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明日があるさ  作者: いぬまた
第七章
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明日があるさ7【第九話】






 声をかけられた人物は一度身体を揺らすと、ゆっくりと立ち上がった。そのまま明日葉たちの席の横までやってくる。

 スニーカーに黒いタイトパンツ、グレーのパーカー。おおよそいつもの彼らしくない格好に、キャップを目深に被って、黒縁眼鏡までかけていた。

 見覚えのあるどころか毎日見ているその顔に、明日葉は思わず声を上げた。

「せ、誠一郎!? 何でいるの!?」

 明日葉の言葉に、庵司は渋い表情をして顔を向けた。

「…………心配で、つい」

 亜笠は無表情でそれだけ口にした。明日葉は完全にパニックになった。

 いつからいたのだろうか、最初から? だとしたら会話まで聞かれていただろうか。全部――――ということは、写真のことも……。

 と、そこまできて明日葉はようやくテーブルの上に庵司のスマホが置かれていることに気が付いた。画面も例の写真が開かれたままだった。

 明日葉は慌ててスマートフォンを裏返すが――――遅かった。

 亜笠の目は、しっかりと庵司のスマホを捉えていた。

「…………み、見た?」

「見ました」

 即答だった。明日葉は一層顔を青くした。亜笠の顔には一切感情が浮かんでいなかった。いつもの無表情ではない。何かを抑圧した末の無表情だ。明日葉はそう感じた。

「あらやだ、見られちゃったわね」

 わざとらしくそう言って、庵司はスマートフォンを回収した。

「こんにちは……誠一郎くん? 護ちゃんの今の彼氏さんね」

「どうも、庵司さん。護さんからお話は聞いてます」

 亜笠はいつもの礼儀正しさが嘘のように、冷ややかにそう言った。

「ずっと後ろの席にいたの? 最初から? ちょっとストーカーチックじゃないかしら?」

「人の夫のスマホから勝手に連絡先を抜いた相手にだけは言われたくありませんね」

「いや夫ってお前」

 雨宮がツッコんだ。明日葉はもう否定するのも面倒なので黙っていた。

 庵司は雨宮と亜笠を交互に見た。面白いものを見つけたように微笑んだ。

「ずいぶんと……過保護な彼氏さんたちだこと。護ちゃん、愛されてるのね」

 明日葉の顔がカッと赤くなった。

 亜笠は明日葉のことを横目で見ると、無表情のまま口を開いた。

「当然です。雨宮さんは彼氏ではありませんが」

「そこはちゃんとツッコむのかよ」

 雨宮の指摘を亜笠はさらっと無視した。

「あなたが護さんに何をしようとしていたのかも聞かせてもらいました」

「盗み聞きまでしてたの?」

「そこについては後で護さんに謝ります」

 亜笠は庵司の手の中のスマートフォンへ視線を向けた。

「それで――――その写真を材料に、一晩付き合わせようとしていたんですよね」

「人聞きが悪いわね。私はただ、昔みたいに一緒に遊ばない? って誘っただけよ」

「それは遊びとは言いません。脅しです」

 亜笠の声は低かった。庵司はしばらく亜笠を見つめてから、ふっと笑った。

「でも、あなたもう見ちゃったんでしょ?」

「見ました」

 だから、と亜笠は続けた。

「もうその写真は脅しには使えません」

 亜笠の言葉に、明日葉はハッとして顔を上げた。亜笠は明日葉の顔を見て表情を和らげた。

「ふぅん……」

 庵司は頬杖をついて、改めて亜笠の顔を眺めた。

「綺麗な顔してるわねぇ。私のタイプじゃないけど」

「それはどうも」

「もう少し愛想よくしたら?」

「あなたに愛想を振りまく必要がありませんから」

 庵司と亜笠の間に稲妻が走った――――ように明日葉には見えた。

 亜笠のそっけない態度にも、庵司は優雅に笑うだけだった。

「面白い子ね。護ちゃん、こういうのが好きなの?」

 庵司は立ち上がって、その派手なネイルを施した手を、亜笠の顎に当てた。

「まあ、タイプじゃないけど……護ちゃんと一緒ならホテルに行ってもいいわよ」

 その瞬間――――亜笠が何かを言うより先に明日葉の手が動いた。雨宮の制止も無視して、立ち上がって手に取ったグラスを庵司に向けてぶち撒ける。

 水をかけられた庵司はしばらく呆然としていた。沈黙が四人の間に落ちる。

 破ったのは庵司だった。

「ちょっと――――何すんのよ!」

 ずぶ濡れの前髪をかき上げて、庵司が言った。

 明日葉は震える手でグラスをテーブルに置いた。

「庵司さん」

 明日葉は目の前に立つ庵司を、真っ直ぐに見据えた。

「おれはあなたとはホテルに行きません」

 傍に立つ亜笠が、隣に座る雨宮が、明日葉のことを見つめた。

「写真も動画も消して下さい」

 庵司が髪をかき上げながら、ふっと笑った。

「それはできないお願いね」

「でなければ訴えます」

 明日葉の言葉に、庵司の笑みが少し消えた。

「本人の許可なしで第三者に見せた場合、リベンジポルノ防止法に引っかかるって聞きました。おれはその画像が撮られることも許可してないし、そもそもが盗撮です。もし消してもらえないのなら――――裁判でも何でもやります」

「雨宮のことが公になるわよ」

「これはおれと庵司さんの問題です。雨宮は関係ない。それに――――」

 明日葉は震えそうになる声を必死に押さえて、言った。

「雨宮にも、誠一郎にも――――何かあったら、絶対に許しません」

 握りしめた拳が細かく震えた。それでも明日葉は、庵司から目を逸らすようなことはしなかった。

 庵司と睨み合う。明日葉は随分長い間そうしていたような気がしたが、実際はほんの数秒でしかなかった。

 庵司がパッと目を逸らして、観念したように肩を竦めた。

「はぁ、なーんだ。つまんないの」

 そう言うと、庵司は自分の席に座った。バッグからフリルのついたハンカチを取り出して、顔を拭う。

 それまで黙って事の成り行きを見ていた雨宮が、口を開いた。

「おい、庵司。お前――――」

 雨宮の言葉を遮るように、庵司が言葉を被せてきた。

「私が抱きたかったのはねぇ、当時の護ちゃんなの!」

 その言葉に雨宮の顔が歪んだ。

「こんな気の強そうな小うるさいのじゃなくて――――お人形みたいに、大人しくて従順だった子が欲しかったの。こんなの予定外だわ」

「…………」

 明日葉は黙ってそれを聞いていた。改めてあの頃の自分が相手にどう映っていたかを思い知らされた。

(従順なお人形、か……)

 それがどんなに他人から馬鹿げて見えていたとしても、それでもあの時の自分は、必死だったのだ。

 雨宮と一緒にいるために、何だってしようと覚悟を決めて、やったことだった。

 ふと、隣にいる亜笠と目が合った。亜笠はもう眉を歪めてはいなかった。

 小さく笑って、口を開いた。

「なら良かったです」

 亜笠は未だ震える明日葉の拳を、そっと手に取った。少し低い体温が拳を包む。

「護さんはあなたたちに都合の良い人形でもなんでもありませんから」

 亜笠の言葉に、雨宮はそっと目を伏せた。

 庵司が頬杖をつきながら、呆れたように言った。

「――――綺麗な顔して、なかなかいい性格してるじゃない?」

「よく言われます」

 亜笠はにっこりと微笑んで返した。

「おい、庵司」

 スマートフォンを手に席を立とうとする庵司を、雨宮が止めた。

「写真と動画、消してないだろ」

 庵司が小さく舌打ちした。

「わかったわよ。消せばいいんでしょ、消せば」

 そう言って雨宮に画面を向けて、写真と動画を削除していく。

 明日葉は慌てて亜笠の目を手のひらで覆った。一枚見られてしまったとは言え、他の写真も見られていいわけではない。

 亜笠は黙ってされるがままになってくれた。

「言っとくけど、画像はこれだけよ。クラウドにも保存してないわ」

 そこは信用してもらうしかないわね、と言って、庵司はスマートフォンをバッグへとしまった。明日葉もほっと息を吐いて、亜笠から手を外した。

 庵司は席を立つと、亜笠と明日葉を見て、それから雨宮に視線を向けた。

「あんたも苦労するわね、こんな子に惚れこんじゃって」

 庵司は化粧を施した綺麗なその顔に、ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべて言った。

「うるせぇ、さっさと帰れ」

 雨宮のぶっきらぼうな態度にも、庵司は少しも堪える様子を見せなかった。

「じゃあね、ここは奢られてあげるわ」

 そう言って、庵司は颯爽とその場から立ち去った。

 その背中が店を出るのを確認して、明日葉はやっと緊張を解いた。

 雨宮の隣の席にへたり込む。

「よ、よかったぁ……」

 震えていた身体から力が抜ける。明日葉は、とっくにアイスが溶けてしまったクリームソーダで喉を潤した。

 そんな明日葉の頭を、雨宮がポンポンと撫でた。

「お前にしてはよくやった」

 店員に一声かけて席を移動してきた亜笠が、向かいに座った。その眉は不機嫌そうに顰められていた。

「ちょっと、人の夫に気軽に触らないでもらえません?」

 手にしたコーヒーカップをテーブルに置きながら、亜笠が言った。

 雨宮は真っ直ぐに亜笠を見ながら、明日葉の髪をぐしゃぐしゃと撫でた。

「うわっ、何すんだよ」

「別に。せっかく人が人生懸けて助けようとしたってのによ」

 明日葉は雨宮の手を逃れて、乱れた髪の毛を手櫛で整えた。亜笠はコーヒーを一口飲むと、改めて雨宮を見た。

「それについてはお礼を言います。でも、その前にひとつ」

 亜笠の目がギラリと光った。

「画像と言えば――――雨宮さんもお持ちでしたよね、護さんの写真と、動画」

 雨宮が押し黙った。明日葉もつられて黙り込んだ。

「消して下さい」

 亜笠がコーヒーカップをソーサーに置いて、輝くような笑顔を見せた。その目は少しも笑っていなかった。

 雨宮はタバコを口に咥えて、一息吸った。煙を吐いて、静かに呟く。

「……消したよ。きっぱり振られた日にな」

「本当ですか」

 殊勝に言う雨宮に、亜笠は畳みかけた。

「そこは信用してもらうしかない」

 頬杖をつきながら、雨宮は庵司の言葉をなぞるように言った。

「嘘だったら地獄の果てまで追い回しますよ」

 亜笠は笑みを一切崩さずにそう言った。向かいで見ていた明日葉の背にも鳥肌が立つくらい、怖かった。

 明日葉は隣の雨宮を見た。

「……消したんだ」

 雨宮はホルダーから吸殻を引き抜いて、灰皿へ放った。

「……ああ」

 低い声でそれだけを呟く。

「ありがとう」

 明日葉がそう言うと、雨宮は一拍置いて、額にデコピンをしてきた。

「痛っ」

「お前が礼を言うことじゃないだろ」

 雨宮がぶっきらぼうにそう言うと、向かいの亜笠が頭を下げてきた。

「僕からも――――今日はありがとうございます、雨宮さん」

 亜笠の顔には、もう先ほどの笑みは浮かんでいなかった。

 そんな亜笠に、雨宮は舌打ちした。

「礼はいらん」

 クリームソーダに乗ったチェリーをもごもごと食べる明日葉を指差して、亜笠に言った。

「そんなことより問題はこいつだ。このポンコツ野良ハムスターの自己犠牲心をどうにかしろ。ハラハラして見てられん」

 ポンコツ野良ハムスター……おれのことだろうか、と明日葉は半眼になって雨宮を見た。お前以外に誰がいるんだ、と雨宮の目が語っていた。

 雨宮の言葉に亜笠は深く頷いていた。

「それは僕も同じです」

「…………」

 余計なことを言うと二人から集中砲火を浴びそうなので、明日葉は貝のように黙り込んだ。

「――――まあいいです。あとの話はじっっっっっくり家で聞かせてもらいます、護さんから」

 亜笠の視線に、明日葉はビクッと身体を震わせた。

「おう、そうしろ」

 三人は席を立って店を後にした。明日葉は辺りを見回した。庵司の姿は、もうどこにもなかった。

 そんな明日葉の様子を見た雨宮が、深いため息を吐いた。

 亜笠の顔をじっと見つめて、口を開いた。

「――――お前がもっとクズで嫌なやつだったら良かったんだけどな」

 悔しいような、ほっとしているような、複雑な声音だった。

「何ですか、それ」

 亜笠が憮然として言うと、雨宮はケロリとして言った。

「そうすりゃいつでも護のこと奪えた」

 明日葉と亜笠は目を見開いた。その言葉は、宣戦布告ではなかった。

「大事にしろよ。俺の代わりに」

 口角を上げる雨宮に、亜笠が微笑んだ。

「雨宮さんの代わりじゃなくても大事にします」

「ほんとムカつくな、お前」

 言いながら、雨宮は明日葉の腕を掴んだ。強い力で引っ張られ、亜笠の胸に押し付けられる。

「じゃあな」

 明日葉と雨宮の視線が交差した。明日葉が別れの言葉を口にするより先に、雨宮は背を向けて歩き出してしまった。

 雑踏にその背中が消えて行く。

 明日葉はしばらく呆然とその場に佇んでいた。

「…………帰ろっか」

 ぽつりと呟いた。隣の亜笠が頷いた。

「帰りましょう」

 微笑む亜笠の顔を見て、明日葉は手を伸ばした。自分より少し低い体温の手を取る。亜笠が目を丸くした。

「おれのこと心配だったんだ?」

「当たり前です」

「でもだからって勝手について来たらダメだろ。ちゃんと雨宮連れてくって言ったのに」

 亜笠が明日葉の手を握り返した。

「それは……すみませんでした」

「わかればよし」

 申し訳なさそうに目を伏せる亜笠に、ニコッと微笑む。

「それよりさ、おれやっぱり新宿駅苦手。来る時も東南改札見つからなくて30分迷った」

 亜笠が堪え切れずに笑い声を上げた。

「護さんに新宿駅は鬼門ですね。今度からは新宿駅以外で待ち合わせましょう」

 二人は手を繋いだまま、駅に向かって歩き出した。







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