第9話「橘桜花は、今日も不機嫌じゃない」
現代でファンタジーを作るの難し過ぎませんかね?
皆さんどうしているの?
依頼ボードの前で、手が被った。
蒼汰が「E層・ガズ討伐×10体」の依頼票に手を伸ばした瞬間、右隣から別の手が同じ票を掴んだ。引っ張り合いになって、蒼汰が顔を向けると、橘桜花がいた。
二人で同時に手を離した。依頼票がひらりと床に落ちた。
「……被った」と蒼汰は言った。
「被った」と桜花も言った。
沈黙。
蒼汰は落ちた依頼票を拾って桜花に差し出した。
「橘さんが取ってください」
「いい。一緒に行く」
即答だった。
(速い。『別に』でも『どうせ』でもなく、今日は即答だった)
蒼汰はそれを一秒だけ意外に思ったが、深くは考えなかった。
「ありがとうございます」と言いかけて、桜花に「それを言うなって言ってる」と先回りされた。
「……じゃあ、よろしくお願いします」
「それでいい」
桜花は先に出口へ向かった。
蒼汰は受付機にカードをタッチしながら、今日の桜花は少し違う気がする、と思った。何がどう違うのかはうまく言えない。
ただ、いつもより少しだけ、近い気がした。
(気のせいかな)
(たぶん気のせいだ)
◆
E層に入ると、桜花が少し前を歩いた。
蒼汰は半歩後ろ。
この距離感もいつもと同じだ。
「昨日、何かあった?」と蒼汰は何気なく聞いた。
「何かって?」
「なんか、今日は……ちょっと違う感じがして。なんとなく?」
桜花の背中が、一瞬だけぴくっとした。
「違わない」
「そうですか」
「違わないって言ってる」
(二回言った。違わない、を二回。絶対何かある)
(でも聞いたら怒られそうなので黙っておく)
蒼汰は「そうですね」と引き下がった。
桜花が前を向いたまま、小さく息を吐いたのが聞こえた。
(何かあったかと言われたら、まあ、あった。でも話すようなことじゃない)
(昨日、お母さんに「最近いい顔してるね」って言われただけだ。それだけの話だ)
(別に、誰かのせいで、とかじゃない。全然ない)
桜花は自分の右手に、じわりと熱が集まるのを感じた。
いつもの《炎拳》の感覚だ。
でも今日は特に発動させていない。
体が戦闘モードに入っていないのに、熱だけがある。
(……落ち着け、あたし)
◆
ガズの討伐は順調に進んだ。
炎で影を作り、影で動きを縫い止め、炎で仕留める。
三日前に発見した連携だ。
二人の間に言葉は少ない。
でも動きは噛み合っている。
七体目を倒したとき、蒼汰が「ちょっと待ってください」と立ち止まった。
「何」
「試したいことがあって。一体、俺が単独でやっていいですか?」
桜花は少し眉を上げた。
「何を試すの?」
「影を……剥がせるようになったんです。昨日。まだ五秒しか維持できないけど、戦闘で使えるか確かめたい」
桜花はしばらく蒼汰の顔を見た。
「剥がす、って?」
「床から影を引き剥がして、手の中で形を作れる。まだ投げたりはできないけど」
(……何それ。それ、すごくない?)
桜花は顔に出さなかった。
ただ「わかった。後ろで見てる」とだけ言って、一歩引いた。
次のガズが通路に現れた。
蒼汰は踏み込まず、その場で右手を床に向けた。指先に意識を集める。
「《影縫い》――」
床の影を発動しながら、同時に「持ち上げる」。
影の端がめくれて浮き上がる。
三センチ、五センチ、手のひら一枚分。
蒼汰の手の中に、影の塊が浮いた。
ガズが蒼汰に向かって走ってきた。
蒼汰は影の塊を掴んだまま、ガズの影が届く距離まで引きつけた。
ガズの影と手の中の影が触れた瞬間、固定が発動した。
ガズの動きが止まる。
蒼汰は空いた左手の短剣で核を砕いた。
三秒。きっちり三秒で仕留めた。
床に触れずに。
影を手の中に持ったまま。
《影縫い》を、初めて「飛び道具」として使った。
蒼汰は手の中の影が霧散するのを見た。五秒で消えた。でも間に合った。
(……できた。使える)
後ろから桜花の気配がした。
振り返ると、桜花が蒼汰を見ていた。
いつもの無表情だ。
でも目が、いつもと少し違う。
なんというか、真剣な目だった。
「それ、速くなったら相当強い」と桜花は言った。
褒め言葉を、桜花が、蒼汰に言った。
(……え? 今、褒めてくれた?)
蒼汰が固まっていると、桜花はすぐにそっぽを向いた。
「残り三体、早く終わらせよ」
「……は、はい!」
(なんか急に恥ずかしくなってきた。俺が。なんで俺が恥ずかしいんだ)
◆
残り三体を処理しようとしたとき、通路の奥から聞いたことのない音がした。
低い、唸るような音。犬でも猫でもない。もっと野性的で、熱を帯びた音だ。
蒼汰と桜花が同時に足を止めた。
通路の奥から、小さな影が現れた。
体長四十センチほど。
狼に似た体型だが、足は四本ではなく六本ある。
体の表面がうっすらと赤みがかっていて、息をするたびに口元から細い煙が漏れている。目は金色。尻尾が、じりじりと燃えている。
蒼汰は息を呑んだ。
(炎狼……フェネクスだ。C〜Bランクのモンスター。E層に迷い込んできた? でも……小さい。これ、幼体か?)
幼体であっても、フェネクスはC層相当の危険指定を受けている。
今の自分たちには早い。
「退く?」と蒼汰は小声で桜花に聞いた。
桜花は幼体のフェネクスをじっと見ていた。
フェネクスも二人を見ていた。
どちらも動かない。
フェネクスが、一歩前に出た。
桜花が、一歩前に出た。
(橘さん?!)
「やれる」と桜花は低く言った。
「幼体なら私の炎と相性がいい。炎属性同士は干渉しにくいから、あの子の炎ブレスを受けても私はそれほど消耗しない。蒼汰は影で動きを縫って、私が仕留める」
冷静な分析だった。
恐怖より戦術が先に出てきた桜花を、蒼汰は一瞬だけ格好いいと思った。
(言わないけど)
「わかった。やります!」
フェネクスの幼体が低く唸って、前足を踏み込んだ。
「《影縫い》!!」
蒼汰の影がフェネクスの影を捉えた。動きが止まる。三秒。
だが幼体は炎狼だ。
固定された瞬間、口から細い炎を吐いた。
床が燃えて光が増す。
蒼汰の影縫いが揺らいだ。
(光が増えた。影が乱れる――でも)
蒼汰は影を「剥がす」に切り替えた。
床の影ではなく、自分の手の中に影を引き剥がして、フェネクスの体の真下まで這わせる。
幼体の下に影が滑り込んだ。
「《影縫い》、二発目!!」
床の炎で影が乱れても、手元の影から直接縫い止める。
固定が、復活した。
桜花が踏み込んだ。
「炎拳!」
拳がフェネクス幼体の核を直撃した。
光の粒子が舞い上がる。
幼体が弾けて消えた。
静寂。
蒼汰は膝に手をついて、大きく息を吐いた。
心臓がまだばくばくしている。
桜花は立ったまま、消えたフェネクスの場所をしばらく見ていた。
「橘さん、すごかったです。炎属性同士は干渉しにくいって、すぐ判断して…」
桜花は前を向いたまま、
「炎使いなら知ってて当然」
とだけ言った。
(またそっぽを向いた。でも今日は、耳が赤いのを確認できた。確認できてしまった)
(……やっぱり、言わないでおこう)
◆
依頼達成後、二人で協会に戻った。
報告書を提出して、報酬を受け取る。
フェネクス幼体の討伐は依頼外だったが、「危険モンスター発見・撃退報告」として別途ボーナスが出た。二人合わせて一万二千円。蒼汰の取り分は六千円。最高記録だった。
帰り際、いつものように並んで出口に向かった。
自動ドアを抜けたところで、桜花が足を止めた。
蒼汰も止まった。
桜花はしばらく前を向いていた。
それから、ぼそっと言った。
「さっきの影、剥がすやつ」
「はい」
「炎で影が消えても、手元から縫い止め直した。あれ、今日初めてやったの?」
「……はい。フェネクスのブレスで影が消えた瞬間、反射的に」
桜花はしばらく黙っていた。
「……やっぱり面白いスキルだね、それ」
(また褒めてくれた。今日二回目だ)
(橘さん、なんか今日調子が違う。俺のことをよく見てる気がする。それとも俺が意識しすぎてるだけか?)
(……意識してる? 俺が?)
蒼汰はそこで思考を止めた。
なんか変な方向に考え始めた気がして、顔が少し熱くなった。
「ありがとう、ございます」
「だからそれを言うなって」
「すみません」
「謝るな」
「あ、はい」
桜花がため息をついた。
呆れたようなため息だったが、声に怒りはなかった。
むしろ、どこか。
(楽しそう、に聞こえたのは気のせいだろうか?)
桜花は踵を返して歩き出した。
いつもと同じ、振り返らない背中だ。
でも今日は、三歩行ったところで一度だけ振り返った。
「また明日」
それだけ言って、今度こそ歩き去った。
蒼汰はその背中を見ていた。
(また明日、って言った)
(橘さんが、また明日、って)
胸のどこかがほんのり温かくなった。
それが何なのかを考え始めて、またすぐに止めた。
(……ADRのこと、考えよう。来週火曜、篠宮さんに会う。それを考えよう)
蒼汰は夕暮れの空を見上げた。
自分の影が、オレンジ色の光の中で長く伸びていた。
影の端が、かすかに揺れた。
まるで、返事をするように。
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