黒蝕は待ってはくれない
帰りの馬車の中で、クレアが言った。
「エリシア様、今日の殿下、いつもと違いませんでしたか?」
「そうかしら」
「なんか……こう、わざわざ来た感じがしました。エリシア様のところに」
「気のせいでしょう」
「気のせいじゃないと思います。私の恋愛センサーが反応しました」
「あなたのセンサーの精度を信じていいのかしら」
「‥か、かなり高精度です」
少し間があった。
「……参考にするわ」
クレアが目を輝かせた。
「本当ですか!」
「参考にするだけよ」
「でも今まで参考にもしてくれなかったじゃないですか!」
「うるさい」
「やったー」
馬車の中で、クレアが小さくガッツポーズをした。
私は窓の外を見た。
殿下が「大事なことだ」と言った時の声が、まだ頭に残っていた。
婚約者として、という補足がついていた。
でも。
なぜかその補足が、どうでもよかった。
その日の夜、クロード教授から手紙が届いた。
短い手紙だった。
「明日、来てください。急ぎの話があります。」
嫌な予感がした。
翌日。
研究室に入ると、教授は窓際に立っていた。
いつもの猫背ではなく、背筋が伸びていた。
前に一度見た姿勢だ。
大事な話をする時の姿勢だ。
「座りなさい」
座った。
教授が振り向かないまま言った。
「最新の観測値が出ました」
「どうでしたか」
「悪い意味で、予測を上回っています」
少し間があった。
「どれくらい」
「今のペースだと、黒蝕の発生は来年の秋か冬」
来年の秋か冬。
婚約破棄の予定は、来年の春だ。
つまり。
婚約破棄の後、すぐに黒蝕が来る。
間がない。
「……準備期間が」
「あなたが想定していたより、半年短い」
半年。
第二段階は完全習得した。
禁術の理論も、ある程度は固まっている。
でも。
マリアとの術式研究は、まだ五割の確率だ。
「マリアとの研究を、加速させます」
「そのために呼びました。俺も手伝えることがあれば、する」
「先生が直接?」
「聖女の浄化と禁術の相性について、俺が一番知っています。二人だけで進めるより、速い」
私は少し間を置いた。
「……ありがとうございます」
「礼は後でいい。まず動きましょう」
帰り道。
ゼファーと並んで歩きながら、今日聞いたことを整理した。
来年の秋か冬。
学院を卒業するのは、来年の春。
婚約破棄が、来年の夏か秋の予定。
黒蝕と、ほぼ同時だ。
「ゼファー」
「なんだ」
「昨日の式典で、殿下に私が三時起きてたことを話したでしょう」
ゼファーが少し間を置いた。
「……報告の一部として」
「必要な報告でしたか」
「護衛対象の健康状態は、報告事項だ」
「細かすぎる」
「細かくない」
「殿下に叱られた」
「……叱られたのか」
「叱られてはいない。ただ、無理をするなと言われた」
ゼファーが少し黙った。
「……殿下は、正しい」
「あなたが言いますか」
「俺も同じことを言っている」
「言っていない」
「言っている。毎朝言っている」
私は少し考えた。
「……言っているかもしれない」
「言っている」
「分かった。気をつける」
「今日の顔色は悪くない」
「朝食にパンを一枚多く食べたから」
「リュカか」
「そう」
ゼファーが少し、口元を動かした気がした。
「……あいつは、正しいことをする」
「そうね」
ベッドに入る前に、少し考えた。
来年の秋か冬。
時間は、ある。
少ない。でも、ある。
やることは、決まっている。
マリアとの研究を加速させる。
術式の精度を上げる。
代償を一つに抑える確率を上げる。
怖い、かと聞かれたら確かに怖い。
でも今日、式典で殿下に「無理をするな」と言われた。
「大事なことだ、俺には」と言われた。
その言葉を。
消える前に、ちゃんと受け取った。
受け取れた。
それだけで、今夜は十分だ。
目を閉じる。
春の夜は、温かい。
エリシアは、知らなかった。
殿下が未来視を使ったことを。
陣の中に入るつもりでいることを。
代償を、分けるつもりでいることを。
「大事なことだ、俺には」という言葉の、本当の重さを知らなかった、だから。
その言葉を、普通に受け取った。
温かい言葉として受け取れた。
それだけで、今夜は十分だった。




