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明日があるさ  作者: いぬまた
第七章
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明日があるさ7【第三話】






「亜笠ぁ、おれそろそろ本社に行ってくるね」

 14時過ぎ、明日葉は入荷した商品の検品をする亜笠に声をかけた。

「はい。復帰後の面談でしたっけ?」

「そうそう。診断書もついでに提出してくるわ」

 明日葉は机の上に置いていた封筒を手に取ってひらひらと振った。

「気を付けて行ってきてください」

「はーい」

 サポーターを嵌めた右手を軽く上げて返事をする。そのまま詰所を出ようとしたところで、背後から情けない声が飛んできた。

「早めに帰ってきてください~」

 振り返ると、大柴が伝票の束を手に縋るような眼差しを向けていた。

「善処します」

 大柴の懇願に明日葉はそっけなく返した。

「絶対ですよ~」

「大柴さん、明日葉さんがいなくてもちゃんとやってください」

「えぇ~……」

 すかさず亜笠に釘を刺され、大柴が肩を落とす。明日葉は笑いを堪えながら倉庫を後にした。

 この時の明日葉は、面談を終え、診断書を提出したら、そのまま何事もなく青梅へ戻ってくる――――つもりだった。

 本社に到着し、面談を受けた明日葉は、その足で人事部に診断書を提出した。

 本社は広いフロアをパーテーションで部署ごとに区切った造りになっている。人事部の島まで行き、その場にいた人事の女性に診断書を手渡す。一言礼を言って、明日葉はその場を後にした。

 面談は思っていたよりも時間がかからなかった。これなら大柴の希望通り、早めに青梅へ戻れそうだ。

 そんなことを考えながらオフィス内を歩き、営業部のすぐ脇を通り過ぎた時――――その声は、聞こえてきた。

「旭って青梅の奴だろ? 男で何ヶ月も育休取ってた奴」

 明日葉の足がビタッと止まった。顔は向けずに、目線だけを動かして声の出所を見た。

 短髪の黒縁眼鏡をかけた男が、デスクに腰掛けるようにして、他の営業の男性と話していた。

「まあ、今時ありえなくはないだろ」

 相手の男性はパソコンから目を離さないまま、興味なさそうに答えた。

「うちだって男で育休、何人か申請してるじゃん」

「いや、でも迷惑だろ」

 眼鏡男はそれを鼻で笑った。

「男で育休まで取って、その上子供が小さいから異動できませんって。こっちは産休で一人抜けるんだぞ。だったら補填するくらい当然だろ」

 その言葉を聞いた瞬間、明日葉の中でカーンとゴングが鳴った。

 眼鏡男が立っているデスクまで行き、バンッと両手を叩きつけた。

「なっ、何だよ、お前……」

 狼狽える眼鏡男をキッと睨みつける。サポーターを嵌めた右手がビリビリと痺れるように痛んだが、今はそんなことどうでもいい。

「――――青梅営業所の明日葉です」

 明日葉は低い声で自己紹介した。

「育休取って何が悪いんですか」

「わ、悪いとまでは……」

「補填するくらい当然って、何で旭さんにだけ皺寄せが来るんですか」

「いや、だって自分が育休取ったんだから、そのくらい当然だろ!?」

 明日葉の目がつり上がる。

 男は困惑した顔を浮かべながらも、ハッと気が付いて明日葉を指差してきた。

「あれ、お前、もしかして男と付き合ってるっていう――――」

「今はそんな話してるんじゃあないんですよ!!!」

「へ?」

 明日葉が怒りに任せて叫ぶと、眼鏡男は間抜けな声を出した。

「談判してやる」

「はい?」

 明日葉はそう呟くと、首を傾げる眼鏡男を差し置いて踵を返した。

 オフィスを抜け、階段を昇り、『社長室』と書かれた扉をドンドンドンと無遠慮にノックした。社長の「入れ」という声が聞こえたので、勢いよく扉を開く。

「失礼します!」

 広い社長室の奥、窓際に置かれた大きなデスクの向こうに40代半ばくらいの男が座っていた。細面に、真っ直ぐに通った鼻筋。黒髪をきっちりと後ろに流したその姿は、切れ長の瞳も相まってかなりの男前に見えた。

「まったくだ。そんなノックをするのはお前くらいだぞ、明日葉」

 そんな男前――――我が社の社長は、呆れたようにそう言った。

 傍らには眼鏡をかけた若い男性秘書が書類を手に立っていた。突然の闖入者に驚いた様子もなく、ちらりと明日葉を見るだけだった。

「旭さんの異動の件でお話があります!」

 挨拶もそこそこに、明日葉はつかつかとデスクまで歩み寄った。

 社長が秘書に目配せをすると、秘書は頭を下げてそのまま社長室を出て行った。

 社長は明日葉の剣幕にも一切動じずに、サポーターの巻かれた右手へ目を向けた。

「手首の具合はもういいのか」

 淡々と言う相手に苛立ちを覚えながら、明日葉は叫んだ。

「そんなことより旭さんの件ですよ!」

「そんなこととは何だ。一ヶ月半だぞ。お前がいなくてつまらな――――大変だったんだ。亜笠にも電話してくるなとこっぴどく叱られた」

「今つまらないって言いかけました?」

「旭の件か? 本人から聞いたのか」

 明日葉の言葉に被せるように社長がそう言った。露骨に話を逸らしてきた。

 明日葉はハッとして拳を握った。そうだ、今はツッコんでいる場合ではない。

「なんで小さいお子さん抱える旭さんが異動なんですか、奥さんだって産後で具合が悪いのに!」

 社長はわずかに眉を上げたものの、特に動じることなく椅子の背もたれに身体を預けた。

「旭は以前営業を経験している。しかも人当たりもいい。育休明けで担当している仕事量も少ない。異動にはこれ以上ない人材だと思うが」

 言われていることは理解できた。会社の人事として考えれば確かに理にかなっている。

 それでも明日葉は納得できなかった。

「でも旭さんは定時で上がれて、土日きちんと休めるあそこにわざわざ転職してきたんです! それを今更営業に異動なんて……」

 旭がどれだけ奥さんと子供を大切にしているか、明日葉はよく知っていた。

 プロポーズの話も聞いた。奥さんが妊娠した時だって、嬉しそうに話していた旭の顔を今でも覚えている。奥さんのつわりがひどくて心配していたことも、子供の名前を一生懸命考えていたことも、全部間近で見てきたのだ。

「仕方ないだろう。本社の営業は穴が出来たら困る」

 社長の言葉に、明日葉は反射的に叫んでいた。

「じゃあおれが異動します!」

 社長が目を瞬かせた。

「お前が? 営業の経験はないだろ」

「経験ないけどがんばります! 現場もよく知ってるし!」

「…………」

 社長はすぐには答えなかった。

 明日葉をじっと見つめ、何かを値踏みするように目を細める。

「おれなら残業でも休日出勤でもなんでも大丈夫です!」

 櫟が聞いたらまた『社畜』と言われそうなことを、明日葉は畳みかけるように言った。

「…………確かに、お前は商品知識と現場経験はあるな」

 社長が顎に手を当てた。

「ならおれを異動させてください!」

「お前を、か。在庫管理はどうする」

 問われて、一瞬だけ言葉に詰まった。

 今までの明日葉ならそこで躊躇していた。だが今は、すぐに一人の顔が浮かんだ。

「亜笠がいます」

 迷いなく答えた。

「あいつはおれがいなくても現場が回るように考えてくれます」

 一ヶ月半、自分がいなくても亜笠は青梅の在庫管理を回してみせた。大柴に仕事を教え、周囲の人間に仕事を振り分け、明日葉一人に集中していた業務を少しずつ分散させている。

 もう、自分一人で背負う必要はない。

 この休職で明日葉自身が思い知らされたことだった。

「……まあ、考えておこう。異動は来月からだ。今月には決めるつもりだ」

 社長の言葉に、明日葉はほっと息を吐いた。

「旭さんは――――」

「善処する。旭とも話さなきゃならん」

「……お願いします」

 明日葉は入ってきた時の勢いが嘘のように、静かに、深々と頭を下げた。

 お騒がせしてすみません、と言って社長室を後にする。扉を閉めた明日葉は、自分が何を言い出したのか、まだ完全には理解していなかった。






 明日葉は帰りの電車の中で、自分が言った言葉を反芻していた。

 旭の異動を何としても止めたかった。だが本社には誰かしらが行かなければいけない。ならば自分しかいない。

「…………」

 明日葉はぼんやりと電車の広告を眺めた。

 営業――――在庫管理部から、営業。畑違いも甚だしい。舞台装置の裏方がいきなり舞台俳優をやるようなものだ。

 営業の江南から聞いたことがある。たまに病院の医師や薬剤師と一緒にゴルフに行くのだと。接待とまではいかないが、関係づくりに大事なのだと教わった。

 飲み会等も当然ある。江南は某大病院の男性医師から「これからホテル行かない?」と誘われて無下に断れなかったので、仕方なく他の営業も巻き込んで明け方まで飲み屋をはしごしたと笑って話をしていた。

 青梅営業所の飲み会ですらボイコットしているくせに、営業の飲み会なんて出れるのだろうか?

 明日葉は静かに頭を抱えた。

(…………なんでおれあんなこと言っちゃったんだろ……)

 青梅に着く頃には、明日葉の顔はすっかり青くなっていた。

 出発した時の晴れやかな気分は微塵もなかった。久しぶりの本社で面談を受けて、診断書を提出する。それだけだったはずだ。

 なぜこうなったのだろう。

 ノロノロと倉庫を通り抜け、詰所の扉を開けて中に入る。

「戻りました……」

 力なく声をかけると、パソコンに向かっていた亜笠が怪訝そうに明日葉を見上げた。

「どうしたんですか、そんな死にそうな声出して」

「…………」

 明日葉は答えず、黙ったまま自分の席にドサッと腰を下ろした。

「面談で何か言われたんですか?」

「いや、面談は何も……」

「じゃあ診断書に問題でも?」

「それもない……」

 亜笠が眉を寄せた。

 明日葉はしばらく机を見つめた後、呆然として口を開いた。

「おれ――――本社の営業に行くことになるかも」

「…………はい???」

 一拍置いて、亜笠が素っ頓狂な声を上げた。

「待ってください」

 亜笠は片手を明日葉に向けた。理解が追いついていないらしい。

「あなた、面談に行ったんですよね?」

「うん……」

「診断書を提出しに行ったんですよね?」

「うん……」

「何でそれで本社営業への異動の話になるんですか」

「それが……」

 明日葉はぽつぽつと事の次第を話し始めた。

 旭が本社営業への異動を打診されていること。営業部の前を通った時、育休を取った旭が欠員を補填するのは当然だと話している男がいたこと。それを聞いて腹が立ったこと。

 そして、その勢いのまま社長室へ乗り込んだこと。

「社長室に?」

「……はい」

 亜笠の声が一段低くなった。明日葉は項垂れた。

「本社の営業に欠員が出るならおれが行くって……」

「言ったんですか?」

「…………言いました」

 話せば話すほど、自分がどれだけ勢い任せに行動したのかが明確になっていった。明日葉は自席で小さくなっていた。

 すべてを聞き終えた亜笠は、しばらく何も言わなかった。

「…………バカですか」

「おれも今そう思ってる……」

「まったく、あなたって人は……」

 亜笠は額に手をあてて、深く長いため息をついた。

 返す言葉もなかった。

 明日葉はその後事務長から呼び出しを受け、事務所へと上がった。社長から電話があったらしく、社長室に直談判に行き、勝手に異動の打診をしたことをこっぴどく叱られた。明日葉は身体を小さくして聞いていた。

 事務長の説教は終業ギリギリまで続いた。

 終業後、明日葉は詰所の自席でしょぼくれていた。

 事務所で事務長と明日葉が話すのを聞いていた櫟と旭が、心配そうに詰所へ降りて来た。

 事務長の説教から大体のことを察したらしい。櫟は呆れたように明日葉を見つめ、やがて盛大なため息をついた。

「お前、ほんとにバカすぎる」

「おれなんであんなこと言っちゃったんだろ……」

 明日葉は机に突っ伏した。

 怒りに任せて社長室へ乗り込んだ数時間前の自分へ伝えてあげたい。数時間後のお前は針の筵だよ、と。

 だが、それでも、あの瞬間はそれ以外に方法がないような気がしたのだ。

「――――でも気持ちはわかるよ。僕も旭さんを動かすのは反対」

 櫟の思いがけない言葉に、明日葉はぱっと顔を上げた。

「でもお前が営業行くのもどうかと思う」

「ぐっ」

 一瞬にして叩き落とされる。明日葉は唇を噛み締めた。

「明日葉……」

 遠慮がちな声に顔を向ける。

「旭さん」

 旭は困ったように眉を下げていた。

「ごめん、俺が軽率に相談したから……まさかこんなことになるなんて」

「それは違います!」

 明日葉が慌てて否定すると、すかさず亜笠が口を開いた。

「ほんとに。旭さんもびっくりですよ」

「どんだけ直情的なんだよ、少しは考えなよ」

 櫟まで容赦なく追撃してくる。明日葉は再び机に沈んだ。何ひとつ反論できなかった。

 そんな明日葉を見かねて、旭だけが「だ、大丈夫か」と優しく笑いかけてくれた。明日葉は縋るように顔を上げた。

「旭さぁん……」

「旭さん、こいつ甘やかしちゃ駄目ですよ」

「そうですよ。また同じことやらかしますよ」

「うぇええ……」

 容赦ない二人に、明日葉は半べそをかいた。

「まあ、その、俺のことを思ってくれたんだよなっ?」

 旭は必死でフォローしてくれたが、その後も亜笠と櫟の追撃は止まなかった。事務長に説教され、同僚と後輩からも責められ、明日葉の精神HPはほぼゼロに近かった。

 方々から散々お説教を食らった後、明日葉は小さくなって帰り支度をしていた。

 櫟と旭も事務所へと帰っていく。旭は詰所を出る間際に、振り返って微笑んだ。

「明日葉――――ありがとな」

 旭の背中を見送りながら、やっぱり自分はこの人のために何かしたかったのだと、改めてそう思った。







ここまで読んでくださってありがとうございます。おかげさまでランキング入りが叶いました。

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