ただよう
「えぶねについてだったかな……」
「え、ぶね?」
全く聞いたことのない響きに。
間の抜けた声で。
そのまま復唱した私。
「ああ、さすがに若い方はご存知ないでしょうな。一言で言うと、漂泊の民ですな」
「ひょうはくのたみ?」
眉を寄せて。
首をかしげる私。
「ああ、あれですか? サンカと同じですか? 定住しないで漂泊した」
膝を叩いて。
一人合点しているけんくん。
「ええ。サンカが山の民とするならば。えぶねは海の民、とでも言いましょうか。家船は家の船と書きます」
畑さんは。
指先を宙で動かして。
文字を描く。
「そうなんだよ。ゆうさん。昔、瀬戸内各地には家を持たずに、船上で生活していた人々がいたんだ」
「へえー」
サンカのことは知ってたけど。
家船の人々のことは。
初めて聞いた。
それより。
けんくんの。
見識の広さにも驚いた。
「先輩は、なんでそんなこと調べてたんだろう」
独り言のように。
口ずさむけんくん。
「さあ、そこまではさすがに聞いておりません」
畑さんは。
腕時計に視線を落とす。
「じゃあ、そろそろ失礼します。何か分かったらご連絡差し上げます」
「はい。ありがとうございます」
「よろしくお願いします先生」
「明後日まで滞在されるのでしたね。それまでに何か分かればよいですが、まあ、これからも、ひとつよろしく」
畑さんは手を差し出した。
「はい!」
けんくんは。
その手を両手で握り返していた。
「こちらこそです」
触れた手は。
シワシワだけど。
力強くて。
あったかかった。
ホテルの玄関まで。
畑さんを見送った。
白雨の中。
傘を差して。
ちょこちょこと歩きながら。
車に乗り込むまで。
何度も振り返ってくれた。
私は深々と頭を下げた。
「いい人だったね」
「ええ。とても」
隣で頭を上げたけんくん。
チラリと私を見て微笑んだ。
「初めて会う僕たちにもすごく丁寧でした。嘘をついたのが、心苦しいくらいです」
「あっ、ごめんね、私のために。その、ありがとうございます」
「いえいえ、そういう意味で言ったんじゃないですから。って。結構、時間経ちましたね」
私はスマホの時計を見る。
16時を少し回ったところ。
「ほんとだ」
「で。どうしますか? 彼に連絡してみますか?」
ぴりぴりと。
髪の毛先まで震える私。
「え!? したいけど、いきなりしたら、ストーカーって想われないかな」
「まあ、確かに」
したり顔のけんくん。
「否定してよ」
膨れる私。
「え!? どこに否定要素ありますか」
「ないから。否定してよ」
けんくんの二の腕を。
人差し指でつつく。
「はい?」
語尾が跳ねて。
まゆ毛も上がるけんくん。
「そんなことないよって。相手も本名教えたんだから、脈あるかもよとか」
「なるほど」
腕をさすりながら。
うなずく、けんくん。
「そう。女の子はそういうもの」
「ん? そうじゃなくて本名だったんですね。彼」
ガクッと。
膝が抜けそうになる私。
「とりあえず、部屋に行きましょうか」
「はいはい。そうしましょ」
女心はおいてけぼり。
私はとぼとぼと。
けんくんの後をついていく。
エレベーターに乗って。
押されたボタンは二階。
キン。
高い音が。
ドアを開けて。
けんくんは。
迷わず左に。
長い廊下。
左側に部屋が並んでいる。
右手の窓の向こうは。
白く煙る。
墨絵の中のような世界。
「ここですね」
部屋は一番奥の角部屋。
201号室。
ん?
「けんくん。私の部屋の鍵は?」
「は?」
「ん?」
「ここですよ」
「ああ。じゃあ、けんくんが隣の部屋なんだ」
「は?」
「ん?」
「部屋は一緒ですが、何か問題でも?」
「え……!?」
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