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最弱冒険者は、あの背中に手を伸ばしたい  作者: あっかんべー
第一章:最弱冒険者の再出発

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第9話「橘桜花は、今日も不機嫌じゃない」

現代でファンタジーを作るの難し過ぎませんかね?

皆さんどうしているの?

依頼ボードの前で、手が被った。


蒼汰が「E層・ガズ討伐×10体」の依頼票に手を伸ばした瞬間、右隣から別の手が同じ票を掴んだ。引っ張り合いになって、蒼汰が顔を向けると、橘桜花がいた。


二人で同時に手を離した。依頼票がひらりと床に落ちた。


「……被った」と蒼汰は言った。


「被った」と桜花も言った。


沈黙。


蒼汰は落ちた依頼票を拾って桜花に差し出した。


「橘さんが取ってください」


「いい。一緒に行く」


即答だった。


(速い。『別に』でも『どうせ』でもなく、今日は即答だった)


蒼汰はそれを一秒だけ意外に思ったが、深くは考えなかった。

「ありがとうございます」と言いかけて、桜花に「それを言うなって言ってる」と先回りされた。


「……じゃあ、よろしくお願いします」


「それでいい」


桜花は先に出口へ向かった。

蒼汰は受付機にカードをタッチしながら、今日の桜花は少し違う気がする、と思った。何がどう違うのかはうまく言えない。

ただ、いつもより少しだけ、近い気がした。


(気のせいかな)


(たぶん気のせいだ)



E層に入ると、桜花が少し前を歩いた。

蒼汰は半歩後ろ。

この距離感もいつもと同じだ。


「昨日、何かあった?」と蒼汰は何気なく聞いた。


「何かって?」


「なんか、今日は……ちょっと違う感じがして。なんとなく?」


桜花の背中が、一瞬だけぴくっとした。


「違わない」


「そうですか」


「違わないって言ってる」


(二回言った。違わない、を二回。絶対何かある)


(でも聞いたら怒られそうなので黙っておく)


蒼汰は「そうですね」と引き下がった。

桜花が前を向いたまま、小さく息を吐いたのが聞こえた。


(何かあったかと言われたら、まあ、あった。でも話すようなことじゃない)


(昨日、お母さんに「最近いい顔してるね」って言われただけだ。それだけの話だ)


(別に、誰かのせいで、とかじゃない。全然ない)


桜花は自分の右手に、じわりと熱が集まるのを感じた。

いつもの《炎拳》の感覚だ。

でも今日は特に発動させていない。

体が戦闘モードに入っていないのに、熱だけがある。


(……落ち着け、あたし)



ガズの討伐は順調に進んだ。


炎で影を作り、影で動きを縫い止め、炎で仕留める。

三日前に発見した連携だ。

二人の間に言葉は少ない。

でも動きは噛み合っている。


七体目を倒したとき、蒼汰が「ちょっと待ってください」と立ち止まった。


「何」


「試したいことがあって。一体、俺が単独でやっていいですか?」


桜花は少し眉を上げた。


「何を試すの?」


「影を……剥がせるようになったんです。昨日。まだ五秒しか維持できないけど、戦闘で使えるか確かめたい」


桜花はしばらく蒼汰の顔を見た。


「剥がす、って?」


「床から影を引き剥がして、手の中で形を作れる。まだ投げたりはできないけど」


(……何それ。それ、すごくない?)


桜花は顔に出さなかった。

ただ「わかった。後ろで見てる」とだけ言って、一歩引いた。


次のガズが通路に現れた。


蒼汰は踏み込まず、その場で右手を床に向けた。指先に意識を集める。


「《影縫い》――」


床の影を発動しながら、同時に「持ち上げる」。

影の端がめくれて浮き上がる。

三センチ、五センチ、手のひら一枚分。


蒼汰の手の中に、影の塊が浮いた。


ガズが蒼汰に向かって走ってきた。

蒼汰は影の塊を掴んだまま、ガズの影が届く距離まで引きつけた。

ガズの影と手の中の影が触れた瞬間、固定が発動した。


ガズの動きが止まる。


蒼汰は空いた左手の短剣で核を砕いた。


三秒。きっちり三秒で仕留めた。


床に触れずに。

影を手の中に持ったまま。

《影縫い》を、初めて「飛び道具」として使った。


蒼汰は手の中の影が霧散するのを見た。五秒で消えた。でも間に合った。


(……できた。使える)


後ろから桜花の気配がした。

振り返ると、桜花が蒼汰を見ていた。

いつもの無表情だ。

でも目が、いつもと少し違う。

なんというか、真剣な目だった。


「それ、速くなったら相当強い」と桜花は言った。


褒め言葉を、桜花が、蒼汰に言った。


(……え? 今、褒めてくれた?)


蒼汰が固まっていると、桜花はすぐにそっぽを向いた。


「残り三体、早く終わらせよ」


「……は、はい!」


(なんか急に恥ずかしくなってきた。俺が。なんで俺が恥ずかしいんだ)



残り三体を処理しようとしたとき、通路の奥から聞いたことのない音がした。


低い、唸るような音。犬でも猫でもない。もっと野性的で、熱を帯びた音だ。


蒼汰と桜花が同時に足を止めた。


通路の奥から、小さな影が現れた。


体長四十センチほど。

狼に似た体型だが、足は四本ではなく六本ある。

体の表面がうっすらと赤みがかっていて、息をするたびに口元から細い煙が漏れている。目は金色。尻尾が、じりじりと燃えている。


蒼汰は息を呑んだ。


(炎狼……フェネクスだ。C〜Bランクのモンスター。E層に迷い込んできた? でも……小さい。これ、幼体か?)


幼体であっても、フェネクスはC層相当の危険指定を受けている。

今の自分たちには早い。


「退く?」と蒼汰は小声で桜花に聞いた。


桜花は幼体のフェネクスをじっと見ていた。

フェネクスも二人を見ていた。

どちらも動かない。


フェネクスが、一歩前に出た。


桜花が、一歩前に出た。


(橘さん?!)


「やれる」と桜花は低く言った。


「幼体なら私の炎と相性がいい。炎属性同士は干渉しにくいから、あの子の炎ブレスを受けても私はそれほど消耗しない。蒼汰は影で動きを縫って、私が仕留める」


冷静な分析だった。

恐怖より戦術が先に出てきた桜花を、蒼汰は一瞬だけ格好いいと思った。


(言わないけど)


「わかった。やります!」


フェネクスの幼体が低く唸って、前足を踏み込んだ。


「《影縫い》!!」


蒼汰の影がフェネクスの影を捉えた。動きが止まる。三秒。


だが幼体は炎狼だ。

固定された瞬間、口から細い炎を吐いた。

床が燃えて光が増す。

蒼汰の影縫いが揺らいだ。


(光が増えた。影が乱れる――でも)


蒼汰は影を「剥がす」に切り替えた。

床の影ではなく、自分の手の中に影を引き剥がして、フェネクスの体の真下まで這わせる。


幼体の下に影が滑り込んだ。


「《影縫い》、二発目!!」


床の炎で影が乱れても、手元の影から直接縫い止める。

固定が、復活した。


桜花が踏み込んだ。


炎拳えんけん!」


拳がフェネクス幼体の核を直撃した。

光の粒子が舞い上がる。

幼体が弾けて消えた。


静寂。


蒼汰は膝に手をついて、大きく息を吐いた。

心臓がまだばくばくしている。

桜花は立ったまま、消えたフェネクスの場所をしばらく見ていた。


「橘さん、すごかったです。炎属性同士は干渉しにくいって、すぐ判断して…」


桜花は前を向いたまま、


「炎使いなら知ってて当然」


とだけ言った。


(またそっぽを向いた。でも今日は、耳が赤いのを確認できた。確認できてしまった)


(……やっぱり、言わないでおこう)



依頼達成後、二人で協会に戻った。

報告書を提出して、報酬を受け取る。

フェネクス幼体の討伐は依頼外だったが、「危険モンスター発見・撃退報告」として別途ボーナスが出た。二人合わせて一万二千円。蒼汰の取り分は六千円。最高記録だった。


帰り際、いつものように並んで出口に向かった。


自動ドアを抜けたところで、桜花が足を止めた。


蒼汰も止まった。


桜花はしばらく前を向いていた。

それから、ぼそっと言った。


「さっきの影、剥がすやつ」


「はい」


「炎で影が消えても、手元から縫い止め直した。あれ、今日初めてやったの?」


「……はい。フェネクスのブレスで影が消えた瞬間、反射的に」


桜花はしばらく黙っていた。


「……やっぱり面白いスキルだね、それ」


(また褒めてくれた。今日二回目だ)


(橘さん、なんか今日調子が違う。俺のことをよく見てる気がする。それとも俺が意識しすぎてるだけか?)


(……意識してる? 俺が?)


蒼汰はそこで思考を止めた。

なんか変な方向に考え始めた気がして、顔が少し熱くなった。


「ありがとう、ございます」


「だからそれを言うなって」


「すみません」


「謝るな」


「あ、はい」


桜花がため息をついた。

呆れたようなため息だったが、声に怒りはなかった。

むしろ、どこか。


(楽しそう、に聞こえたのは気のせいだろうか?)


桜花は踵を返して歩き出した。

いつもと同じ、振り返らない背中だ。


でも今日は、三歩行ったところで一度だけ振り返った。


「また明日」


それだけ言って、今度こそ歩き去った。


蒼汰はその背中を見ていた。


(また明日、って言った)


(橘さんが、また明日、って)


胸のどこかがほんのり温かくなった。

それが何なのかを考え始めて、またすぐに止めた。


(……ADRのこと、考えよう。来週火曜、篠宮さんに会う。それを考えよう)


蒼汰は夕暮れの空を見上げた。


自分の影が、オレンジ色の光の中で長く伸びていた。


影の端が、かすかに揺れた。


まるで、返事をするように。

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