明日があるさ7【第五話】
年末はあっという間にやってきた。
異動騒動もあり、クリスマスは家でケーキを食べるくらいしか出来なかった。亜笠は「来年こそはディナーを……」とぼやいていたが、明日葉は家で食べる照り焼きチキンとケーキで十分だった。
プレゼント交換も事前に予告されていたので、明日葉は真っ白なカシミアのマフラーをプレゼントした。亜笠はいたく気に入ってくれた。
亜笠からは、通勤時にも着れるシンプルなデザインの黒いダウンコートをプレゼントされた。いくらしたのか聞いたが、目を逸らすだけで答えてはもらえなかった。着るのが怖いな、と明日葉は思った。
年末は年末で、亜笠が休日当番にあたりすれ違いとなってしまった。明日葉は手首が完全に回復するまで休日当番を免除されていたので、家でゴロゴロするしかなかった。
「年末年始は明日葉さんのご実家に泊まろうと思ってたのに……残念です」
紅白を見ながらがっくりと項垂れる亜笠を慰めつつ、明日葉は正直なところほっとしていた。
そうは言いつつ、亜笠は芙美子と一緒に祖父母宅である芦屋家にはしっかりと挨拶に行っていた。ちなみに、明日葉も引きずって連れて行かれた。
亜笠の祖父には散々絡まれたものの、最終的には高級焼菓子やら上等な生肉やらを手土産に持たされて帰宅した。
亜笠一族との賑やかな正月に戸惑いつつも、明日葉は穏やかな気持ちで新年を迎えた。
それから営業日までの数日を、亜笠は営業復帰への勉強期間として過ごしていた。さすが段取りの鬼、何事にも余念がなかった。明日葉は横でゴロゴロしながら、静かに見守った。
そして迎えた仕事始め。
亜笠は真っ白のカシミアのマフラーを巻いて、玄関に立っていた。
「それじゃあ行ってきます」
本社までここから一時間はかかる。家を出る時間も当然別々だ。
「うん、気を付けて」
明日葉が手を振ると、亜笠がにっこりと笑った。
「今日は絶対あのダウン着ていってくださいね」
「ああ……うん」
明日葉は値段のわからないダウンコートを今日まで着れずにいた。いくらしたのかを考えると、怖くて着れなかった。亜笠に釘を刺されたので、今日は仕方なく着ていくが。
亜笠が手袋を嵌めた手を振った。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
そう言って、亜笠を送り出す。
新年と共に、新しい生活がスタートした。
新生活はそれなりに順調だった。
もちろんすれ違いは多くなった。亜笠は残業で夜遅くなることが多くなったし、休日も関係者との付き合いで潰れることがあった。
明日葉は明日葉で、サポーター付きではあるものの骨折が完治宣告されたことで業務も完全復帰となり、休日当番も受け持つようになった。
多少のすれ違いに寂しさはあったが、それでも毎日顔を合わせることには変わりない。
明日葉は遅く帰ってくる亜笠のために夕食をつくったり、掃除洗濯をしたり、優先的に家事を引き受けた。亜笠ほど丁寧ではないので自信はなかったが、それでも残業で遅くに帰ってくる亜笠には相当嬉しかったらしく、初日なんかは食卓に並んだ焼き魚と味噌汁を見て少し涙を流していた。何も泣かなくても、と明日葉は少し引いた。
お互いが休める日には一緒に家事をしたり、買い物に出掛けたりした。たまにベッドから出ない日もあった。
明日葉の方は仕事も順調だった。
亜笠が構築した業務分散は非常に上手くいっていた。明日葉も無闇やたらに手を出すのはやめて、人に頼めそうなものは一度声をかけるようにした。大柴も積極的ではないにしろ、頑張ってピッキングを継続していた。亜笠がいなくなった分の忙しさは多少あるものの、それでも以前に比べたらずっと楽だった。
その上、来月には中途採用で新しい人が入ってくることが決まった。明日葉は本社勤務の亜笠からこの情報を聞いていた。
久しぶりに揃って夕食を食べた後、二人はダイニングテーブルに向かい合って座っていた。亜笠は湯呑を手に口を開いた。
「明るい、いい感じの人でしたよ。女性にしては背が高い方でしたね」
「へぇ、女の人なんだ」
「22歳です」
そこまで言って、亜笠はにっこりと笑った。圧の強い笑顔だった。
「護さん……間違いを起こさないように」
「いやだからおれにはお前がいるでしょうに……」
何でそこ疑うかな、と言うと亜笠は上機嫌に足を擦り寄せてきた。
一方、亜笠の方はというと、慣れない環境でかなり大変そうだった。
「しばらく前線から離れてましたからね、勉強することがたくさんあって……MRとMSとではまた役割も違いますし」
製薬企業の医薬情報担当者のことをMRと呼ぶ一方で、医薬品卸業の販売担当者のことはMSと呼ばれている。MRは自社製品を取り扱うのが主だが、MSは医薬品をはじめとする様々な企業の医療関係製品を取り扱う。中立的な立場からの製品提案をしなければならない分、広範な知識を求められる。
明日葉は亜笠の話を聞いて改めてゾッとした。おれはこんな荒波に飛び込むつもりだったのか……。
だが意外にも亜笠は肯定的だった。
「最初聞いた時は本当にバカだとは思いましたけど」
「言い方」
「でも護さん、商品知識と現場経験はしっかりあるじゃありませんか。それは結構な武器ですよ」
「え、そ、そうかな……」
えへへ、と照れていると亜笠は無表情で言った。
「ただし真っ直ぐすぎる性格は営業向きではないですね」
冷静な交渉が出来ない時点で論外です、とバッサリと切られた。前科があるだけに何も言い返せなかった。
「人間関係はどう? なんか、本社の営業で一人嫌な感じの人いたけど」
「ああ、柏木さんじゃないですか、それ。黒縁眼鏡で短髪の」
「あ、たぶんその人」
旭のことを異動して当然だと言った男だ。明日葉は渋い顔をした。亜笠にも何か言っているんじゃないだろうかと心配だった。
「まあ護さんと付き合ってるのかホモかとかいろいろ言っては来ましたけど」
「やっぱり!」
「前の職場の人たちからすると、全然。あんなの可愛いもんですよ……。柏木さん以外の方たちはみんなまともで良い人たちばっかりですしね」
亜笠は遠い目をしてお茶を啜った。明日葉は詳細を聞いていないが、前職ではかなりの修羅場をくぐってきたらしい。八城製薬で一体何があったんだ……。
「でも腹は立つので護さんのノロケをいつも聞いてもらっています」
亜笠は亜笠で全然負けていなかった。明日葉は自分の頭を押さえた。
「え、待って。ノロケって一体何を聞かせてるの?」
「ご飯をつくって待っててくれるとか、落ち込んでると鳩の餌を持ってきて鳩まみれにして慰めてくれるとか、プレゼントした高級なコートを怯えながらも毎日着ていってくれるとか、機嫌がいいと替え歌を歌って笑わせてくれるとか、意外に甘えん坊で可愛いところがあるとか」
「ちょっと待って、いろいろツッコみたいけど一番被害受けてるの柏木さんじゃなくておれじゃない?」
っていうかやっぱりあのコート高かったんだな!? 明日葉は心の中でツッコんだ。
そんなくだらない会話を交わしながら、毎日が過ぎていった。
そして、あっという間に一月半ばを迎えた頃。
金曜の夜――――明日葉は亜笠と待ち合わせをしていた。
亜笠が見たいアートイベントがあると言うので、はるばる新宿まで足を運んでいた。亜笠はいたく心配して、何度も「いいですか? 東南改札ですよ。南でも新南でもありませんよ? 東南です」と口にしていたが、何てことはない。ちょっと――――正確に言えば30分くらい――――迷いはしたが、無事に東南改札に出ることが出来た。
明日葉は改札近くの自販機の傍に立っていた。待ち合わせの時間になっても、亜笠の姿は辺りには見えなかった。
スマートフォンを手に取ると、すでに連絡が来ていた。
『すみません、少し遅れます。あと15分で着きます』
営業は時間が読めないことも多い。仕方ないか、とため息をついて、返事をしようとスマートフォンを操作した。
その時、ふと人影が前に立った。明日葉は自販機を使いたいのかなと思い、スマートフォンの画面から視線を外さずに、横に一歩踏み出して人影を避けた。
人影は――――明日葉についてきた。
スマートフォン越しに足元を見る。
ヒールのついた、編み上げの黒いブーツ。黒いロングスカートは、大胆に太腿辺りからスリットが入っていた。腰には細いベルト。グレーに黒の派手な模様が入ったブラウスに、丈の短い黒のファーコートを着ていた。
明日葉はスマートフォンから顔を上げた。
そこには、レイヤーカットの長髪の美女が立っていた。背がかなり高い。明日葉よりも頭一つ分は高かった。明るいベージュの髪をさらりと揺らし、化粧を施した顔に柔らかな笑顔を浮かべて、明日葉の顔をじっと見つめていた。
淡いピンク色の唇が開いた。
「ねえ、あなた」
女性にしては低い声だった。まるで、男のような。
「護ちゃんよね」
その呼び名に、明日葉の血の気が下がった。
違う。女じゃない。男だ。
「久しぶりね、元気だった?」
その男――――庵司は、ニコリと微笑んでそう言った。




