―第94章― 千夏が1月を生き永らえる為の理恵の「微光」
敗北を目前にして、さらに五感が開けてくる。
「右。左。右。右。左」
奥から震え立つような声で、的確に相手コートの空きを告げる声が聞こえた。
喧騒の合間に薄く、しかし、はっきりとした声。
これで声の通りに打ち分ければ、コースを見極めることに使っていた脳のストレージをプレーの正確性に全振りすることができる。
「会場の奥の声に注目して」
丁度、回ってきた私のサーブの番でサーブの出し方を話し合う振りをして鈴に伝える。
一瞬、驚いたように口をぽかんと開けて、その後に「分かった」と頷いた。
意味が伝わったかどうかは分からない。
けれども、鈴は私の言葉を信じて、頷く。
ならば、その微かな声が鈴の耳に届いてくれることを祈るだけ。
球を高く投げ出して、対角線側のコートにフォアで鋭い横回転をかけて打ち込む。
成功率2割程度の、私にとって高難易度の技。
1回でもミスったら負けるのに、私は賭けてみたくなってしまった。
その球は相手コートで変な方向にバウンドする。
できた。
安心と興奮が胸を高鳴らせていく。
「左」
緩く高く返ってきた球に対して、その声がまた空きを告げた。
鈴はその声に従って、左際にフォアドライブを打ち込む。
10-10.
得点を順調に重ねていき、同点に迫る。
「マッチです」
2点差がつくまでこの試合は続く。
追い詰められている状況は私達も相手も変わらない。
その声に従って、私達は必死にラケットを振るう。
難しいコースに返されても、有効な攻撃手段だったはずのものが返球されても、相手のスマッシュに圧倒されても、私はまだ勝利の可能性があるからと、挫けない。
「決まれ」
身体に蓄積されていた全ての力を出し切って、バックドライブを振った。
強い祈りをこめて、力一杯に。
もし、これが失敗したら、打ち返されたら、私はもうラケットを振るえない。
疲労はとっくに限界を超えていた。
振るった手つきのまま私は、恐怖で、つい目を瞑った。
お願い。
球がバウンドした音が聞こえたと同時に、会場に歓声が鳴り響いた。
恐る恐る、目を開ける。
「やったよ。勝ったんだよ」
鈴からは漲んばかりの喜びが溢れ出て、額に噴き出した汗は美しかった。
理屈でも、奇跡でもない。
私達はどうせ、奇跡は起こせない。
この勝利は努力と絆の称号。
歓声の中、あの声の先を見つめると、そこには死神の姿があった。
予想の線がふっと途切れて、呼吸が浅くなる。
そっか。
死神さんだったんだ。
「ありがとう」
心の内で小さく呟いた。




