第12話「走れ、そして凜と行く」
アップするの忘れていました、。。。。。
朝五時五十分に公園に着いた。
協会の裏手にある小さな公園だ。
ベンチが三つ、古い鉄棒、砂場。
夜明け前の空はまだ紺色で、街灯が一本だけ灯っている。
蒼汰の吐く息が白かった。
槙はすでにいた。
ベンチに座って缶コーヒーを飲んでいた。蒼汰を見て「ちょうどいい時間だ」と言った。
「遅刻したらその日は終わり、でしたよね。ちゃんと来ました」
「当たり前だ。まず走れ」
「……え、準備運動とかは」
「走りながら体を温めろ。公園の外周を二十周。タイムは測らない。ただし歩くな」
(二十周……外周は百メートルくらいか。二キロだ。まあ走れる、と思う)
蒼汰は走り出した。
五周目で息が上がった。
十周目で脚が重くなった。
十五周目で視界が少しぼやけた。
二十周をなんとか走りきって、膝に手をついた。
槙は缶コーヒーを飲み終えていた。
「体力、終わってるな」
「……わかってます」
「スキルの前に体だ。体ができてなけりゃスキルも活かせない。どんなに頭のいい技を持っていても、発動する前に倒れたら意味がない」
(そのとおりすぎて何も言えない)
槙はベンチから立ち上がって、蒼汰の前に立った。
「今日から毎朝これをやる。走って、腕立て、腹筋、体幹。半月後に今日と比べてみろ。別人になってるから」
(半月……長い。でも)
(霧島さんに追いつくまでには、もっと長い時間がかかる。半月くらいどうってことない)
「わかりました。続けます」
槙は「よし」とだけ言って、腕立て伏せを始めた。
一人で。手本を見せるつもりらしかった。蒼汰もその隣に並んだ。
訓練一日目。
腕立て:十五回(限界)。腹筋:二十回(途中から悲鳴)。体幹:三十秒(崩れた)。
槙のコメント:「最弱スタートにしては、諦めなかったのは合格だ」
蒼汰の内心:(褒めてるのか貶してるのかわからない)
訓練が終わったのは七時を過ぎた頃だった。
全身が重かった。
特に腕が笑っていた。
でも、不思議と清々しかった。
「今日はここまでだ。協会に行くなら気をつけろ」と槙は言って、また缶コーヒーを飲み始めた。どこから出したのかわからない。
「槙さんは今日、依頼はないんですか?」
「午後からある。お前と一緒に行く」
「……え、一緒にですか?」
「お前のスキルを実戦で見てやる。ただし今日はお前が主体でやれ。俺は後ろで見てるだけだ。困ったときだけ手を出す」
(槙さん流の「見学しながら鍛える」方式か。プレッシャーがすごい)
「わかりました」
◆
午前中、蒼汰は一人で協会に向かった。
ロビーに入ると、依頼ボードの前に見覚えのある白銀の髪があった。
白瀬凜だ。
凜は依頼票を一枚手に持って、ボードを眺めていた。
蒼汰が近づくと、気配を察したのか振り向いた。目が合った。
「また会った」と蒼汰は言った。
「……そう」と凜は言った。
沈黙が来た。
でも昨日の廊下での無言とは少し違う、どことなく柔らかい沈黙だった。
蒼汰は依頼ボードを見た。
凜が持っている票の内容が少し見えた。
『E層・Dランク区画探索補助・単独不可』
(Dランク区画。そこにある依頼票か)
蒼汰も同じ区画の票を探した。
「E層・D区画・鉄皮蜥蜴調査×二箇所確認」という票があった。
ダクロ。六話で悠と鉢合わせした、あの毒持ちのDランク個体だ。
(Dランク区画に行くなら……凜さんと同じ方向だ)
「凜さん、その依頼、D区画ですよね」
「そう」
「俺もD区画に用があって。また同じ方向になりそうです」
凜はしばらく蒼汰を見た。それからぽつりと、
「……構わない」
と言った。
(前回は「同じ方向なだけ」だった。今回は「構わない」だ。一歩、近づいた気がする)
(気のせいかもしれないけど)
◆
E層のD区画は、通常区画より天井が高く、通路が広い。
代わりに照明の魔石が少ない。薄暗くて、足音が響く。
凜と並んで歩きながら、蒼汰はふと気になっていたことを聞いた。
「昨日、ADRで会いましたよね。凜さんはADRとどういう関係があるんですか」
凜は少し間を置いた。
「研究の協力者。私のスキルのデータを提供している」
「《氷幕》のデータですか」
「そう。《氷幕》は結界魔術の一種で、応用範囲が広い。ADRは結界系スキルに興味を持っていた」
「凜さんのスキルは珍しいんですか」
凜は少し考えてから、「珍しくはない。ただ、私の使い方が変わっているらしい」と言った。
「変わってる、というのは」
「通常の《氷幕》は広域展開が基本。でも私は範囲を極限まで絞って、点や線で使う。一センチの幅で氷の壁を作ったり、針のように細い氷柱を伸ばしたりする。それが普通の使い方と違うと言われた」
(極限まで絞る……それは確かに変わってる。でも)
「それってすごく強いんじゃないですか。精密な分、威力が集中する」
凜は蒼汰の方を、少しだけ見た。
「……そう思う?」
「思います。俺の《影縫い》も最初は欠陥って言われたんですけど、使い方を絞ることで戦術の幅が広がりました。凜さんの絞り方は、俺よりずっと先に行ってる気がします」
凜は少し黙っていた。
前を向いたまま、静かに歩いていた。
それからぽつりと、「ありがとう」と言った。
(凜さんが、ありがとうって言った)
(なんか……びっくりした。あんまり感情を表に出さない人なのに)
◆
D区画の奥で、ダクロを見つけた。
二体。前回見た個体より一回り大きい。
体長一・二メートル。
尾の先端がじりじりと揺れている。
(前回は一体に毒を喰らった。今回は二体か)
(でも今は凜さんがいる。そして俺は前よりも少し、できることが増えた)
「連携しますか?」
「あなたが影で動きを止めて、私が核を砕く。二体同時は難しいから、一体ずつ」
「了解です」
二体のうち、こちらの気配を察した一体が前に出てきた。
もう一体はまだ奥でうろうろしている。
蒼汰は踏み込んだ。
ダクロが毒液を飛ばしてくる。
今度は前回の轍を踏まない。
右に跳んで避けながら、ダクロの影を捉える。
「《影縫い》!」
固定。三秒。
凜が右手をすっと伸ばした。
「《氷幕》――針晶」
指先から、氷の針が一本、まっすぐに伸びた。
直径一センチ以下の細い氷柱が、ダクロの鱗の継ぎ目、首の根元に一点集中で突き刺さった。核が砕ける。ダクロが光の粒子になって消えた。
(針晶……一センチの氷針で核に直撃。これが「絞った」使い方か)
(きれいだ、と思った。無駄が何もない)
二体目は、一体目が消えた瞬間に逃走しようとした。
蒼汰は影を「剥がして」手の中に持ち、走りながらダクロの足元に這わせた。
「《影縫い》、二発!!」
逃走途中のダクロが縫い止められた。
凜の針晶が二本、連続で飛んだ。
一本がわずかに逸れたが、二本目が核を貫いた。
ダクロが消えた。
静寂。
蒼汰は肩で息をした。
今日は毒を喰らわなかった。
凜は手を下ろして、軽く息を整えていた。
「うまかった」
「凜さんの針晶の方がすごかったです」
「一本逸れた」
「でも二本目で仕留めた。俺は影で動きを止めることはできても、あんな精密な一撃は出せないです」
凜はしばらく蒼汰を見ていた。
(この人は、人の技を素直に褒める。同じ技を使っても、欠点より良かったところを先に言う)
(私はずっと、自分の「一本逸れた」ばかりを見ていた気がする)
「……次、行こう」
「はい」
二人の足音が、D区画の通路に並んで響いた。
◆
依頼達成後、出口まで戻る道で凜が口を開いた。
「夜霧は、なんで冒険者になったの?」
唐突な質問だった。
でも凜の声に「詮索したい」という雰囲気はなく、ただ純粋に知りたい、という感じがした。
「特に理由はなかったんです。なんとなく登録して、なんとなく始めた。でも」
蒼汰は少し考えてから続けた。
「最初の頃に、霧島澪さんに助けてもらって。『生きてるうちに強くなれ』って言われて。それから、理由ができました」
凜が足を止めた。
蒼汰も止まった。
振り返ると、凜が少し違う目をしていた。
いつもの感情の読みにくい目ではなく、何かを確認するような、真剣な目だった。
「霧島澪を、知っているの?」
「会ったことがあります。一回だけ。助けてもらいました」
凜はしばらく黙っていた。
「……そう」
それきり何も言わなかった。
でも歩き出すとき、その歩幅が少しだけ、蒼汰の方に寄った気がした。
(凜さんも霧島さんを知ってる。当然か、Sランクだもんな)
(でも、なんか……知り合いというより、もっと近い感じがした)
聞こうとして、やめた。
凜が話したいときに話してくれればいい、という気がした。
出口の階段を上りながら、蒼汰は気づいた。
今日、凜との会話がいつもより長かった。
前回は「案内は別に、同じ方向なだけ」だった。
でも今日は、凜の方から「研究の協力者」のことを話してくれた。
「なんで冒険者になったの」と聞いてくれた。
「ありがとう」と言ってくれた。
(少しずつ、近づいている気がする)
(それが嬉しいのかどうかは、よくわからないけど)
地上に出ると、槙が公園の前でコーヒーを飲んで待っていた。
蒼汰と凜を交互に見て、「お、仲間か」と言った。
蒼汰が「同行してもらいました」と答えると、槙は凜に目を向けて「《氷幕》の白瀬か。聞いたことある」と言った。
凜は「神楽槙。Bランクの格闘型」と言った。
「知ってるのか?」
「名前くらいは」
槙はにやっとした。
「よし、三人で飯でも食うか。今日の蒼汰の動き、二人に採点してもらおう」
(採点……!?)
凜は少し間を置いてから、「……構わない」と言った。
(また「構わない」だ)
(凜さんの「構わない」は、たぶん「行く」と同じ意味なんだろうな)
秋の夕方、三人で協会近くの定食屋に向かった。
蒼汰の影が、二人分の影に挟まれて、夕陽の中に伸びていた。
凜はその夜、部屋に帰ってから一人で考えた。
霧島澪に助けられて、「強くなれ」と言われた。
それだけで動ける人間がいる。
私は澪さんに何かを言われたわけじゃない。
ただ、遠くから見ていただけだ。
――でも夜霧蒼汰は、澪さんの言葉で変わった。
それが、少しだけ羨ましかった。
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