―第95章― 千夏が1月を生き永らえる為の鈴の「心躍」
隼人の機転の利いた申し出と死神の承諾のお陰で、決勝戦を前にした僅か10分間の貴重な休息を得ることができた。
疲労感と高揚感がまだ身を漂っている。
相反する2つの感覚が血管の中で火花を散らす。
私が勝てたんだ。
まだ、実感が湧かない。
「まず、身体全体の力を抜いて。目を閉じて」
耳元に届く想空の声は、いつになく穏やかで、それでいて確かな専門的知識に裏打ちされていた。
想空の指示に従って、自律神経を瞬時に整えるメソッドを実践していく。
深く、深く、肺の奥まで空気を送り込む。
吐き出す息と共に、筋肉の強張りが僅かに解けていくのを感じた。
高揚を抑えるように、深呼吸をして再びコートに舞い戻る。
視界はずっと冴えていて、自分でも恐ろしくなるほどに五感が研ぎ澄まされていた。
対戦相手の僅かな視線の揺らぎ、指先の微細な震えまでがスローモーションのように詳細に網膜に焼き付いていく。
プレーはまさに絶好調。
理恵とのコンビネーションも神がかっていた。
理恵の繰り出す鋭いバックドライブは次々と決まり、あんなに長く感じていた試合が瞬きする間もなくあっという間に過ぎていく。
昔話の天狗の隠れ蓑に出てきた遠見のもののように、遠くの観客一人一人の表情までもが鮮明に映る。
隣で共に戦う理恵の、確かな信頼を捉えた横顔。
この一瞬、コンマ一秒の煌めきすら愛おしくてたまらない。
そして最後の1点。
緩やかに弧を描いて放たれたサーブに対し、私は迷わずフォアのスマッシュを叩き込んだ。
過去のどんな記憶を掘り起こしても比較にならないほど、それはあまりに鮮烈で、清々しい一打だった。
もし私が負けた側だったなら、この一打は魂を無慈悲に引き裂くほどの絶望の一撃に映っただろう。
目の前で、スマッシュが抜けていき、勝負が決してしまうその瞬間は残酷で、痛い。
「あの時、もっと踏ん張れば返せたのではないか」
後々、何度も思い返し、後悔に苛まれる一打を、私は放ってしまった。
けれど、その瞬間の私の心に一点の曇りもなかった。
間違いなく、これまでの人生で最高に気持ちのいい一打だった。




