第15話「黒瀬慧、蒼汰を一蹴する」
協会の訓練室は地下一階にある。
縦横十メートルほどの石張りの部屋で、壁に衝撃吸収の魔石が埋め込まれている。
スパーリングや実技訓練に使える施設で、Eランク以上の登録者なら無料で使える。普段は二、三人が黙々と基礎訓練をしているだけで、あまり賑わっていない場所だ。
蒼汰がロッカーで装備を確認していると、扉が開いて黒瀬慧が入ってきた。
金髪、青目。整った顔つきに、いつもの余裕の色。手には木剣を一本持っていた。
「ちょうどいい」と黒瀬は言った。
「少し時間があるか?」
「……俺にですか?」
「他に誰がいる?」
(また唐突だな、この人は)
「スパーリングだ。お前の《影縫い》を実際に受けてみたい。本気でやれ」
黒瀬はそれだけ言って、部屋の中央に立った。
木剣を下段に構えている。
構え自体は教科書的で癖がないが、それがかえって隙のなさを感じさせた。
(実力差は明確だ。黒瀬はすでにEランク。訓練量も段違いのはず。勝ちに行くのは無理だ)
(でも……《影縫い》が通じるかどうかだけ、確かめてみたい)
蒼汰も木剣を取って、向かい合った。
外から扉を開けて、野本悠が顔を覗かせた。「なんか始まりそうだったから見学していい?」と悠は言った。黒瀬が「好きにしろ」と答えて、悠は壁際に座った。
◆
「始め」と黒瀬は言った。
次の瞬間、蒼汰の目の前に光が走った。
黒瀬の右手から発せられた光刃が、木剣の刀身を包んでいた。
閃光――光属性の加速技だ。
それと気づいた瞬間には、すでに黒瀬の木剣が蒼汰の左肩に当たっていた。
痛い、とは思わなかった。
速すぎて、当たったあとに痛みが来た。
(速……!)
蒼汰は右に跳んで距離を取った。
黒瀬は追ってこない。
ただ、元の位置に立ってこちらを見ている。
「遅い」と黒瀬は言った。
批評というより、ただの事実だった。
「お前の反応速度では、俺の《閃光》は見えない。最初の一打を防ぐのは諦めた方がいい」
(わかってる。じゃあどうする?)
(防げないなら、先に動く。黒瀬が動く前に影を縫えれば)
蒼汰は床の影を見た。
訓練室の照明は均等で、影が薄い。
でも完全にないわけじゃない。
黒瀬の足元にも、ぼんやりした影が落ちている。
踏み込む。
「《影縫い》!!」
影を縫い止める。
黒瀬の足が、一瞬だけ固まった。
三秒。
でも黒瀬は焦らなかった。
足が動かないなら上半身だけで対処する、という判断が一瞬でできる人間だった。
体を傾けて、木剣を横に薙ぐ。
固定された足のまま、上体だけで蒼汰の踏み込みに合わせた。
木剣が蒼汰の脇腹に当たった。
痛い。
息が止まる。
踏み込んだ勢いがそのまま打撃に乗った。
膝が折れかけて、なんとか堪えた。
(足を止めても……上半身で対応できるのか、この人は)
黒瀬は三秒が解けると同時に、距離を取った。
乱れた様子は一切ない。
「《影縫い》は面白い」と黒瀬は言った。
「足を止めるだけなら、対策はできる。でも」
少し間を置いた。
「影を遠くから「届かせられる」なら、話が変わる。
今のお前には、それが足りない」
(影の射程距離。今俺が届かせられるのは、接触距離に近い範囲だけだ。黒瀬の足元まで影を伸ばすのが精一杯だった)
(もし、もっと遠くから縫えたら)
◆
三回戦った。
結果は全敗だった。
一回目は速度差で完封。
二回目は《影縫い》で足を止めたが上体で対処された。
三回目は影を伸ばして射程を広げようとしたが、集中が分散して隙を突かれた。
三回目が終わったとき、蒼汰は床に手をついた。
息が上がっている。全身が重い。
黒瀬は木剣を下ろして、蒼汰を見ていた。
「立てるか」
「……立てます」
蒼汰は立った。
膝が笑っていたが、倒れなかった。
黒瀬はしばらく蒼汰の顔を見た。
その目が、少しだけ、最初と違う色をしていた。
批評とも侮蔑とも違う、何か別のものだった。
「……少し変わったな」と黒瀬は言った。
「え」
「覚醒試験のときのお前とは別人だ。目が」
(また、目の話だ。悠も、槙さんも、そして黒瀬も)
「何かあったのか」と黒瀬は聞いた。
問い詰めるのではなく、純粋に疑問として。
蒼汰は少し考えてから、「霧島澪さんに会いました。助けてもらった」と言った。
黒瀬の眉がわずかに動いた。
「霧島か」と黒瀬は呟いた。
それから少し間があって、
「俺もあの人の試合を見たことがある。学生のとき、公開演武で」
「どうでしたか?」
「……圧倒的だった。あれ以来、ずっと届かない」
(黒瀬も、霧島さんに届かないと思っているのか)
(こんなに強い人でも、まだ届かないのか。じゃあ俺はどれだけ先に行かなきゃいけないんだ)
蒼汰が黙っていると、黒瀬は木剣を壁に立てかけた。
「お前の《影縫い》には可能性がある。射程と速度を上げろ。それだけでスキルの価値が変わる」
「……ありがとうございます」
「礼はいらない。ただ、強くなれ」
それだけ言って、黒瀬は出口に向かった。
扉が閉まる直前、黒瀬は一度だけ振り返った。
何か言いかけて、やめた。
それから無言で出ていった。
蒼汰には聞こえなかったが、黒瀬が扉の前で一瞬だけ止まっていたことを、悠は見ていた。
◆
蒼汰が床に座り込んでいると、悠が近づいてきた。
「全敗だったね」
「わかってる」
「でも三回目、黒瀬が少し焦ったのわかった?」
「……え?」
「影の射程を伸ばしてきたとき、黒瀬の動きが一瞬だけ変わった。速度を上げた。つまり」
悠は蒼汰の顔を見た。
「射程が伸びたら、嫌だと思ったんだよ。あの黒瀬が」
(そうか。俺には全敗で何も通じなかったように感じたけど、一瞬だけ……黒瀬に「嫌だ」と思わせた瞬間があったのか)
蒼汰は床の自分の影を見た。薄くて、小さい。でも確かにある。
(射程を伸ばせ。速度を上げろ。それだけで変わる)
(黒瀬に言われた言葉が、槙さんに言われたことと重なった。使い方次第で変わる、と)
「悠」
「なに?」
「また明日も来る。今日の三回をもう一度やり直すつもりで練習する」
悠はしばらく蒼汰を見ていた。
それからいつものサバサバした顔で、
「そう。まあ、頑張れば」
と言って、立ち上がった。
(悠の「頑張れば」は、応援だ。俺はそれを知っている)
蒼汰も立ち上がった。
訓練室の照明が均等に落ちていた。
壁に、床に、蒼汰の影がぼんやりと広がっている。
蒼汰は右手を伸ばして、その影の端に向けて意識を集中した。
影の端が、少しだけ伸びた。
(射程。速度。今よりもっと遠く、もっと速く)
(黒瀬が「嫌だ」と思った一瞬を、次は「止められない」に変える)
影が伸びて、また戻った。五秒分だけの、小さな進歩だった。
でも蒼汰には、それで十分だった。
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