【第二章 白い風】第十二話 犬の鼻
大通りを離れる。
人の流れは、もう細くなっている。
終電へ急ぐ人。
店の前で誰かを待つ人。
煙草の火を、手のひらで風から守る人。
小さな犬を連れた女が、歩道の端で立ち止まっている。
犬は前へ進まず、排気口のそばに鼻を寄せていた。
地面から、温かい空気が上がっている。
鉄と埃と、かすかなバターの匂い。
さっきまで歩いていた地下の空気だった。
犬は何度も鼻を動かし、見えないものを確かめている。
女がリードを軽く引く。
「帰るよ」
それでも犬は動かない。
もう一度、地下から上がる空気を吸い込む。
それから急に顔を上げ、いつもの道ではなく、細い横道へ歩き出した。
女は少し困ったように笑い、そのあとをついていく。
考えて選んだ道ではない。
匂いに惹かれ、身体が先に動いた。
二人の姿が角を曲がる。
立ち止まっていると、排気口からまた空気が来た。
白いLEDの乾いた匂い。
閉じた店の床を洗う水の匂い。
誰かが残した甘さと、電車の金属の匂い。
地下で別々にあったものが、地上では一つの温度になっている。
空を見上げる。
ビルの隙間に、狭い夜空が見える。
以前なら、その先に宇宙を広げ、広すぎる暗さに息を浅くしていた。
今は、足元から上がる空気の方が近い。
理解するより先に、身体がそれを受け取っている。
鼻から吸う。
湿った夜と、乾いた地下が胸の中で混ざる。
犬が選んだ横道の奥で、小さな首輪の鈴が一度鳴った。
同じ道を選ぶ理由はない。
それでも、少し遠回りして帰りたくなった。
大通りを外れ、犬の消えた角を曲がる。
路地には、雨に濡れた鉢植えと、閉じた料理屋の出汁の匂いが残っていた。
犬が通ったあと、二人の間には、すれ違えるだけの道が残った。




