閑話4「溶けない氷でいることが、私の守り方だった」― 白瀬凜の独白
凜が目を覚ますのは、いつも夜明け前だ。
習慣でも体質でもなく、眠りが浅いからだ。
深く眠れた記憶が、いつからかなくなっていた。
それを誰かに話したことはない。話す必要を感じたことがないからだ。
ベッドの上に起き上がって、窓の外を見る。空はまだ暗い。
街灯がひとつ、ぼんやり灯っている。
息を吐くと、室内なのにかすかに白くなった。
体温が低いのかもしれない。よく言われる。
(冷たい人ですね、と言われたことがある)
スキルの話をしているのか、人格の話をしているのか、そのときはわからなかった。どちらでも構わないと思った。
凜は右手を前に伸ばして、指先から薄い霜を出した。
室内の空気が冷えて、窓ガラスの隅に小さな氷の結晶が張り付いた。
(《氷幕》。私のスキル)
覚醒したのは十五歳のときだった。
両親は驚いていたが、喜んでいた。
「氷は珍しい属性だ」と言っていた。
凜にはピンとこなかった。
ただ、寒くなる力が出た、それだけのことに思えた。
でも。
◆
十六歳のとき、凜は一人でEダンジョンに潜った。
理由は単純だ。
家にいたくなかった。
家の中が静かすぎた。
両親の声が少なかった。
食卓で三人が座っても、話すことがなかった。
凜が何かを言っても、両親は上手く返せなかった。
凜も上手く返せなかった。
ダンジョンの方が、まだ音があった。
単独での潜行は当時まだEランク相当の実力しかなかった凜には危険だったが、それでも構わなかった。怖いというより、ダンジョンの冷えた空気が、凜の体温に近い感じがして、居心地がよかった。
三回目に潜ったとき、迷子になった。
今の蒼汰と同じように。
(あの日の私は、今の私より余裕がなかった)
行き止まりで背中を壁につけて、膝を抱えていた。
スキルを発動する気力もなかった。
ただ、冷たい床に座って、どうせ誰も来ないと思っていた。
そこに、人が来た。
白いコートの女性だった。
長い黒髪。藍色の切れ長な目。
その人は凜を見て、少し立ち止まった。
それから、何も言わずに、凜の隣に腰を下ろした。
「帰り方、わかる?」
「……わかりません」
「案内する」
それだけだった。
名前も聞かなかった。理由も聞かなかった。
ただ立ち上がって、出口まで先を歩いてくれた。
地上に出てから、凜はその人の名前を知った。
霧島澪。
当時すでにAランクに届いていた、業界で名の知られ始めていた冒険者。
凜はその背中が、ずっと頭から離れなかった。
(名前も聞かず、理由も聞かず、ただ連れ出してくれた)
(あの人は私に何も求めなかった。ただ、隣に座ってくれた)
凜が本格的に冒険者を目指したのは、それからだ。
「あの人みたいになりたい」という気持ちを、凜はうまく言葉にできない。
憧れとも違う。ただ、あの背中の方向に歩いていきたい、という感覚があった。
◆
ADRに協力するようになったのは、凜のスキルを「面白い」と言った篠宮冬芽に声をかけられたからだ。
「《氷幕》の通常使用者は広域展開が基本です。でも白瀬さんの使い方は逆で、極限まで絞る。そのアプローチは他に前例がない」
凜にとっては当たり前のことだった。
広く展開しても、当たらなければ意味がない。
一点に絞れば、外れにくい。
それだけの話だ。
でも、誰かに「面白い」と言われたのは、初めてだった。
(私はずっと、感情を表に出さない人間だと言われてきた。冷たいと言われてきた。それが楽だったから、そのままにしてきた)
(溶けない氷でいることが、私の守り方だった)
誰かと深く関わることが怖かった。
家族との間にある薄い壁を、他人との間にも作ることで、傷つかなくて済んだ。
◆
夜霧蒼汰のことを、最初に知ったのは協会の掲示板だった。
《影縫い》という名前が珍しかった。
それだけの理由でスキル診断の予約欄に目をとめた。
診断結果に「判定不能」と書かれていた。
(判定不能。珍しい)
そのとき興味を持ったのは、スキルに対してだけだ。人に対してではなかった。
でも。
ダンジョンで道に迷っているFランクを見つけたとき、凜の足は自然に動いていた。
(あの日の自分に、少し似ていたから)
違うのは、あいつは膝を抱えていなかった。
壁に背をつけて、考えていた。
諦めていなかった。
それがなぜか、少しだけ眩しかった。
昨日、蒼汰が言った。
「俺のスキルも最初は欠陥って言われた。でも凜さんの絞り方は、俺よりずっと先に行ってる気がします」
褒めるのが上手い人間は、嘘っぽく聞こえる。
でもあいつの言い方は、嘘っぽくなかった。
ただ、見えたことを言った。それだけだった。
私はそれに「ありがとう」と言えた。
……いつぶりだろう、素直に「ありがとう」と言えたのは。
窓の外が、少しずつ白んできた。
凜は布団から出て、ローブを羽織った。
今日も依頼がある。一人で行ってもよかったが。
(また依頼票が被るかもしれない)
そう思った自分に、凜は少し驚いた。
(被ったらいいな、と思っている)
それを認めることは、まだ少し難しかった。
でも否定するほど嘘でもなかった。
凜は右手から細い氷の針を一本出して、窓ガラスの霜の上に、ごく小さな線を引いた。何の形でもない、ただの線だ。でも凜が引いた、凜だけの線だった。
それで十分だった。
(溶けない氷でいることが守り方だった。でも)
(少しくらい、溶けてもいいのかもしれない)
夜明けの光が、部屋に差し込んできた。窓ガラスの氷の線が、光を受けてきらりと光った。
凜はそれを少しだけ見てから、目を逸らした。
恥ずかしかったからではない。
たぶん。
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