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最弱冒険者は、あの背中に手を伸ばしたい  作者: あっかんべー
第一章:最弱冒険者の再出発

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第8話「影が、剥がれた夜」

夜の九時を過ぎると、蒼汰の部屋は静かになる。


六畳一間。中古の折りたたみテーブル。

押し入れに突っ込んだままの段ボール。

壁に貼ったメモ用紙には、ここ数日で気づいた《影縫い》の挙動が箇条書きで並んでいる。


影と影が「接触」すれば発動。

距離の上限は曖昧。

炎などの光源があると影の形が変わり、固定が乱れる。

意識を集中すると、影の端を「伸ばせる」――最大十五センチほど。

感情が高ぶったとき、意識せず影が動いた。


蒼汰はそのメモを見ながら、常夜灯だけをつけて壁に向き合った。


(今日は少し違うことを試す)


これまでは「伸ばす」だけだった。

糸を引き延ばすイメージで、影の端を遠くに届かせる練習をしてきた。

それは少しずつできるようになってきた。


でも今日試したいのは、もう一段先だ。


(伸ばすんじゃなく、「持ち上げる」)


影は床や壁に貼り付いている。

光がある限り、物体の表面から離れない。

それが影の「常識」だ。

でも《影縫い》は影を「縫う」スキルだ。

縫うということは、針が布を貫通するということ。

貫通するなら、「持ち上げる」こともできるはずだ。


(根拠はない。ただの感覚だ。でも)


右手を床にかざした。手の影が床に落ちる。


影縫いを発動しながら、「持ち上げる」イメージで力を込めた。

指を、ゆっくりと、上に向けて動かす。



最初の三回は何も起きなかった。

ただ影が三秒止まって、クールタイムが明けて、また止まって、それだけだった。


(やっぱり無理か)


四回目。影の「根っこ」を意識する。

床に張り付いている根っこを、引き剥がすイメージで。

発動。集中。引き剥がす。何も起きない。


五回目。六回目。七回目。


八回目、蒼汰の指が上を向いた瞬間。


影が、揺れた。


床に張り付いていた蒼汰の手の影が、端っこからめくれるように浮き上がった。

一センチ。二センチ。

まるで古いシールを慎重に剥がしていくみたいに、影の輪郭がゆっくりと床から離れていく。


蒼汰は息を止めた。


手を、もう少し上に持ち上げる。


影が、ついてきた。


床から完全に剥がれた影が、蒼汰の手のひらの上に乗っていた。

固体でも液体でもない。

ぬるりと冷たくて、触れているのに重さがない。

指を動かすと、影も形を変える。

蒼汰の意志に、完全に従っていた。


(……嘘だろ)


心臓がうるさかった。


(影が、浮いてる。俺の手の中に)


怖いとは思わなかった。

それよりもっと大きな感情が、胸の中でぐわんと広がった。

名前をつけるなら「興奮」だし「歓喜」だし「確信」だ。

全部一緒くたになって、目の裏がじんとした。


(やっぱり……お前はこんなものじゃなかった)


欠陥スキルと言われた。

影を三秒固定するだけ、と言われた。成長可能性・判定不能、と書かれた。


でも今、蒼汰の手の中に、重力を無視した影の塊がある。


(これを武器にできたら。投げたり、伸ばしたり、形を変えたりできたら)


可能性が、頭の中で弾けるように広がっていく。



ただし。


五秒後、影は空中でぱっと霧散した。


蒼汰の手の中に何も残らない。

床を見ると、自分の影はちゃんと戻っている。

まるで何事もなかったように。


(五秒。維持できたのは五秒だけか)


もう一度試した。

また剥がれた。

また五秒で消えた。

三度試した。今

度は集中を強めてみた。


六秒、持った。


(維持時間は、意識次第で伸ばせる。でも今は五〜六秒が限界だ)


それでも十分だった。

剥がした影を「投げる」ことは今夜はまだできなかった。

形を変えようとしてもぼんやりと崩れるだけで、思い通りにはならない。

でも「剥がす」こと自体はできるようになった。


(まずは剥がすことができた。次は形を作る。その次は投げる。その次は――)


考え始めたら止まらなくなって、気づいたら零時を過ぎていた。


蒼汰はメモ用紙に一行書き加えた。


「影を『剥がす』ことができた。手のひらサイズ。維持五〜六秒。形・投擲とうてきは未達。」


ペンを置いて、天井を見上げた。


(霧島さんに追いつくまで、まだ遠い。でも)


(今夜、俺は一段だけ近づいた気がする)



翌朝、スマホに着信が入っていた。


番号は知らない。でも発信元の表示には「ADR・渋谷連絡所」と出ていた。


出ると、落ち着いた男の声がした。


「夜霧蒼汰さんですか。私、ADR第三研究部の篠宮冬芽しのみやとうがと申します。来週火曜の再診断の件でご連絡を。ご都合はよろしいでしょうか」


「はい、大丈夫です」


「よかった。一点だけ確認させていただきたいのですが」


篠宮は少し間を置いた。

まるで言葉を選んでいるような間だった。


「最近、スキルに何か……通常と異なる挙動はありましたか。たとえば発動条件の変化とか、スキルが意図しない形で出たとか」


(なんで知ってるんだ?)


蒼汰の背筋を、細い緊張が走った。

自分が昨夜影を剥がしたことは、誰にも話していない。

なのに篠宮の問いは、まるでそれを知っているような言い方だった。


「……少し、ありました」と蒼汰は慎重に答えた。


「そうですか」と篠宮は言った。

声のトーンが、わずかに変わった。

「では火曜日、楽しみにしています。詳しいお話を聞かせてください」


電話が切れた。


蒼汰はスマホをじっと見た。


(ADRは……俺のスキルの何を、知っているんだろう)


窓の外、朝の光が入ってきた。床に蒼汰の影が伸びる。いつも通りの、普通の影だ。


でも蒼汰は昨夜知った。


この影は、剥がれる。

お読みいただきありがとうございます。

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