第8話「影が、剥がれた夜」
夜の九時を過ぎると、蒼汰の部屋は静かになる。
六畳一間。中古の折りたたみテーブル。
押し入れに突っ込んだままの段ボール。
壁に貼ったメモ用紙には、ここ数日で気づいた《影縫い》の挙動が箇条書きで並んでいる。
影と影が「接触」すれば発動。
距離の上限は曖昧。
炎などの光源があると影の形が変わり、固定が乱れる。
意識を集中すると、影の端を「伸ばせる」――最大十五センチほど。
感情が高ぶったとき、意識せず影が動いた。
蒼汰はそのメモを見ながら、常夜灯だけをつけて壁に向き合った。
(今日は少し違うことを試す)
これまでは「伸ばす」だけだった。
糸を引き延ばすイメージで、影の端を遠くに届かせる練習をしてきた。
それは少しずつできるようになってきた。
でも今日試したいのは、もう一段先だ。
(伸ばすんじゃなく、「持ち上げる」)
影は床や壁に貼り付いている。
光がある限り、物体の表面から離れない。
それが影の「常識」だ。
でも《影縫い》は影を「縫う」スキルだ。
縫うということは、針が布を貫通するということ。
貫通するなら、「持ち上げる」こともできるはずだ。
(根拠はない。ただの感覚だ。でも)
右手を床にかざした。手の影が床に落ちる。
影縫いを発動しながら、「持ち上げる」イメージで力を込めた。
指を、ゆっくりと、上に向けて動かす。
◆
最初の三回は何も起きなかった。
ただ影が三秒止まって、クールタイムが明けて、また止まって、それだけだった。
(やっぱり無理か)
四回目。影の「根っこ」を意識する。
床に張り付いている根っこを、引き剥がすイメージで。
発動。集中。引き剥がす。何も起きない。
五回目。六回目。七回目。
八回目、蒼汰の指が上を向いた瞬間。
影が、揺れた。
床に張り付いていた蒼汰の手の影が、端っこからめくれるように浮き上がった。
一センチ。二センチ。
まるで古いシールを慎重に剥がしていくみたいに、影の輪郭がゆっくりと床から離れていく。
蒼汰は息を止めた。
手を、もう少し上に持ち上げる。
影が、ついてきた。
床から完全に剥がれた影が、蒼汰の手のひらの上に乗っていた。
固体でも液体でもない。
ぬるりと冷たくて、触れているのに重さがない。
指を動かすと、影も形を変える。
蒼汰の意志に、完全に従っていた。
(……嘘だろ)
心臓がうるさかった。
(影が、浮いてる。俺の手の中に)
怖いとは思わなかった。
それよりもっと大きな感情が、胸の中でぐわんと広がった。
名前をつけるなら「興奮」だし「歓喜」だし「確信」だ。
全部一緒くたになって、目の裏がじんとした。
(やっぱり……お前はこんなものじゃなかった)
欠陥スキルと言われた。
影を三秒固定するだけ、と言われた。成長可能性・判定不能、と書かれた。
でも今、蒼汰の手の中に、重力を無視した影の塊がある。
(これを武器にできたら。投げたり、伸ばしたり、形を変えたりできたら)
可能性が、頭の中で弾けるように広がっていく。
◆
ただし。
五秒後、影は空中でぱっと霧散した。
蒼汰の手の中に何も残らない。
床を見ると、自分の影はちゃんと戻っている。
まるで何事もなかったように。
(五秒。維持できたのは五秒だけか)
もう一度試した。
また剥がれた。
また五秒で消えた。
三度試した。今
度は集中を強めてみた。
六秒、持った。
(維持時間は、意識次第で伸ばせる。でも今は五〜六秒が限界だ)
それでも十分だった。
剥がした影を「投げる」ことは今夜はまだできなかった。
形を変えようとしてもぼんやりと崩れるだけで、思い通りにはならない。
でも「剥がす」こと自体はできるようになった。
(まずは剥がすことができた。次は形を作る。その次は投げる。その次は――)
考え始めたら止まらなくなって、気づいたら零時を過ぎていた。
蒼汰はメモ用紙に一行書き加えた。
「影を『剥がす』ことができた。手のひらサイズ。維持五〜六秒。形・投擲は未達。」
ペンを置いて、天井を見上げた。
(霧島さんに追いつくまで、まだ遠い。でも)
(今夜、俺は一段だけ近づいた気がする)
◆
翌朝、スマホに着信が入っていた。
番号は知らない。でも発信元の表示には「ADR・渋谷連絡所」と出ていた。
出ると、落ち着いた男の声がした。
「夜霧蒼汰さんですか。私、ADR第三研究部の篠宮冬芽と申します。来週火曜の再診断の件でご連絡を。ご都合はよろしいでしょうか」
「はい、大丈夫です」
「よかった。一点だけ確認させていただきたいのですが」
篠宮は少し間を置いた。
まるで言葉を選んでいるような間だった。
「最近、スキルに何か……通常と異なる挙動はありましたか。たとえば発動条件の変化とか、スキルが意図しない形で出たとか」
(なんで知ってるんだ?)
蒼汰の背筋を、細い緊張が走った。
自分が昨夜影を剥がしたことは、誰にも話していない。
なのに篠宮の問いは、まるでそれを知っているような言い方だった。
「……少し、ありました」と蒼汰は慎重に答えた。
「そうですか」と篠宮は言った。
声のトーンが、わずかに変わった。
「では火曜日、楽しみにしています。詳しいお話を聞かせてください」
電話が切れた。
蒼汰はスマホをじっと見た。
(ADRは……俺のスキルの何を、知っているんだろう)
窓の外、朝の光が入ってきた。床に蒼汰の影が伸びる。いつも通りの、普通の影だ。
でも蒼汰は昨夜知った。
この影は、剥がれる。
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