明日があるさ7【第四話】
自宅へ帰ってからも、亜笠のお説教は続いた。
夕食と風呂を済ませ、明日葉は台所の換気扇の下でスツールに座り、タバコを吸っていた。今日はもう散々怒られた。事務長に怒られ、櫟に呆れられ、亜笠にも散々小言を言われた。さすがにもう勘弁してほしかった。
が、そんな明日葉の願いも虚しく、風呂から上がってきた亜笠は、タオルで濡れた髪を拭きながら明日葉の隣に立った。
「どうして僕に相談してくれなかったんですか」
まだ終わっていなかった。明日葉は手元のタバコに視線を落とした。
「それは……はい、すみませんでした……」
「何であなたはそう一人で突っ走るんですか……まず他に相談することを覚えて下さい」
「おっしゃる通りです……」
何度目かわからない反省の言葉を口にする。
「本社、行くんですか」
亜笠が髪を拭く手を止めた。
「まだわからない。旭さんにも話聞くって、社長が言ってた」
「社長に直談判できるのに何で僕には相談できないんですか」
「なんでだろうね」
えへっと笑いながら他人事のように答えると、亜笠がギッと睨んできた。明日葉は誤魔化すようにそっぽを向いて煙を吐いた。
怒られて当然だとは思う。
思うが、それでも――――
明日葉はタバコを灰皿に押し当ててもみ消した。
「でも、決まったら――――行こうと思う」
それまでの情けない表情を消して、真面目な顔で亜笠を見た。
亜笠は何も言わなかった。しばらく明日葉を見つめた後、確かめるように口を開いた。
「……営業、ですよ」
「うん」
わかっている。
得意先との付き合いもある。飲み会もある。場合によっては休日まで潰れる。今まで自分がやってきた在庫管理とは、まるで違う仕事だ。
帰りの電車では、想像しただけで青くなった。
それでも、自分から言い出したことを今さらなかったことにはできなかった。
「仕方ないよ。おれが言い出したことだし」
きっぱりと言う。亜笠が深いため息をついた。
「旭さんが奥さんも具合が悪くて、お子さんが小さいから異動したくないというのはわかります。でもだからって自分自身を差し出さなくてもいいじゃありませんか」
明日葉は視線を落とした。
「他に思いつかなかったんだよ……」
ぽつりと呟く。亜笠は何も言わなかった。
明日葉だって、旭のためなら何を犠牲にしてもいいと思っているわけではない。本社営業なんて不安でしかないし、できることなら今まで通り青梅で働いていたい。
それでも、旭には旭にしかできないことがある。
体調を崩している奥さんの傍にいることも、まだ小さな子供と過ごすことも、旭にしかできない。
けれど仕事なら、自分にも代われる。
ただそれだけだった。
「……勤務地、バラバラになるんですよ」
「……それは確かに少し寂しいけど」
明日葉は亜笠の隣に立った。まだ濡れた髪にかぶさっているタオルを取って、亜笠の髪の毛を拭く。それから手を止めて、その唇にキスをした。
「こうやって、一緒に暮らして、傍にいれるしさ」
まったく平気って訳じゃないけど、と呟くと、亜笠は明日葉のことを抱き締めてきた。
「本当に、バカでお人好しなんだから……」
「誠一郎……」
顎を取られ、キスされる。唇を開くと亜笠の下が口の中に潜り込んできた。深いところまで舌でまさぐられて舌を吸われる。明日葉は亜笠の首に手を回した。
「はっ……ん……」
「……タバコの匂い」
亜笠がポツリと呟いて、唇を離す。明日葉は名残惜しくて、もう一度その唇にキスをした。
「…………絆されませんからね」
亜笠が憮然として言った。明日葉は読まれていたか、と心の中だけで舌打ちした。にこっと微笑んで、亜笠を誘う。
「明日仕事だけど、したい」
「…………だから、何でそうあなたは……」
亜笠の頬は少しばかり赤くなっていた。
長いため息をついてから、亜笠は明日葉にキスをした。
「護さん――――青梅営業所を離れたいわけじゃないんですよね」
明日葉のことを抱き締めながら、ふと亜笠が言った。
「うん……そうだけど」
「在庫管理の仕事、続けたいんですよね?」
「まあ、できれば」
亜笠はそう言うと目を閉じた。
「わかりました」
明日葉は首を傾げた。どうしてそんなことを聞くのだろう、と思った。
だが、亜笠の手が服の中に潜り込んできて、それ以上考えることが出来なかった。
翌日、本社から社長が青梅営業所へやって来た。旭の異動について、本人を交えて改めて話をするためだった。
午後になり、明日葉と旭は二人揃って応接室へ呼ばれた。
扉を開けると、テーブルを挟んだ向こう側のソファに社長が座っていた。社長の後ろには眼鏡をかけた男性秘書が、忠実な下僕のように無表情で佇んでいた。
昨日、本社であれだけの騒ぎを起こした手前、顔を合わせるのが少し気まずかった。
「失礼します」
昨日とは打って変わって静かに挨拶をして、旭と並んでソファに座った。
社長は明日葉をちらりと一瞥したが、昨日のことについては別段何も口にしなかった。
「――――旭」
社長に名前を呼ばれ、旭が顔を上げた。
「昨日電話でも話したが、お前の事情は聞いた」
「……はい」
「奥さんの体調がまだ戻っていないことも、子供が小さいこともわかっている。会社としても、無理に家庭を犠牲にしろと言うつもりはない」
旭が小さく頭を下げる。
「ありがとうございます」
「だが本社の事情も変わらん」
社長は二人を順番に見た。
「営業が一人、産休に入る。本社の営業には絶対に一人必要だ」
応接室に沈黙が落ちた。壁に掛けられた時計の秒針だけが、やけに大きく聞こえた。
「どうする」
短い問いだった。
明日葉にはわかっていた。隣の旭が、答えられないことを。
会社に迷惑をかけたいわけではない。誰かに自分の仕事を押しつけたいわけでもない。けれど今、家庭を置いて本社営業へ行くとも簡単には言えない。
旭はそういう人だった。だからこそ明日葉は旭を好いていた。
明日葉は、膝の上で震える拳をぎゅっと握った。
「おれが行きます」
旭が勢いよく顔を上げる。明日葉はそんな旭に微笑んだ。
「明日葉」
「おれが本社の営業に行きます」
もう一度、今度ははっきりと言った。声だけは震えないように。
怖かった。でも逃げるつもりはなかった。
「昨日も言った通り、営業経験はありません。でも商品知識はあります。病院や薬局のことも、現場である程度見てきました。足りないことは覚えます」
「でも、お前――――」
旭が何か言おうとするが、明日葉は小さく首を横に振った。
「大丈夫です」
営業の飲み会を想像しただけで昨日は青くなったし、ゴルフなんかクラブすらまともに握ったことはない。
だが――――在庫管理だって未経験だったのだ。
毎日愛染にせっつかれ、怒鳴られながらそれでも何とかここまでやってこれた。配達経路だって、道を覚えるのはあんなに苦手だったのに、今では誰よりも早く目的地にたどり着くことが出来る。やってみれば案外何とかなるものだ。
だから、大丈夫。明日葉は自分にそう言い聞かせた。
社長は腕を組み、黙って明日葉を見つめた。
「本当にいいんだな」
「はい」
明日葉は躊躇なく頷いた。
その時だった。
応接室の扉をノックする音が聞こえた。
社長が秘書に目配せした。
「入れ」
秘書がさっと扉を開いた。
「社長、お話し中失礼します」
聞き慣れた声に、明日葉は思わず振り返った。
相変わらずの無表情で、亜笠がそこに立っていた。
「亜笠……?」
亜笠は一度だけ明日葉を見た。すぐに視線を外して、少し頭を下げてから応接室へ足を踏み入れた。テーブルの横に立つと、真っ直ぐに社長を見た。
「僕からもお話があるのですが、少しお時間いただいてもよろしいでしょうか」
社長が首を縦に振った。
「何だ」
「はい」
昨日の夜、亜笠には散々説教された。勝手に社長へ直談判したことも、一人で突っ走ったことも、自分自身を差し出すような真似をしたことも。
明日葉は咄嗟に身構えた。自分を止めに来たのだろうか。
が、耳に入ってきたのは明日葉の想定外の言葉だった。
「異動のお話、僕ではダメでしょうか」
応接室に沈黙が落ちた。旭と明日葉は目を瞬いた。社長と秘書だけは、眉一つ動かさずに聞いていた。
「旭さんも営業の勤務経験は5年以上前ですし、明日葉さんに至っては勤務経験すらありません。今まで営業をしていた人間の穴を埋めるとなると、欲しいのは即戦力でしょう。直近でMR経験がある僕が行くのが一番妥当かと思います」
誰も何も言わなかった。
明日葉はぽかんと口を開けたまま亜笠を見上げた。旭も同じような顔をしていた。
社長は手を組んだまま、微動だにしなかった。
明日葉は額に手を当てた。
――――なぜ、思いつかなかったのか。
目の前にいるではないか。
大学卒業後、製薬会社に入社してMRとして働いていた人間が。営業経験があるどころか、医療機関を相手に医薬品の情報提供をしていた人間が。
昨日から散々、営業経験があるだのないだの、即戦力が必要だのと話していたくせに、どうして亜笠という選択肢に辿り着かなかったのだろう。
社長を見ると、彼は当然とばかりに答えた。
「お前も候補には上がっていた」
「なら」
「だが私が除外したんだ。お前はまだ入社一年未満で、在庫管理にも適性がある。あそこはさすがに大柴と明日葉の二人だけでは回らん」
それまで社長の後ろに控えていた秘書が、眼鏡を押し上げながら口を開いた。
「青梅営業所の在庫金額ですが、亜笠さんが入社してからかなり適正に抑えられています。亜笠さんが入って通常業務が落ち着いたおかげで、明日葉さんが在庫管理に集中できているからでしょう。社長はそのことも考慮されていました」
「え……そうだったんだ……」
当事者ながら、明日葉は驚いた。会社がそこまで見てくれていると思っていなかったからだ。
「そこは問題ありません」
亜笠がきっぱりと言った。
「明日葉さんの休職中に業務の分担を見直しました。大柴さんにも通常のピッキング業務は一通り覚えていただいていますし、急配についても配送員が不在の場合は別部署の手が空いている方にお願いするようにしました」
「亜笠……」
明日葉は亜笠を見上げた。
自分が休んでいた一ヶ月半、彼は――――ただ単に、明日葉の穴を埋めていただけではなかった。
明日葉がいなくても業務が滞らないよう、大柴に仕事を教え、他部署にも協力を求め、少しずつ仕事を分散させていた。
復帰してから仕事を取り上げられているような気分になっていたが、あれもすべてその一環だったのだ。
社長はしばらく考えるように亜笠を見つめていたが、やがて口を開いた。
「それは明日葉が復帰するまでの一時的な体制だろう。お前が抜けた後も継続できるのか」
「できます」
亜笠は迷うことなく答えた。
「来月になれば明日葉さんも完全復帰できますし、その後も業務を抱え込まないようきつく言っておきますから」
明日葉の身体がビクッと跳ねた。突然自分に矛先が向いた。
恐る恐る横を見ると、亜笠がこちらへ視線を向けていた。その目には、今後また一人で仕事を抱え込んだら許さないという無言の圧が込められていた。
明日葉は黙って目を逸らした。
普段から散々言われ続けていることなので、何も反論できなかった。
「……いいのか」
ふと、社長が尋ねた。
「はい」
「お前が本社勤務になったら、明日葉とは離れ離れだぞ」
思わず明日葉は社長を見た。
そこを心配するのか、と首を傾げる。確かに勤務地は離れるが、別に遠距離恋愛になるわけではない。同じ家に帰るのだから、離れ離れという表現はいささか大袈裟ではないだろうか。
言われた亜笠は特に動じなかった。
「構いません」
そう言って、ソファに座る明日葉に視線を向けた。
「どちらにせよ、僕が異動しない限りこの人が飛び出していきそうですから」
亜笠が困ったように苦笑した。
明日葉はその顔を見て、昨日の会話を思い出した。
『護さん――――青梅営業所を離れたいわけじゃないんですよね』
ただ単に自分の気持ちを確認しているだけだと思っていた。
「お前……もしかしてあの時から、こうするつもりで……?」
呆然と呟くと、亜笠が小さく頷いた。
「でも、俺の代わりに行くなんて……」
それまで黙って話を聞いていた旭が、申し訳なさそうに口を開いた。
眉を下げたその顔には、明らかな罪悪感が滲んでいた。
自分が家庭の事情を口にしたせいで、今度は亜笠が青梅を離れることになる。そう考えているのだろう。
亜笠は旭へ視線を向けた。
「合理性で考えれば、一番の適任は僕でしょう。旭さんが気に病むことじゃありません。もちろん、明日葉さんも」
淡々とした声に、明日葉は急に自分が恥ずかしくなった。
自分が旭を異動させたくない一心で、他の人間に相談することなく自分を差し出そうとしていた横で、亜笠はこんなにも冷静で、現実的な方法を思いついていた。
最初から亜笠ときちんと相談すべきだった、と、明日葉は深く反省した。
「それに、仕事は別々になったとしても、家では会えますから」
亜笠の言葉に、明日葉は顔を上げた。昨日、自分が家で言った言葉を思い出した。
『こうやって、一緒に暮らして、傍にいれるしさ』
亜笠も同じように思ってくれていたのだ。
明日葉は亜笠と目を見合わせて――――二人で笑った。
そんな二人を交互に見て、社長が不意に口を開いた。
「……亜笠」
「はい」
「結婚式には呼べよ」
明日葉の目が半眼になった。普通するか? 今、その話を。
亜笠は社長に一礼して言った。
「祝辞、お願いします」
「おい」
明日葉は即座にツッコんだ。いや社長も満足そうにうんうん頷かないでくれ。亜笠に至っては当然ですみたいな顔してるし。
隣の旭は口を押さえて小さく震えていた。秘書はやれやれといった雰囲気で眼鏡を押し上げた。
つい先ほどまで張り詰めていた応接室の空気が、一気に緩んだ。
「異動の件についてはわかった」
社長が改めて亜笠を見た。
「本社とも調整するが、お前を第一候補として進めよう。青梅については、今言った体制を維持すること。明日葉」
「はい」
突然名前を呼ばれ、明日葉は背筋を伸ばした。
「亜笠がいなくなった途端、また何でもかんでも一人で抱え込むなよ」
「…………はい」
「返事が小さい」
「はい!」
思わず声を張る。
隣を見ると、亜笠がわずかに笑っていた。
――――こうして、話し合いはお開きとなった。
数日後、亜笠の本社異動が正式に内示された。
旭は最後まで申し訳なさそうにしていたが、亜笠が自分の代わりに明日葉の無茶を監視してくださいとお願いすると、わかったと言って快く了承してくれた。
明日葉はそれを複雑な気持ちで眺めていた。いや本人がいないところでやってくれよ、とも思った。
来月――――年明けから、亜笠は本社に異動になる。
明日葉は自分の右手を見た。まだサポーターは外せない。重量物も持てないし、動きも完全に治っていない。そんな中で亜笠がいなくなるのは、もちろん不安だった。
それでも、自分が休んでいた一ヶ月半、青梅営業所はちゃんと回っていた。
亜笠が一人で明日葉の穴を埋めたからではない。
大柴がピッキングを覚え、旭が手を貸し、泉や今宮がいつも以上に動いてくれた。他部署の人間にも助けてもらった。
明日葉がいなくても、誰か一人が無理をしなくても、仕事は回すことができる。
その形を作ったのは亜笠だった。
ならば今度は、自分がそれを引き継げばいい。
何でも自分でやろうとせず、人に頼る。任せる。困った時には相談する。簡単そうに見えるが、明日葉にはまだ難しい。
けれど、少しずつ覚えていけばいいのだ。在庫管理を覚えた時のように。
仕事が別々になっても、亜笠との生活がなくなるわけではない。朝になれば同じ家から出て、夜になれば同じ家に帰ってくる。
だから、きっと大丈夫。
明日葉はそう思った。
年が明ければ、また少し生活が変わる。
それがどんな毎日になるのかは、まだわからない。
それでも――――
明日葉は隣にいる亜笠を見た。
一人で何とかしようとは、もう思わなかった。




