―第110章― 大切なものを失わない為の死神の「憶念」
現在から100年前の大正時代、俺は中村黎治という名で、ごく平凡なサラリーマンの生活を送っていた。
両親は早くに亡くし、遠い親戚の手によって育てられた。
その親戚に迷惑をかけたくないという気持ちもあり、当時としてはごく平凡なキャリアである商業学校を卒業後、社員20人ほどの中小企業に事務兼営業として就職。
仕事は地味で、誰かに褒められることもなく、日々は過ぎていった。
死因は過労による倒れ込み。
誰にも迷惑をかけず、俺は静かに最期を迎えた。
享年31歳。
坂本龍馬が近江屋事件で暗殺された年齢と同じ。
あともう少し長く生きていれば日本をもっといい方向に変えられたかもしれない。
彼の死を語る時、人々は「若く死んだことが惜しい」と必ず言う。
だが、同い年で死んだ私にその言葉をかけてくれる者はいなかった。
交友関係も乏しく、身寄りはその育ての親戚だけで俺は特別いい子だった訳でもない。
俺の人生は、いったい何だったんだろう。
自分の会社への献身的な態度は何の意味も持たず、数年後にはその会社も潰れていた。
煮え切らない怒りをその時の死神にぶつけた。
そいつは俺を鼻で笑って、「じゃあ意味のある死後の余生を過ごせばいい」と言った。
その言葉に挑発されて、俺は真面目にも一生懸命に勉強し、誰にも必要とされなかった人生を今度こそ変えたい一心で、選挙活動に取り組み、死神職を勝ち取ってしまった。
勝った瞬間は喜びよりも意外性だけが胸に溜まった。
自分に選挙で人々から投票されるほどの価値があるのだと、こんな大きなことを成し遂げられるのだという意外性。
そして、この50年、抗う死者を収めるという息が詰まる業務もこなし、生前の31年間と比べ物にならないほど恵まれた時間を歩み、人に感謝されてきた。
それで、俺は十分に満足なはずだった。
苦労の末、わざわざ得たこの幸せを自ら手放すような真似をするとは夢にも思っていなかった。
けれど、千夏に会って、5人に出会って、私は思い出してしまった。
死神になった翌日、下界に行くと、私の死骸はそのまま骨として放置されていた。
誰にも気づかれずに、誰にも必要とされずに、ただただ死んだという事実だけが転がる。
消え去ったと思っていたあの時の悔しさと屈辱がまだ胸の奥に残っていた。
だからこそ、千夏の死を見過ごせなかった。
俺と違い、千夏には5人の仲間がいた。
まだ、屈辱で生者の時間が終わるのを免れる状態にあり、その権限が俺の手の中にあった。
完璧すぎるほどに俺の出したミッションを達成して、誇らしげな顔をしていた彼らに、「延命はできない」なんていう決断ができるはずがなかった。
想空の好奇心に呆れながらも笑ってしまった。
隼人の責任感に胸が痛んだ。
飛鷹の真っ直ぐさに羨望を覚えた。
鈴の勇気と優しさに救われた。
理恵の静かな強さに惹かれた。
千夏の弱さを持ち合わせながらも、不器用に強がる姿。
人間の弱さに俺は惚れてしまった。
死神の職務として延命は6カ月まで、それ以上は許されていなかった。
けれども、やろうと思えばどうにかバレずに済むのではという邪念と共に、心がそれを拒んだ。
しかし、ロべス・ウィリアムにそれはバレ、そのせいで4人が戦闘不能状態になり、千夏の護衛であった理恵も倒れる寸前。
自らの弱さと向き合い、試行錯誤し、精一杯に一生懸命に抗う彼ら。
次は俺の番だ、と。
深く息を吸い込み、50年前、本物の神に託された鏡を開いた。
その途端、凄まじい光が放たれ、特別な力がこの手に籠る。
心は酷く冷静で、落ち着いていた。
私は、延命は6カ月までという原則を破り、輪廻転生と引き換えに千夏の100年の延命の権限を行使した。
俺は、死神失格だ。
それでも、この決断に後悔はなかった。
息をゆっくりと吸い込み、吐き出す。
鈴木隼人。
飛鷹迅。
遊馬想空。
穂積鈴。
森田理恵。
一ノ瀬千夏。
弱いままでいい。
君なりに生きろ。
魔女の鍋の色のような不気味な光の中へ、俺はゆっくりと飛び込んだ。




