時が過ぎるのは早い
学院の三年目の春は、忙しかった。
進級試験。
魔法の実技審査。
クロード教授との研究。
レオナルドとの情報交換。
マリアとの術式研究。
全部、同時に進んでいた。
一日が足りない、と思うことが増えた。
それでも。
「エリシア、顔色が悪い」
「そう?」
「そう。クマができてる」
リュカが朝食のテーブルで言った。
「昨夜、少し遅くまで読んでいただけよ」
「何時まで」
「……三時くらい」
「それは顔色が悪くなる」
「大丈夫よ」
「大丈夫な顔じゃない」
リュカが、自分の皿からパンを一切れ取って、私の皿に乗せた。
「食べると少し元気出るよ。根拠はないけど」
「根拠のないことを言わないで」
「俺の経験則では、食べると元気が出る」
「それは誰でもそうでしょう」
「じゃあ食べて」
押し問答をしながら、パンを食べた。
クレアがくすくす笑っていた。
マリアが温かい飲み物を足してくれた。
普通の朝だ。
普通の朝が、今は一番ありがたい。
進級試験は、問題なかった。
実技審査で、少し驚かれた。
浄化魔法の第二段階を、審査官の前で完全に発動した。
審査官が三人、顔を見合わせた。
「……ヴァレンシュタイン令嬢、これは」
「基礎的な浄化です」
「基礎ではありません、これは」
「そうですか。では、応用の基礎、で」
また顔を見合わせた。
最終的に「優秀」の評価をもらった。
クレアが飛び上がって喜んだ。
リュカが「天才じゃん」と言った。
マリアが静かに頷いた。
ゼファーは廊下で待っていたが、私の顔を見て一言だけ言った。
「……やったな」
短かった。
でも、今日一番嬉しい言葉だった。
問題は、その後だった。
王城での春の式典に、学院の代表として出席することになった。
学院で最も優秀な生徒が招かれる行事だ。
私は学院の成績上位者として、名前が挙がった。
断れる立場ではない。
つまり王城に行く。
殿下がいる場所に、行く。
それは、構わない。
ただ最近、少し殿下の様子が、気になっていた。
変わった、と気づいたのは二か月前だ。
月に一度ある公式の茶会で、遠くから視線を感じた。
振り向くと、殿下だった。
目が合った。
長かった。
以前より、ずっと長かった。
殿下が先に視線を外した。
表情は変わっていなかった。
でも何かが違う気がした。
次の茶会でも、同じだった。
その次も。
目が合う時間が、以前より長い。
それだけだ。
それだけなのに。
「……気のせいよ」
毎回、そう言い聞かせた。
毎回、少し失敗した。
式典の当日。
王城の大広間に、学院の代表生徒たちが並んだ。
私はクレアと並んで立っていた。
マリアは少し後ろ。
リュカはいない。今回の招待基準に成績が届かなかったらしい。
「残念だったね、リュカ」とクレアが言っていた。
「来年また頑張る」とリュカは笑っていた。
殿下が入場した。
広間が、静かになった。
相変わらず、表情がない。
相変わらず、背筋が伸びている。
相変わらず、目が鋭い。
でも一つだけ変わっていることがあった。
視線の動きが、違う。
以前は、入場の際に全体を一度だけ見回していた。
今日は入ってきた瞬間に、一度だけ、こちらを見た。
一瞬だった。
でも、確かに見た。
こちらを、最初に。
私の心臓が、強く打った。
式典が終わった後、歓談の時間があった。
私はクレアと話しながら、視野の端で殿下の位置を確認していた。
いつの間にか習慣になっていた。
殿下は、今日は中央に立っていた。
貴族たちが次々と挨拶に来る。
全員に、同じように応じている。
感情が見えない。
でも。
「エリシア様、少し赤くないですか」
クレアが小声で言った。
「そんなことはないわ」
「赤いですよ」
「暖房が効きすぎているのよ」
「そうですか……でも、さっきから殿下の方向を七回見ましたよ」
「数えないで」
「八回になりました」
「クレア」
「はい」
「うるさい」
「はい」
歓談の終わり頃。
誰かに話しかけられて、立ち止まった。
上の学年の令嬢たちだった。
「ヴァレンシュタイン令嬢の浄化魔法が評判ですよ」とか、「卒業後はどうされるのですか」とか。
当たり障りのない会話をしながら、私は気づいた。
殿下が、こちらに向かって歩いてきていた。
人の間を縫うように、自然に、でも確実に。
令嬢たちも気づいて、一歩引いた。
「エリシア嬢」
殿下が、目の前に立っていた。
「殿下」
礼をした。
「進級試験の結果を聞いた。おめでとう」
直接言われたのは、初めてだった。
「……ありがとうございます」
「魔法の習得が、また上がったと聞いている」
「おかげさまで」
「おかげさまとは?」
「良い環境と、良い先生と、良い友人たちのおかげです」
殿下が少し目を細めた。
「……良い友人たちか」
「はい。うるさいですが、大事な人たちです」
「そうか」
短い沈黙。
周囲の令嬢たちが、少し遠巻きに見ていた。
「一つ、聞いてもいいか」
「はい」
「最近、体調はどうだ」
また、予想外の質問だった。
「……問題ありません」
「無理をするな」
「していません」
「三時まで読書をする人間の言葉とは思えない」
私は少し固まった。
「……どこで聞いたのですか」
「ゼファーは報告が丁寧でな」
ゼファー。
今度あの護衛に一言言わなければならない。
「大事なことではなかったはずです」
「大事なことだ、俺には」
さらりと言った。
私の心臓が、また強く打った。
「……気にかけていただいているのですか」
「婚約者として、当然の配慮だ」
「そうですか」
「そうだ」
また短い沈黙。
殿下が、少しだけ声を低くした。
「無理をするなよ。本当に」
それだけだった。
礼をして、立ち去った。
背中を見送って。
私は窓の外を見た。
春の光が、広間に差し込んでいた。
胸が、温かかった。
困る本当に困る。




