明日があるさ7【第六話】
「あ、あ……」
明日葉のスマートフォンを持つ手が震えた。
喉の奥から声を絞り出そうとするが、上手くいかない。
対面する男、庵司はそんな明日葉の様子を気にも留めず、明日葉の顔を覗き込んできた。
「あら、忘れちゃった? あんなにたくさん遊んだのに――――」
その言葉に、庵司の香水の香りに、明日葉の記憶が一気にフラッシュバックした。
ホテルの一室、雨宮の声、押し倒されたベッドの感触、自分を覗き込む、知らない男たちの顔。
そのうちの一人に――――彼が、いた。
「…………庵司、さん」
掠れた声で名前を呼ぶと、彼は両手を合わせて嬉しそうに笑った。
「良かった! 覚えててくれたのね」
庵司はそう言うと、明日葉の頭の先からつま先までをじっくりと眺めた。
「遠くから見かけて、そうじゃないかと思ったの。いきなり声かけてごめんなさいね。今日はどうしたの? 雨宮と待ち合わせ?」
明日葉は無言で首を振った。
「あら違うの? 雨宮もだけど、もうずっと見かけないから、どうしてたのか気になってたのよ」
庵司は優雅な仕草で自身の髪を後ろに流すと、腕を組んだ。明日葉は庵司の顔がまともに見れず、彼の指先に施された派手なネイルを見ていた。
そのため庵司がふと真顔になったのにも、気が付かなかった。
「――――もしかして、雨宮と別れた?」
明日葉は答えられなかった。その様子を見て、相手は肯定と取ったらしい。
「あら……そうだったの」
庵司の目は、明日葉の震える手に向いていた。
庵司は再びニコリと微笑んだ。白い手を伸ばし、明日葉の顎に当てる。明日葉の身体が露骨に跳ねた。
「ねえ、護ちゃん」
自分の方へ明日葉の顔を向かせる。明日葉は唾を呑んだ。
「雨宮の連絡先ってわかるかしら!?」
明るい声で言われて、明日葉は拍子抜けした。
「ちょっとあいつに相談があるんだけど、私一回連絡先消しちゃったのよ! だから知ってるなら教えてほしいんだけど、いいかしら?」
明日葉は庵司の手をそっとどけて、頷いた。
「わ、わかります……」
スマートフォンを操作して連絡先を表示しようとするが、手が震えて上手くいかない。舌打ちすると、庵司の手が伸びて来てさっとスマートフォンを奪われた。
「貸して、私がやるわ」
庵司はそう言って明日葉のものと自身のものをさっと操作した。
その顔が妖艶に微笑んだ。
その時、俯いていた明日葉には、それが見えなかった。
連絡先を確認すると、庵司は明日葉の手にスマートフォンを握らせた。
「ありがとう! 助かったわぁ」
そう言うと、庵司はあっさりと明日葉から離れた。
「じゃあ、またね」
手を振って雑踏へと消えて行く。明日葉は呆然としてそれを見送った。
しばらくそうしていると、不意に肩を叩かれた。
ビクッと身体を震わせる。振り返ると、そこには目を丸くした亜笠が立っていた。
「護さん? 待たせてすみません」
「せ、誠一郎……」
「――――大丈夫ですか?」
白いマフラーを首に巻いた亜笠が、怪訝な顔をした。
「え? 何が?」
「顔色が悪いです」
言われて、明日葉は咄嗟に自分の頬へ手を当てた。
冷たい。外気のせいだけではないだろう。未だに心臓が妙に速く脈打っている。手の震えも完全には収まっていなかった。
亜笠の視線が、自分の顔から手元へと落ちる。
明日葉は誤魔化すように、スマートフォンをコートのポケットへ押し込んだ。
「…………」
言うべきだろうか。
昔の知り合い――――雨宮に紹介された男に、会った。
雨宮の連絡先を聞かれて、教えた。
ただ、それだけ。
庵司はもういない。明日葉に何かをしたわけでもない。目的も済んで、おそらくもう二度と会うことはないだろう。
亜笠は本社に異動したばかりだ。慣れない環境で毎日遅くまで働いている。今日だって仕事が長引いて、待ち合わせに遅れている。
そんな亜笠に、わざわざ余計な心配をかける必要はない。
明日葉は、そう考えた。
――――そう、考えてしまった。
「……何でもないよ。少し人に酔っただけ」
笑ってみせる。上手く笑えているかどうかは、自分でもわからなかった。
亜笠はしばらく明日葉の顔を見つめていた。
「……そうですか」
「うん。ここ人多すぎだよ」
「新宿ですから」
それ以上、亜笠は追及してこなかった。
「じゃあ行きましょうか」
「うん……」
亜笠が明日葉の手を取って歩き出す。傍にある亜笠の肩を見た。
その存在に、冷えた手を包む体温に、少しずつ呼吸が楽になっていく気がした。
大丈夫。もう庵司はいない。何もされていない。
だから、言わなくていい。
そう自分に言い聞かせながら、明日葉はコートのポケットの中で、スマートフォンを強く握り締めた。
庵司は――――雨宮が連れてきた相手の中でも稀有な存在だった。
その女性のような容姿と話し方もそうだが、何より、誰もが自分を性処理相手としか見なさない中で、庵司は明日葉によく話しかけてくれた相手だった。
「雨宮、あいつ他で相当遊んでるわよ。あなたも少しくらい遊んで、嫉妬させちゃえばいいんじゃない?」
そう言って二人で会おうと言って連絡先を聞いてきたのも、庵司だった。明日葉は雨宮以外の人間としたいとは思わなかったので、首を横に振って断った。
庵司は――――優しかった、と思う。身体を重ねる時も無茶なことはされなかった。
でも、だからと言って雨宮の連絡先を勝手に教えても良かったのだろうか。いや、困っていたなら、そのくらい……。
明日葉はタバコを手に、換気扇に吸い込まれていく煙を見ながらぐるぐると考えていた。
「護さん?」
雨宮に直接聞いてみるべきだろうか……。
「護さん!」
亜笠に呼ばれて、明日葉はハッとして顔を上げた。
「えっ、何?」
「灰、落ちますよ」
見ると指に挟んだ煙草の灰が、今にも床に落ちようとしていた。
「あっ、ごめん!」
慌てて灰皿に落とす。ギリギリ間に合った。
見ると、亜笠が怪訝な眼差しでこちらを見ていた。
「……どうしたんですか。今日、何かありましたか?」
「何でもないよ、ちょっと考え事してただけ」
そう言って明日葉はタバコをもみ消した。
あれからアートイベントを見て回り、二人は家に帰ってきた。夕食も風呂も済ませた後だった。
今日は金曜の夜。明日は二人とも休み――――当然、明日葉も「準備」を済ませた後だった。あとは二人で布団に入るだけ。
明日葉は今日の出来事を出来るだけ頭から追い出した。
心配そうな視線を寄越す亜笠に微笑みかける。明日葉は亜笠の手を取ってベッドへと引っ張っていった。
ベッドに腰を掛けた亜笠の上にのしかかる。明日葉は亜笠の首に腕を回して、その唇にキスをした。
亜笠も口を開いて応じてくれる。しばらく舌を絡め合うと、お互いに息が上がっていった。自分の服を脱ぎ、亜笠の服に手をかける。亜笠は意図を察して、自分から脱いでくれた。
ベッドに横たわると、亜笠が明日葉の腰を跨いで、覆いかぶさってきた。
亜笠の手が明日葉の頬に伸びてきた。
その瞬間。
明日葉の脳裏に、知らない男たちの顔が、手が、その感触が一気に蘇ってきた。
バシッと手を打つ音が部屋に響く。
明日葉は――――反射的に、亜笠の手を振り払っていた。
「…………え?」
その時、自分でも何が起きたのか、わからなかった。
明日葉は呆然と、振り払われた亜笠の手と、振り払った自分の手を、交互に見た。
「あ――――いや、ちがっ、これは……っ!」
明日葉の顔がさっと青くなった。
どうしよう。違う。したくないんじゃない。亜笠が嫌なんじゃない。
怖いわけじゃないのに――――どうして。
そう思えば思うほど身体は言うことを聞かなかった。ガタガタと震え出し、涙を滲ませる明日葉を見て、亜笠はしばらく固まっていた。
「誠一郎、今のは、ちがくて……」
明日葉が震える声で言うと、亜笠はハッとしてかぶりを振った。ベッド下に落ちていた服を拾って身につける。
「大丈夫、わかってますよ」
そう言って優しく微笑むと、明日葉のスウェットを拾って頭に被せてくれた。
「裸でいると風邪引いちゃいますからね」
「ごめん……本当に違うんだよ……」
スウェットに頭を通しただけの間抜けな状態で、明日葉はポロポロと涙を流した。亜笠はそっと明日葉の頭を撫でた。
「落ち着いて。大丈夫ですよ。護さんが僕のこと大好きだっていうのは、ちゃんとわかってますから」
とりあえず着ちゃいましょう、と言われ、明日葉は泣きながら服を着た。
下も履くと、ベッドに横になるように言われた。上から布団と毛布をかぶせられる。ぐちゃぐちゃの顔にティッシュを押し付けられて、明日葉は思いっきり鼻をかんだ。
「とりあえず今日はもう寝ましょう」
布団の上から、ポンポンと胸のあたりを優しく叩かれる。
「う……誠一郎は……」
明日葉がそう言うと、亜笠が苦笑した。
「僕はトイレ行ってから寝ます」
見ると、亜笠の下はまだ張りつめていた。
「ごめん……」
「護さんが謝ることじゃありません」
申し訳なさにまた涙が出てくる。
自分から誘ったのに。自分からキスをして、触れて、それなのに最後にはあんなふうに手を振り払った。
それでも亜笠は、何も聞かなかった。
「誠一郎……」
「はい」
亜笠がベッドから離れようとする。明日葉は布団から手を出して、亜笠の服の裾を引っ張った。
「寝る時は、隣で……」
掠れた声でそう呟く。
亜笠は一瞬目を丸くした。それから、ほっとしたように微笑んだ。
「――――わかりました」
その言葉に、明日葉はようやく安心して目を閉じた。
けれど、その夜はなかなか眠れなかった。




