明日があるさ7【第八話】
庵司との待ち合わせ当日、明日葉は新宿駅東南改札に向かっていた。
以前散々迷った場所だ。今日はすんなりたどり着けるだろうと思い、30分前に新宿に着くように電車に乗った。
が、しかし――――
東南改札が見つからない。明日葉は周囲を見回した。右往左往するがそれらしい場所にたどり着かない。明日葉の脳内には井上陽水の『夢の中へ』が流れていた。探し物は新宿駅東南改札です、と脳内で替え歌を歌った。明日葉は首を振って、気を取り直してスマートフォンの駅構内図を見た。画面を拡大したり縮小したり回したりしながら、何とか東南改札にたどり着くことが出来た。
時刻は待ち合わせ時間ぴったりだった。
以前出会った自販機の前に、ファーコートにロングスカートを合わせた、どう見ても女性としか思えないファッションに身を包んだ庵司が立っていた。
明日葉は無意識にスマートフォンをぎゅっと握り締めた。
でも大丈夫――――今日は助けてくれる人がいる。
そう思って、明日葉は思い切って庵司に声をかけた。
「庵司さん、お待たせしました」
「護ちゃん」
庵司がぱっと表情を明るくした。その顔には、悪意の類は全く見えなかった。
「今日は来てくれてありがとう」
「いえ」
長い髪を優雅に揺らして微笑む庵司に、明日葉は曖昧に返事をした。
向かい合うと、庵司は明日葉の顔を覗き込んできた。明日葉の身体が強張る。距離を詰めてくる庵司に、一歩足を後退させた。
そんな明日葉の心境を知ってか知らずか、庵司はさらりと言ってきた。
「二人でゆっくり話すのに、ホテルに部屋を取ったの。行きましょう」
「…………」
ホテル、という単語に明日葉の顔が青くなった。
胸の奥がざわつく。一瞬だけ、記憶の中のホテルの一室が脳裏を掠めた。
同時に、ここへ来る前に言われたことを思い出した。
『――――いいか、相手がホテルに行こうって言っても、絶対について行くなよ』
言われた通りだった。明日葉は震える手を握り締めた。
「えっと、できれば、その辺の喫茶店で……」
「あまり人に聞かれたくない話だから」
明日葉の言葉に、庵司は困ったように眉を下げた。
「せっかく部屋も取ったんだし、そっちの方が落ち着いて話せるでしょう?」
「…………」
明日葉は口を噤んだ。ここで強く拒めば、相手はどういう手段に出るかわからない。明日葉は少し考えて、ふとビルが立ち並ぶ向こうへ目を向けた。
「おれ、ちょっとコーヒー飲みたいです」
「え?」
「ホテルはその後にしませんか?」
庵司が目を瞬かせた。明日葉は出来るだけ何でもないような顔をして返事を待った。
庵司はしばらく考え込むように明日葉を見つめていたが、やがてニコッと微笑んだ。
「いいわよ。行きましょう」
「はい」
明日葉は握り締めていた手の力を少し緩めた。
「こっちです。近くに店があるんで」
「あら、護ちゃんが案内してくれるの?」
「はい」
明日葉はそう言って歩き出した。庵司がその後ろをついてくる。
道順については、口を酸っぱくして言われていたので、明日葉はすんなりと喫茶店に到着することができた。ほっと胸を撫で下ろす。
「ここです」
そう言うと、庵司は頷いて微笑んだ。
そこは昔ながらの喫茶店だった。扉を開けて中へ入ると、コーヒーの香りと暖かな空気が二人を迎えた。
少し照明が落とされた店内は、外の眩しさが嘘のように薄暗かった。低く流れる音楽に、食器の触れ合う音。客たちの話し声もあまり耳につかない。
話をするにはちょうどいいだろう。近付いてきた店員に目配せして、明日葉は迷うことなく店の奥へ向かっていった。
そして――――
店の最奥にある4人席の前まで来ると、明日葉は足を止めた。
そこに座っていたひとりの男が、加熱式タバコを手に持ったまま顔を上げた。
「あなた――――」
それまで笑顔だった庵司が、顔を歪めた。
男は庵司の顔を見ると、口角を上げた。
「よう、庵司。久しぶりだな」
はっきりとした目鼻立ちに、スポーツマン顔負けのさわやかな人懐っこい笑顔を浮かべて――――雨宮まゆみが、そう言った。
「俺のことで相談があるなら、本人がいた方が手っ取り早いだろ」
私服姿の雨宮はそう言って笑った。が、その瞳はまるで笑っていなかった。
瞳の奥には、冷えた怒りが静かに燃えていた。
機嫌の悪い時の雨宮だ。明日葉は雨宮の隣に座りながら、そう思った。
向かいには憮然として座る庵司がいた。
雨宮は先にコーヒーを飲んでいたため、水を持ってきた店員に、明日葉と庵司のオーダーを取ってもらった。庵司はブレンドを、明日葉は真面目な顔でクリームソーダを頼んだら、横の雨宮から「緊張感を持て」と怒られた。
「あらぁ、護ちゃん、コーヒー飲みたかったんじゃないの?」
店員が立ち去ってから、向かいの庵司にもそう指摘される。明日葉は目を泳がせた。
「最初からホテル行く気、なかったんでしょう」
冷ややかな笑顔を浮かべて、庵司が言った。明日葉の身体がギクリと震えた。
「ホ、ホテルに行って……何する気だったんですか」
指摘すると、庵司は優雅に笑って長い髪を後ろに流した。
「話すだけよ――――ゆっくり、じっくりね」
明らかに含みのある言い方に、隣の雨宮が鼻で笑った。
「話すだけねぇ……どうせお前以外の何人か、控えてんだろ」
明日葉はハッとして庵司の顔を見た。庵司は微笑みを一切崩さなかった。
明日葉は身体を震わせた。雨宮の忠告通り、うかつにホテルに入らなくて良かったと心底思った。いや、もちろん断るつもりでいたが。
「ところで、二人は別れたんじゃなかったかしら」
「お前には関係ないだろ」
楽しそうに問いかける庵司に、雨宮がにべもなく言った。庵司は少しも気にする様子もなく、明日葉に視線を向けた。
「だって護ちゃん、新しい彼氏いるわよね?」
小さく首を傾げながら言われて、明日葉は動揺した。
「――――っ、な、なんで、知って……」
「この間新宿駅で会った時、その彼と待ち合わせしてたんでしょ? 綺麗な顔の子よね? 年下?」
「見てたんですか……」
思わず問い返す。隣の雨宮が小さく息を吐いた。
「たまたまね、私もその時、他の人と待ち合わせしてたから」
平然と語る庵司に、明日葉はカッとなって立ち上がった。
「誠一郎に何かしたら――――」
隣の雨宮が明日葉の腕を引いて、座るよう目線で促した。明日葉が唇を噛んで座ると、庵司は楽しそうに微笑んだ。
「あら、誠一郎くんって言うの?」
庵司の言葉に、庵司の後ろに座った客の身体が揺れた。動揺していた明日葉は気が付かなかった。
雨宮はその後ろ姿をじっと見つめた。大きなため息をつくと、開きかけた明日葉の口を片手で封じた。
「むぐっ!」
「護、お前もうしゃべるな」
「…………」
「ボロボロいらんこと話しやがって……ったく、お前はつくづく交渉に向かないタイプだな。下の口はきついのに何で上の口はガバガバなんだよ」
明日葉は雨宮の手を噛んだ。イテッと言いながら雨宮は手を離した。確かに自分は交渉事には向かない。つい最近亜笠からも指摘を受けたばかりだ。それにしても言い方と言うものがあるだろう、と明日葉は心の中で憤慨した。
そんな二人を、庵司は頬杖をついて楽しそうに眺めた。
「何よ、せっかく護ちゃんと楽しくおしゃべりしてたのに」
雨宮は庵司を一瞥した後、加熱式タバコにスティックを差し込みながら言った。
「お前、俺のことで何か相談があるんじゃなかったのか、こいつに」
「ええ、そうよ」
飄々と相槌を打つ庵司に、雨宮はタバコを一息吸ってから悪辣な笑みを浮かべた。
「この5年間会ってもいなければ連絡も取ってない相手の何を相談するのか俺にはさっぱりわからんが、一体何を相談したかったんだ?」
庵司の笑顔が少しだけ引き攣った。
「意外ね……あんたが別れた相手の番犬に出てくるなんて。そんなタイプだったかしら?」
「さっきも言った。お前には関係ない」
雨宮がそう言うのと同時に、庵司と明日葉のオーダーが運ばれてきた。庵司はブレンドにミルクを溶いて静かに口に運んだ。
明日葉はクリームソーダにストローを差し込んで一口飲んでから、バニラアイスをスプーンですくってちびちびと舐めた。
庵司はそんな明日葉を見てふっと微笑んだ。
「最近『こっち』で全然遊ばなくなったじゃない。どういう心境の変化?」
庵司の含みのある言い方に、雨宮はタバコの煙を吐いて目を伏せた。
「遊びは卒業したんだよ」
「二人が別れたことも関係あるのかしら?」
質問に、雨宮は答える義務はないとでも言いたげに黙り込んだ。
「あの頃の二人を見るの、私結構好きだったの。だって護ちゃん、本当に雨宮のこと大好きで、他には全然興味ないって顔してたから。私にもね。でも行為は平然と受け入れてて――――健気で、かわいかったわ」
庵司の言葉のひとつひとつが、明日葉の過去の記憶を呼び起こした。
明日葉のスプーンを持つ手が震え出した。ガラスと触れ合ってカチカチと音を立てる。それを横目で見て、雨宮が口を開いた。
「こいつはもうそっちには行かない。真面目に付き合ってる奴もいる。ちょっかいかけるな」
雨宮はそう言うと、吸い終えたタバコを抜き取って灰皿に置いた。
「昔話がしたいだけなら、俺たちは帰らせてもらうぞ」
そっけない雨宮に、庵司は両手を組んで首を傾げた。その顔には、本当にこのまま帰ってもいいの? と不気味な微笑みが浮かんでいた。
「相談はここからよ」
庵司はそう言うと、エナメルの黒いバッグから自身のスマートフォンを取り出した。ひとつの写真を表示して、明日葉と雨宮の見える位置に置いた。
「ここに、一枚の写真があるんだけれど」
覗き込んで、明日葉は息を呑んだ。雨宮も眉を歪ませた。
「こっ、これ……!」
明日葉の動揺に庵司が笑った。
画面の中では、黒髪の体格の良い男――――雨宮がベッドに寝そべっていた。その腰に跨っているのは、紛れもない――――自分だった。二人とも衣類を纏っていない。情事の最中の写真だった。
雨宮の目が鋭く光った。
「お前、これどうやって撮った。スマホは預かりだっただろ」
雨宮の言葉に明日葉が目を見開いた。いかにも楽し気に庵司が口を開いた。
「護ちゃんは知らなかったみたいだけど、雨宮は何人かでする時にはカメラもスマホも絶対に持ち込ませなかったのよ。人選だってかなりしてたんだから」
明日葉は絶句した。そんなこと、一切知らなかった。
隣の雨宮が舌打ちした。
「おい、俺の質問に答えろ」
「……今はいろんな形の小型カメラがあるからね。動画もあるわよ? 見る?」
その言葉に明日葉の顔がさっと青くなった。小型カメラ、情事の写真、動画、雨宮の当時の行動。ショックが大きすぎて事実の整理が追いつかない。
動画は一度だけなんだろうか。それとも庵司が参加していた時はすべて撮られていた? 常連だった彼は、一体どれだけのものを撮っていたのだろう――――
考えるとキリがなかった。
「それにずるいじゃない。自分は護ちゃんのこと散々撮っておきながら、他の人には一枚も撮らせないなんて」
雨宮が黙り込んだ。明日葉も俯く。確かに雨宮は、同じ行為を明日葉にも行っていた。それも一度や二度ではない。
「ねぇ、護ちゃん」
庵司が、明日葉に優しく笑いかけた。
「今の彼は、このこと知ってるのかしら?」
「あ…………」
明日葉の身体が露骨に震えた。
見られたくない。見せたくない。こんな写真――――
そんな明日葉の考えを見透かしたように、庵司が言った。
「写真も動画も、全部消してあげるわよ」
明日葉はパッと顔を上げた。だが雨宮は眉根を寄せた。
「代わりに、私に一晩付き合ってくれない?」
一晩、その言葉が何を意味するのかを、明日葉は良く理解していた。
テーブルの下で拳を握る。
雨宮も映っている写真。もし他に出れば、営業部長の職が飛ぶ。
亜笠にだって見られたくない。
おれが、一晩我慢すれば。
明日葉の脳裏にそんな言葉が過った。
(で、でも、嫌だ……誠一郎もいるのに……今更、あそこに戻るなんて)
ホテルで男たちに掴まれた手の感触を思い出して、明日葉は自分の腕を抱いた。
と、その時――――
隣の雨宮がテーブルをドンッと叩いた。突然の物音に明日葉の身体が大きく揺れた。
「おい、護」
呼ばれて顔を上げる。雨宮は真っ直ぐに庵司を見据えていた。
「お前は今から一切喋るな。口にチャックしてろ」
「あ、雨宮……」
「黙ってろ。いいか、あの写真が出たら俺がどうにかなるとかも考えるな。お前と違って俺は自分のことはどうとでもできる。それにあれは俺の身から出た錆だ。お前の責任じゃない」
明日葉はその言葉を聞いて、口を噤んだ。庵司が「あら」と言って残念そうな表情を浮かべた。
雨宮は再びホルダーにタバコを差し込んで、その顔に意地の悪い笑みを浮かべた。
「護、お前にしては今日の人選はファインプレーだ」
あいつじゃなくて正解だ、となぜか雨宮は庵司の後ろを見ながら言った。
不服そうに庵司が口を開いた。
「ちょっと、私は護ちゃんと話してるんだけど?」
雨宮はタバコを吸って、ふっと息を吐いた。明日葉は言われた通り、黙って事の成り行きを見守った。
「その写真に写ってるのは俺もだ。俺にも話す権利くらいあるだろ」
庵司が口を閉じる。確かにその通りだった。
雨宮はその手にタバコを持ったまま、庵司の方へ少しだけ身を乗り出した。
「つまり、お前が今言ってるのは、本人に無断で取った写真を材料にして、自分と寝ろって要求してる――――ってことでいいんだな」
庵司のスマートフォンを指先でつつく。庵司は少しも堪える様子を見せなかった。
「そんな大層なことじゃないわよ。一晩私と一緒に遊ばない? って、それだけじゃない。昔のあんただって散々やってたでしょう?」
「俺がクズなこととお前が今護を脅してるのは別問題だ。それに言ったはずだ。こいつには真剣に付き合ってる奴がいるってな。一晩遊んだことがバレてみろ。そいつに地獄の果てまで追い回されるぞ」
雨宮の視線がまた庵司の後ろに流れた。明日葉は首を傾げて庵司の後ろを見たが、キャップを被った男性が背を向けて本を読んでいるだけだった。
庵司が酷薄な笑みを浮かべた。
「じゃあ、この写真がどうなっても構わないってことね」
「それは明確な脅しと受け取っていいんだな」
雨宮は躊躇わなかった。即答した雨宮に、庵司の笑みが顔から消えた。
「――――ほんっと、嫌な男。だからあんたって嫌いよ」
庵司が前に落ちてきた髪の毛を後ろに流しながら言った。
「奇遇だな、俺もだ」
雨宮も負けていなかった。タバコの煙を吐きながらそう言って笑った。
「護ちゃんみたいなの貴重なんだから。せっかくいい原石発見したって思ったのに、本当嫌になっちゃう」
庵司の言葉に雨宮が呆れたような顔になった。
「残念ながらこいつは俺に散々発掘しつくされてるぞ――――痛っ!」
雨宮の含みがある言い方に、明日葉はテーブルの下で雨宮の足を蹴った。
雨宮は痛みに呻きつつも口を開いた。
「――――おい、そろそろお前も出てきたらどうだ。言いたいことがあるなら直接言えよ」
雨宮はニヤリと笑った。
「は?」
明日葉は思わず声を上げた。
雨宮が見ている方向――――庵司のすぐ後ろの座席を見た。




