドロの討伐から始める」
E層の入り口から入って、いつもの通路を歩いた。
瀬戸は後ろを一定の距離で歩いていた。
観察しているのだろう。背中に視線を感じる。
ミドロはすぐに見つかった。
(落ち着け。いつも通りだ)
発動。固定。三秒。核を砕く。
ミドロが消えた。
瀬戸は何も言わなかった。
手元の記録板に何かを書き込んだだけだ。
次はガズだった。
ガズ・ソムという斥候型の個体を見つけた。
素早いタイプだが、影縫いで足を止めればいい。
蒼汰は慎重に間合いを測って、発動した。
固定。短剣で仕留める。
瀬戸が「二体目、完了」と記録した。
(あとはダクロだ。ここまではいい。体力もある。魔力も、問題ない…………)
そのとき、蒼汰の指先が少し重くなった気がした。
(? なんだ、今の感覚)
気にせず先に進んだ。
D区画の境目付近まで来ると、壁際にダクロがいた。
鉄色の鱗。
黄色の縦瞳孔。
尾の先端が揺れている。
蒼汰は深呼吸した。
(落ち着け。まず影を取る。ダクロの影を捉えて縫い止める。固定中に弱点の首の根元を狙う。前回悠に教えてもらった継ぎ目の位置は覚えている)
踏み込んだ。
ダクロが反応して尾を振った。
毒液が飛ぶ。
右に跳んで避ける。
床に着地して、ダクロの影を見る。
影を捉える。
発動しようとした。
した、はずだった。
何も起きなかった。
《影縫い》が、発動しなかった。
スキルを発動しようとした。
意志はある。
でも何も起きなかった。
指先が重い。いや、重いというより、空っぽだ。
水が入っていたはずのバケツが、一滴も残っていないような感覚。
魔力が、尽きていた。
(嘘だろ)
(昨夜、二時間練習して、今日の試験前にも少し試して……使いすぎた。完全に使いすぎた)
ダクロが飛んだ。
スキルなし。
魔力なし。
残るのは短剣と肉体だけだ。
蒼汰は後退しながら、右手の短剣を構えた。
ダクロの爪が短剣の刀身に当たって弾かれる。
衝撃が腕に来る。
(縫えない。縫えないなら……どうする)
ダクロが再び跳躍した。
蒼汰は横に転がって避けた。
壁に背をつけた。
ダクロが尾を構えた。
毒液の射出準備だ。
距離は三メートル。
避けられる保証はない。
(詰んだ、かもしれない)
後ろから瀬戸の声がした。
「中断するか」
冷静な声だった。
止める気があるなら今だ、という合図だった。
(中断すれば失格。でも続ければ毒を喰らう可能性が高い)
(やめるか? やめていいのか?)
蒼汰はダクロを見た。
ダクロは尾を振り上げたまま、こちらを見ている。
(《影縫い》がなければ、俺は何もできないのか)
(スキルがなければ、俺はただのFランクか)
脚が、震えていた。
でも。
(……違う)
(スキルがないなら、スキルなしで考えろ。今、俺には何がある?)
短剣がある。足がある。目がある。
そして。
(影は……消えていない。魔力がなくてもスキルは使えないが、影そのものは床にある。俺の影も、ダクロの影も)
(《影縫い》が使えなくても、影は存在する。ならば……影を「踏む」ことはできる)
これは賭けだった。
《影縫い》なしで影を踏んでも何も起きないかもしれない。
でも蒼汰には確かめなければならない気がした。
蒼汰は壁から離れた。
ダクロに向かって踏み込む。
ダクロが尾を振った。
毒液が飛んだ。
蒼汰は跳んだ。
毒液の軌道の上を越えるように。
ダクロの真上を通過して、着地した瞬間、ダクロの影の上に両足で立った。
何も起きなかった。
当然だ。
魔力がなければスキルは発動しない。
でも蒼汰は着地の勢いのまま、短剣をダクロの首の根元の継ぎ目に向けて突き込んだ。
当たった。
核ではない。
でも継ぎ目の隙間に刃が入って、ダクロが怯んだ。
体勢を崩して、横に倒れた。
その一瞬の隙に、蒼汰は核の位置を確認して、もう一度短剣を突いた。
今度は、核に届いた。
ダクロが光の粒子になって消えた。
蒼汰は床に膝をついた。
腕が震えている。
呼吸が荒い。
魔力は空っぽのままだ。
後ろから瀬戸の足音がした。
「三体目、討伐確認」と瀬戸は言った。それから少し間を置いて、
「ただし」
(来た。失格宣告が来る)
「試験中に魔力を枯渇させた。これは管理能力の不足と判断する。総合評価:不合格」
蒼汰は「……わかりました」と言った。
瀬戸は少し蒼汰を見下ろしてから、「魔力の枯渇は経験不足から来る。
魔力回路の鍛錬と、スキルの消費量を把握しろ。
それができれば、お前は合格できる」と言った。
批判ではなく、アドバイスだった。
試験官としての仕事だった。
「はい」と蒼汰は答えた。
◆
協会に戻って、不合格の記録書にサインした。
朝倉さんが「夜霧くん……」と声をかけてきたが、蒼汰は「大丈夫です」と言った。
ロビーのベンチに一人で座った。
(スキルが使えなくなった。試験中に。最悪のタイミングで)
(でも、ダクロは倒した。魔力なしで、スキルなしで、短剣だけで)
(それが、今の俺の限界だ)
悔しくなかったといえば嘘だ。
でも奇妙なことに、昨日の全敗より清々しい感覚があった。
スキルなしで自分が何をできるかを、初めて確かめた気がした。
スマホに悠からメッセージが来ていた。
「どうだった?」
蒼汰は少し考えてから「不合格。でもダクロは倒した」と返信した。
すぐに返事が来た。
「それで十分じゃん」
(悠らしい返し方だ)
蒼汰はスマホを閉じて、自分の右手を見た。
今は魔力が空っぽで、《影縫い》は使えない。
でも手は動く。指先は動く。
(魔力回路の鍛錬。スキルの消費量の把握。)
(やることが増えた。でも、それだけ知れたってことだ)
蒼汰が協会を出た後、瀬戸晴彦は記録書を閉じながら少し考えていた。
魔力枯渇は確かに管理不足だ。試験としては不合格が正解だった。
だがあの状況でダクロを倒したことは、記録書のどこにも書かれていない。
――スキルなしで、毒液をかわして、継ぎ目を二度突いた。
Fランクが、だ。
瀬戸は「面白い奴だ」と小さく呟いた。
誰にも聞こえないように。
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